小説 メルヘン #9 (最終回)

そのお客さんは、私を壊そうとした。
開かない脚を押し広げ、中に入ろうとした。
「やめてください。ルール違反ですよ」
私は抵抗した。
「違反もくそもあるかよ。おまえなんて、壊れればいいよ」
お客さんは、お酒に酔っているようではなく、そのせいで一層怖かった。
いなくなった小嶋さんの代わりに新しく入ったタカシ君が、ちょうどフロアの見回りをしていて止めに入ってくれた。店長とタカシ君に両手を掴まれ、お客さんは外に連れ出された。
「このお客さんおかしいなと思ったら、すぐに教えて」
後で店長が私に言ったけれど、私にはおかしいの範囲がわからなかった。

歓楽街にも、夏の終わりの匂いがある。西日を浴びる自動販売機、側溝を塞ぐコンクリートのシミ、まだ点いていないネオンサイン。匂いは景色にもまとわりつき、全てがくたびれた顔をしている。
バスを降りて店までの道を歩いていると、細野さんから電話がくる。
「なんか、うちのがちょっと疑ってるみたいなんだ」
電話の向こうで、彼が困っている。「だから、もう会うのは難しいかなって……。今度で終わりにしようか」
「どうして」
口でそう言った時には、もう私の毛羽立った感情にはぬるいコーティングがかかっている。こんな日がくるのはわかっていた。急でびっくりしないように、私の中には「仕方ない」の小箱が前から準備してあった。

細野さんとのセックスは、後ろからとか、二人で寝て、後ろからとか、とにかく後ろからだった。最後のデートの日、ちょっと変わった体位をした。私が仰向けになり、彼が私の両足を揃えて持ち上げる。そして挿入。「痛い?」と聞いてくる細野さんに、「痛くないよ」と言う。ことが済んで「もっといろんな格好で試してみればよかったね」と私が笑うと、彼は少しさびしそうにした。
「今までみたいに月に二回とかじゃなく、月に一回でも、もっと少なくてもいいから、会おうよ」
私は言ってみた。細野さんは首を振った。
細野さんと、裸で身体をくっつけていると、私の頭の中には、幸せという文字が浮かんだ。死ぬほどの安心感はしんと静かで、ただ肌と肌が触れ合う気持ちよさが、絶えず込み上げた。これを、どうにか貯金できないものかと思った。例えば朝に、例えば昼の隙間に、例えば夜の真ん中に、自由に取りだし、撫でることが出来ればいいのに。
二人で、お笑い番組を見た。細野さんはアハハと笑った。アハハと笑う男の人を、私はずっと見ていたかった。私はもう、お別れの用意がすっかりできていた。

別れ際、本当にバイバイって時に、細野さんがカバンの中を探った。出てきたのはプレゼントだった。一緒に食事をした時や、ホテルに入った時の会計は彼持ちだったけれど、こうやって何かをくれたのは初めてだ。家に帰ってから見てねと言われたビデオショップのラッピング袋を、約束を破り帰りのバスの中で開けると、映画のDVDが出てくる。お嬢様と身分違いの男の叶わぬ恋の話。結ばれない二人だけど、お互い強く生きていく。小さなメモ紙も出てくる。〈楽しい時間をありがとう〉

冬が来た。バスの車内は暖房が効き過ぎている。首に巻いたマフラーをほどき、バッグにしまうついでにスマホを見ると、不在着信通知が出ている。リサからだ。私は予定より三つ前のバス停で降り、リサの番号に折り返す。いなくなってから何度も電話したけれど、繋がったことはなかった。
「はい」
リサはすぐに出た。
「リサ?」
「元気? 急にごめんね。びっくりした?」
自分が消えたからか、それとも急に電話をしたからか。
「したよ。びっくりした。本当に」
消えたのも、それから、また電話がきたことも。
「今、話せる?」
「大丈夫だよ。今からメルヘン。でも平気だよ」
私は近くのビルの壁に寄り掛かる。道路と歩道を、車と人が忙しく流れる。
「まだしてるんだ」
「そうだよ。リサがいないからつまんないよ」
言ったあと、なんだかバツが悪くて、適当な笑い声を付け足す。
「私、お腹に赤ちゃんがいるの」
リサの声が大人っぽい。
「小嶋さん?」
「そう。今六か月で、昨日検診だったんだけど、たぶん女の子じゃないかって」
「おめでとう。楽しみだね。名前は決めたの?」
リサと小嶋さんの女の子には、どんな名前がいいだろう。
「まだ決めてないよ」
「ねえ、良い名前つけてよ。決まったら教えて」
「私、電話番号変えるんだ。そしたらナナにも新しい番号は教えない」
「どうしてよ」
「だって、まだメルヘンしてるんでしょ」
「そうだけど」
「あいつら、マジでやばいよ。レイナさんとかめっちゃ部長に借金してるんだからね。もうズルズル地獄だよ。できるなら、早くやめたほうがいい」
「そんなこと言われても……。リサだって、一人で逃げたわけじゃないじゃん」
久しぶりにリサと話せたのに、喧嘩になるのは嫌だった。
「私だって、小嶋がいたから逃げられたってわけでもないよ。じゃあね、ナナ、楽しかった」
楽しかったと言って、みんな去って行く。喧嘩にもならずに。
「あ」
私は声を上げる。
「どうした?」
「今、イルミが点灯したの」
目の前が明るくなった。果ての無い夜空が、光る蓋で覆われる。クリーム色単色の電球が、欅の枝を律儀な感覚で埋め尽くしている。
「ああ、もうイルミ始まってるんだね。好きだったな、あれ」
リサの頭の中にあるイルミネーションは、どんな光だろうか。並木の下を歩く人は、毎年恒例の冬の夜に慣れているのか、ちょっと顔を上げると、また前のほうを向いて自分の時間に戻る。木々の光は、その人たちにも明かりをおとしている。
「私も、わりと好き。幹の根本は電球が付いてなくて、その境目とか」
「何それ、ナナってちょっと面白いよね」
二人で笑う。
「リサ、バイバイ。元気でね」
私は息を吸うように言った。
「ナナも元気でね。ありがとう」

電話を切って、バッグにしまう。マフラーをまた首に巻き、イルミネーションの下に歩き出す。
私、本当の名前は友里恵って言うんだ。リサは何て名前なの? へえ、そうなんだ。なんだか似合うね。ねえ、私も楽しかったよ。リサといる時も、それから細野さんといる時も。そういえば、私、ありがとうって言わなかった。
幹に寄り、身体を預けると、樹の肌を感じた。
嫌だな、脚が痛い。
空気は冷たく澄んでいて、電球の光は生きているように舞い、滲んだ。待ってよ、一回、泣くんだから。そしたら、地面を蹴れるはず。

                 終わり

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