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【神経発達症】ニューロダイバーシティーwikipediaを理解する Vol.1

最近、発達障害がニューロダイバーシティーという言葉に置き換わりつつある(微妙な変化ですが)のを感じます。神経発達の多様性と表現されるこの言葉、果たしてどのような歴史があり、どのように今現在進化しているのでしょうか。

読み砕いていきたいと思います。英語版ウィキペディアの翻訳にいつか挑戦したい!

ニューロ・ダイバーシティ(英: neurodiversity)は、教育や障害に対するアプローチであり、様々な神経疾患は普通のヒトゲノムの差異の結果として現れるのだ、ということを提唱する。この神経学的(ニューロロジカル)と多様性(ダイバーシティ)の鞄語は、1990年代後半に、神経学的多様性は本質的に病的なものであるとする通説に対抗するものとして現れた。ニューロ・ダイバーシティは、神経学的差異は、ジェンダー、民族性、性的指向や障害と同様に、社会的カテゴリーとして認識され尊重されるべきであると主張する。神経多様性あるいは脳の多様性とも訳される。

鞄語=二つ以上の言葉を組み合わせてできた言葉。この場合、neuroが神経を、diversityが多様性を表します。

ヒトゲノム=遺伝子 

ニューロロジカル=人の神経などの脳みそを研究する学問

くらいの理解で十分でしょう。

つまり、ここで言われているのは、これまで病気だと言われてきた発達障害が、脳の多様性の一つとして認めらべきだとする主張の中でニューロダイバーシティーという言葉が生まれたということ。

性同一性障害はWHOが正式に病気ではないと公表したのに、なぜ自閉症や学習障害は病気扱いされるんだよ!?ということでしょうか。もう少し後を読んでみます。

ニューロ・ダイバーシティ運動は国際的な市民権運動として存在しており、その最も影響力のある運動として自閉権利運動を含む。この運動は、障害者の権利のスローガンである「私たち抜きに私たちのことを決めるな」のもとに、メンバーのセルフ・アドボカシーを推進している。

自閉権利運動

英語版のwikiに飛んでみます。

The autism rights movement, also known as the autistic culture movement or the neurodiversity movement, is a social movement within the context of disability rights that emphasizes a neurodiversity paradigm, viewing the autism spectrum as a result of natural variations in the human brain rather than a disorder to be cured.

自閉症は治すべき障害ではなく、脳発達の一つの形としてそのまま受け入れられるべき特徴の一つだ、と主張していく運動のこと。自閉症の子供そのものを愛そうよ、という運動という理解でいいのかな?

ニューロ・ダイバーシティの支援者は、神経学的に非定型な人々が、無根拠に受け入れられている「正常」の概念を採用したり、臨床的な理想像に適応したりすることを強要・強制されることなく、彼らの人生を生きることができるようにするための支援体制(包摂に焦点を当てたサービス、収容施設、コミュニケーションや補助のテクノロジー、職業訓練、自立支援)を支持する。

ニューロダイバーシティー運動は、正常とされる行動様式を彼らに強制することなく、そのままの姿で社会と関われるように補助していく運動、と読み取りました。きっとこの論理は、生まれつき足がない人は手術を受けないと正常な人間とはみなされないなんていう時代はもう終わっているのに、なぜ自閉症は差別されるんだ!という怒りも読み取れます。


この社会に蔓延している様々の社会規範やスティグマに対抗して、自閉、双極性、その他の神経特性を、病理や障害ではなく、ヒトの自然な変異として位置付ける。また、(運動の支持者たちは)神経学的差異をヒトの多様性、自己表現、存在の本来の在り方であると信ずるゆえに、それらは治療される必要がある(あるいは治療することができる)という考え方を退ける。

ここは簡単です。治療なんてしなくていい、むしろ治療するという考え方そのものが間違いなんだと。

シラキュース大学で開催された 2011 National Symposium on Neurodiversity によれば、ニューロ・ダイバーシティとは:
... a concept where neurological differences are to be recognized and respected as any other human variation. These differences can include those labeled with Dyspraxia, Dyslexia, Attention Deficit Hyperactivity Disorder, Dyscalculia, Autistic Spectrum, Tourette Syndrome, and others.[2]
... 神経学的差異は、その他のヒトの変異と同様に、認識されまた尊重されるものである、という考え方。それらの差異としてはディスプラクシア、ディスレクシア、注意欠陥・多動性障害、ディスカルキュリア、自閉スペクトラム、トゥレット症候群、等々と名付けられている差異を含みうる。
2011年の Pier Jaarsma によれば、ニューロ・ダイバーシティは「論争の的となる考え方」であり、それは「非定型神経発達を普通のヒトの差異と見做す」というものである。

