「本気でやること」は正義か?
これまで体験型の企業研修でファシリテーターを務める中で、「本気でやってます?」と何度も問いかけてきました。研修の中で、本気でやってもらうように促すことは善いことだと思ってきました。
「本気でやった方が成果に繋がるし、何より楽しい」
「本気でやった方が学びになる」
それはそうだと思います。しかし、果たして、その「本気でやってます?」と研修で問いかけることは、哲学的に「正義」なのでしょうか?
この問いについて考えることで、「正義の教室」の本を読んだ感想としようと思います。
<論点>
① 功利主義:「本気でやる」ように伝えることは、全体の幸せに繋がるか?
② 自由主義:「本気でやる」ように伝えることは、個人の権利を尊重しているか?
③ 絶対主義:「本気でやる」は、絶対的な正義か?
結論
①「本気でやる」ように伝えることは、全体の幸せに繋がるか?
これは、功利主義の観点からの問いです。
功利主義の本質は
「全員の幸福度の総量が最大になるような行動をすべき」
です。
ということは、「1人の本気が、全体の幸福度の向上に繋がるか?」を考えれば良いことになりますが、結論から言えば、これは繋がると思います。
幸福度が下がる可能性があるのは、本人と同じく、本気でやっていない受講者です。しかし、受講者以上に多くいる、会社の社長、人事部(発注者)、上司や同僚は、本気で研修に臨み、成長を遂げてくれることで、会社への貢献度を高めてくれることを期待しています。つまり、幸福度は高まります。なので、本気になっていない人に、本気でやるように伝えることは、全体の幸福度の向上に繋がります。
おそらくこの功利主義の考え方で過去半ば強制的に仕事をさせてきたのだと思いますが、近年、この考え方がパワハラだと言われるようになってきました。つまり、この背景には、自由主義者が増えたからだと思います。
では、自由主義の観点からは、どう考えられるのでしょうか。
②「本気でやる」ように伝えることは、個人の権利を尊重しているか?
これは、自由主義の観点からの問いです。
自由主義は、強い自由主義、弱い自由主義がありますが、ここでは強い自由主義だけ扱います。理由は、弱い自由主義≒功利主義だからです。(詳細は本書をご参照ください)
強い自由主義の本質は
「自由にやれ。ただし、他人の自由を侵害しない限りにおいては。」
です。
ということは、「本気でやらないことは、他人の自由を侵害しているか?」を考えれば良いことになります。この観点からみれば、「他人を邪魔する行為がなければ、侵害していない」と言えるので、「本気でやらないことも本人の自由で、干渉すべきではない」と言えます。
しかし、自由主義の問題点は「弱者を切り捨ててしまう」ことです。「弱者がバカなことをやっていたって放っておけばいい、本人の自由だ。」と考える人が増えれば増えるほど、弱者は切り捨てられてしまいます。もちろん「本気でやらない=弱者」とするのは、表現として問題があります。しかし、「本気でやらない」もしくは「本気でやることの価値に気づいていない」ばかりに、10年後の人生を台無しにし、10年後の自分の自由を奪う可能性があることは伝えることは、他人の自由を侵害しているとは言えません。
その場合には、自由主義であっても「行動を制限してもいい」と言えます。
③「本気でやる」は、絶対的な正義か?
これは、直観主義からの問いです。
直観主義の本質は
「理性の外に絶対的な善があり、その善に従って判断する」
です。
つまり、「本気でやるが絶対的な善か?」と考えれば良いですが、これは正しいとは言えません。なので、直観主義の観点からは否定されます。
<結論>
「本気でやってます?」と研修の受講者に伝える時には、
「本気でやることが、将来のご自身にとって、自由を獲得することに繋がりますよ。」
と伝える。もしデータや根拠があれば伝える。なければ、自分の正義を持って伝える。
それができないなら、本人の自由に任せる。
これだけです。これ以上にファシリテーターは何もできず、本人の選択に任せるほかないということでしょう。
ただ今回の結論は、「本気でやるかどうか」の論点に関わらず、研修で受講者たちに何か働きかける時には、重要な問いになると思います。
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