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あのたび -ミンダナオ島のテロとジプニー-

 日本を出て9ヶ月で9カ国目のフィリピンに上陸した。飛行機を使わず船とバスと電車だけで移動してきたのでだいぶ時間がかかった。入国時にもらったビザの有効期限は21日。少し急いで周らなければいけない。

 観光がしたいとか英語が勉強したいとか特に理由があったわけではない。ただ移動してきた先にフィリピンがあったというくらいの気持ちだった。

 20年前の当時、通貨の₱(ペソ)のレートは1₱≒2.2円。割と計算しやすいのは助かる。

 マレーシアから船で入国し、着いた町はザンボアンガ(Zamboanga)。フィリピン南部ミンダナオ島の最西端の町である。当時、ミンダナオ島ではテロが頻発していて治安がよくないと聞いていた。
 
 フィリピンは90%以上の国民がキリスト教なのだが、ミンダナオ島ではイスラム教が多いという。令和の現代では少し落ち着いているが、ボクが旅行した時期はあの米国同時多発テロが発生した1年後。まだまだ宗教を巡る対立が燻っていた。

 そこでミンダナオ島を東へ進むのは避け、北へ進みネグロス島をまず目指すことにした。

 ザンボアンガで一泊したあと朝の町を歩く。昨日買ったパンは1個2₱だったが10倍の1個20~30₱というパンも売られている。貧富の差が拡大しているのだろうか。初めて来た町ではまず地元の市場(マーケット)を探す。これはある旅行者に教えてもらった習慣で、レストランに入るよりも地元の人たちが食べているものを安く探せる方法だ。

 ここフィリピンでも市場が見つかった。小皿にいくつか料理が盛られていて、指を指して自分が欲しい物を選べるようだ。なんとわずか一皿5₱(≒11円)。ガーリックライス、焼き肉、カボチャ煮の3皿をいただいた。合わせて15₱。安い。フィリピン料理というのは期待していなかったがそれなりにうまいじゃないか。ただどれも冷めているのが残念ではある。行った時間の問題だろうか。最初びびってはいたがフィリピンの庶民は陽気で距離が近く人がいい。

 ちなみタガログ語で数字の5はリマと言うが、いくら?と聞いたとき「シンコ」と返事が返ってきた。これはスペイン語の数字5であり、スペインの植民地であった影響が残っているのだといえよう。

 ガイドブックを探して本屋へ行くが見つからず。その他、建物の施設に入るたびにカバンの中身を全部開けて見られて荷物検査されるのが面倒くさい。危険物を持った奴はいないか?という安全のためなのだろうが。
 大きな建物の前には銃を脇に抱えたガードマン(兵士か軍人?)が立っているのもびびる。

 銀行で1$=54.95₱で200$分を両替する。大金を持って歩くのはちと怖い。大きなお金を崩すため、ファストフード店に入り肉厚・肉汁たっぷりのバーガーセット大を頼む。93₱。日本より安いが市場よりはだいぶ高い。大きい紙幣は市場で受け取ってもらえない場合が多々あり、すきを見ては小銭に崩すようにしていた。

 初めてジプニーに乗る。日本のデコトラのように綺羅びやかに飾りまくった相乗りジープである。後ろが荷台になっていて10人くらいは乗れるようになっている。安いが行き先がわかりづらく旅行者には難しい。ディポログ(DIPOLOG)という町へ行きたいと言うと、まずGuiwan Terminalへ行ってそこでバスに乗れという。
 親切にも止まったジプニーの運転手にGuiwan行きか聞いてくれて、これに乗ってけと乗せてくれた。数分乗って4₱だった。安い。船が出る港のディポログ(DIPOLOG)行のバスは無く、途中のイピル(IPIL)行が223₱。そこからバンに乗り換えて160₱。夜8時半にディポログに到着。

 隣のおじさんに安いホテルを教えてもらった。Pepic’s LODGE。最安の部屋は150₱だったが空いていない。ランクが高い315₱の部屋をおじさんが交渉して283₱にまけてくれた。日本のビジネスホテル並の良い部屋でびっくり。

 そのおじさんに夜ご飯に誘われて、トライシクルに乗ってお店へ。移動代10₱とごはん代129₱もおごらされて、結局安かったのか高かったのか。しかしまあガイドブックもスマホもない状態で町に夜に着き、歩き回って宿を探す手間を考えるとだいぶ楽だったので良しとする。

 夜は方角がわからなくなりがちだが空の月を見たら判断できそうだ。インドネシアは赤道直下だったので太陽や月の位置で東西南北を決めるのが難しかったからだ。

フィリピンルート

(つづく)


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