なんや難しいこと言ってますが、英語版の訳なのかもしれません。自閉症やASD、ADHDなどは神経発達の一つの形で、尊重されるべきだ。ということ。ずっと同じことが書かれているような気がします。

Nick Walker(2012)は、ニューロ・ダイバーシティの概念はどんな神経学的状態にある人々も包含するものであるから、「神経学的に多様な(neurodiverse)人」などというのはありえないし、全ての人々はニューロ・ダイバースである、と論じた。Walker は代わりにニューロ・マイノリティ(神経学的少数派)という語を「神経学的に定型でない人々を指す、良い、病理化しない言葉」として提案した。彼は異なる神経学的な様態を持つ人々は「支配的な文化から周縁化され、十分に適応できていない」と言う。

全ての人は違うのだから、そもそも神経的に多様な人々、というのは矛盾していて、全員がそれに当てはまる。ニューロマイノリティでいいじゃん、と提唱した、ということでしょうか。


Walker は包括的な概念としてのニューロ・ダイバーシティと、パラダイムとしてのそれ(ニューロ・ダイバーシティを他の形の多様性と同様の社会的力学の影響を受けるヒトの多様性の自然な形として理解すること)とを区別することを提案している。ニューロ・ダイバーシティ・パラダイムは、ニューロ・マイノリティを神経学的に定型な多数派からの逸脱であるという理由で問題ある(problematic)病的な(pathological)偏りであると表現する病理学的パラダイムと対照される。

少し難しい表現ですね。つまり、ニューロダイバーシティーの考え方と対照にある考え方は【発達障害の人々は病的で、問題を抱えている】という前提のもと様々な治療を提唱する考え方。発達障害という言葉に対するアンチテーゼですね。

※発達障害という言葉をここでは使いますが、ニューロダイバーシティーという言葉自体は【発達障害】だけのアンチテーゼではないのかもしれません。

自閉権利運動
自閉権利運動(autism rights movement, ARM)はニューロダイバーシティ運動の中における社会運動で、自閉の人々、その介助者および社会がニューロダイバーシティの立場(自閉を治療されるべき精神障害というよりも機能的な多様性として受け入れる立場)を取り入れることを奨励するものである。ARMは様々な目標を掲げている。それには、自閉的振る舞いに対するよりよい受容;自閉者に対して行動をニューロティピカルなものに制限することにフォーカスしたものではなく、自閉者に対処スキルを教えるようなセラピー;自閉の人々を彼らの思うままに社会化することを可能にするようなソーシャルネットワークやイベントの企画;;そして、自閉コミュニティをひとつのマイノリティ集団と認識することを含む。

難しい。。。

ニューロティピカル=定型発達のこと

自閉権利運動とは、社会が自閉症の人々をありのまま受け入れることを推進する運動。自閉症の人が定型発達の人のようになることを目指すのではなく、彼らのスキルの中で対処できることを増やしていくことがゴールの一つ。

最後の、【自閉症コミュニティを一つのマイノリティ集団とすること】という記載。

冒頭の記載を再掲します。

ニューロ・ダイバーシティは、神経学的差異は、ジェンダー、民族性、性的指向や障害と同様に、社会的カテゴリーとして認識され尊重されるべきであると主張する。

LGBT(最近ではLGBTQとも呼ばれ始め、Q=questioningつまり自分の性が正しくわからない人々も差すそうです)や人種などと同様に、差別するなよ、という運動のことと言っても大まか間違っていないと思います。

今の時代、黒人をニガーとがネグロといったり、日本人をジャップといったり、LGBTをホモやオカマと蔑んだりしたら人格を疑われますね。それと同じで、自閉者集団を差別せずに尊重しろよ、というムーブメント。

※違ったらごめんなさい、興味がある方は一緒に理解を深めていくというスタンスで読んで頂ければ幸いです。

自閉の権利やニューロ・ダイバーシティの支持者は、自閉スペクトラムは遺伝的であり、それはヒトゲノムの自然な発現として受容されるべきであると信じる。この視点はよく似た次の2つの見方とは区別される:自閉は遺伝子の欠陥によって引き起こされるもので、自閉を引き起こす遺伝子を標的として対処されるべきである、とする主流な視点;そして、自閉はワクチンや汚染のような環境要因によって引き起こされ、環境要因に対処することで治療可能であるとする視点である。

少し不自然な日本語ですが、理解できます。自閉症の要因として分析されてきたのは、自閉症遺伝子を悪者扱いする方法論と、ワクチンや汚染などの環境要因にする方法論があった。でもニューロダイバーシティーの考え方は、そうではなく遺伝子の自然的な変異としてみなされるべきというもの。

自らが自閉である自閉の権利の支持者の多くは、自分たちのことを、「自閉」(autistic)や「アスピー」(aspie)といった、アスペルガー症候群の状態をアイデンティティに内在的(intrinsic)な部分として強調するような語によって記述する。これは障害者支援団体によって一般に推奨されること、すなわち医学的なあるいは精神的な病状や障害を持つ人について語る際にperson-first languageを用いること、と対照的である。Person-first languageは、病状や障害によって定義されているそれではなく、病状を持つ「人」を強調するものである。

えーーーー、難しい!!どういうこと??

People-first language (PFL),also called person-first language (PFL), is a type of linguistic prescription which puts a person before a diagnosis, describing what a person "has" rather than asserting what a person "is." It is intended to avoid marginalization or dehumanization (either consciously or subconsciously) when discussing people with a chronic illness or disability. It can be seen as a type of disability etiquette but person-first language can also be more generally applied to any group that would otherwise be defined or mentally categorized by a condition or trait (for example, race, age, or appearance).
Person-first language avoids using labels or adjectives to define someone, utilising terms such as "a person with diabetes" or "a person with alcoholism," instead of "a diabetic" or "an alcoholic." The intention is that a person is seen foremost as a person and only secondly as a person with some trait.

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うんうん、少しわかってきました。それまでは、【自閉症のヤツ】みたいに語られてきた。今で言うと、【発達障害民】が日本でいう「診断ファースト」の考え方。アスぺってこうだよねー、ADHDってこうだよねー、と語られること?

ニューロダイバーシティーの考え方は、画像検査で見つかった写真がこの微妙な違いをよく表現しています。(著作権m(_ _)m)

自閉症の前に人間だ!アスペルガーの前に一人の人間だ!っていう考え方のこと?

難しいですね。個人的な経験を語ります。僕が初めてASD診断された時、意味不明でした。ASDという診断だけされて、それが何を差すのかわからずに、発達障害者という烙印だけが残りました。そこから自分で勉強したりセカンドオピニオン、サードオピニオンまで受けて、自分がどんな特性を持っているのか(=自分が困っていることは何か)まで言語化して初めて、ニュートラルに自分を見つめることができました。

おそらくですが、発達障害者の烙印を押して終わる社会がDiagnose firstのこと。それのアンチテーゼとして【その人個人個人が困っていることやできないことを見つけて、そこに対処するのがperson first languageのアプローチ方法】

【反治療的な視点】自閉症権利運動をすすめる組織のメンバーは、自閉を病気というよりは生き方であると見なし、治療への努力を手放すことを主張する。中には、自閉と関連付けられる行動や言語の違いを正そうとする標準的な治療、例えば 応用行動分析を、単に的外れであるというだけではなく、反倫理的でもあると主張するものもいる。自閉権利運動の中で主張される反治療的な見方は「自閉症スペクトラム障害はそれ自体としては障害ではない、自然に起こるばらつきだ。神経の配線のバリエーションの一つであり、比較的少ない遺伝子発現の亜型だと主張する。この見方からすると、自閉は一つのユニークな人間のあり方であり、当たり前にいてよいとされ、必要ならサポートを得ることができ、承認されるべきあり方である。忌避され、差別され、抹消されるべきあり方ではない。自閉的な人の奇妙さやユニークさは他の様々なマイノリティと同様に容認されるべきであり、「自閉症を治そう」とする試みは、一般的な病気の治療と対比されるものではなく、左利きを治そうとするような時代遅れで馬鹿げた試みである、と主張される。ARMは障害者権利運動の大きな流れの一部であり、障害の社会モデルを採用している。この障害の社会モデルにおいては、自閉者が直面する困難は、個人の欠陥ではなく、社会の構造的な差別であると見なされる。

いい表現ですね、主観ですが、すごい同意しました。再掲します。

自閉症スペクトラム障害はそれ自体としては障害ではない、自然に起こるばらつきだ。神経の配線のバリエーションの一つであり、比較的少ない遺伝子発現の亜型だと主張する。この見方からすると、自閉は一つのユニークな人間のあり方であり、当たり前にいてよいとされ、必要ならサポートを得ることができ、承認されるべきあり方である。忌避され、差別され、抹消されるべきあり方ではない。

だいぶ時間を使ったのでw 続きは次回にします。

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