八月。
いつの間にか、夏が通り過ぎようと、している。
キーボードを打つのも、久振りだ。
私は、10数年前に、多分、自己を失った。
いや、正確に言うなら、消したかった。
今更ながら、その「自己」への回帰を、願っている。
練習を、一応終えた人物撮影。
無論、自分の中での話。
いざ、自分らしい写真、いや、そもそも、何を、どう撮りたいのか、分からなくなっていた。
そもそも、なんで写真を撮っているのかすら、分からない。
自己表現?そんな大層なもの、持ち合わせていない。
そもそも自己がなんなのか、分からないのだから。
そんな疑問もなく、撮っていたのだ。
それに気づかされた。
そして、原因は明らかで。
そこで、改めることにした。
一つ言えることは、思った通りの写真を撮りたくて、カメラを始めたこと。
その時の思った通りは、見た通りに、だったり、ボケの調整だったり、明るさだったり・・・。
つまり、技術的なことであり、分かったのは、カメラは万能ではないということだった。
私は、映像が好きだ。
そして、小説も、好きだ。
どちらかというと、映像のほうに興味があって、小説を読んで、作って、頭に閃く一瞬で永遠の映像を、再現したい。
問題なのは、その「image」が、閃かないことなのだ。
少し辞めていた人物撮影を、近々行う。
2か月振りというところか。
八月は、儚い。
そう感じるのは、私の幼さが原因だろう。
生徒、学生時代、夏休みに入る7月は、期待そのものだった。
吹奏楽コンクールの予選があり、それに向かって、集中して練習する時間と空間が、好きだった。
でも、8月には、そのコンクールも終わりを迎える。
秋の予感を誘う、東北の海風は、冷たい。
全てが終わりを迎えるような、感覚。盛夏とは、実に寂しいものだ。
それを知っているから、燃え尽きようとする。そんな、錯覚。
今の自分には、そんな写真しか撮れないし、そんな、心の記録を、残したい。
それを、どう表現されるかは、もう、どうでもよい。
そもそも、それは、表現ではないのだから。
「記録」でしか、ない。
私のそれは、芸術にもアートにも、成りえないのだ。
少なくとも、私はそういうものを創ろうとは、していない。
そもそも、できない。
そういうことを、知らされた。
私のエゴ、そのものだった。
中学の修学旅行の時のスナップ写真、今も残っている。
プリントできるのか不安だが、当時撮ったのは、400枚ぐらいだろうか。
スナップの意味は、知らない。
人によっては、それもポートレートと言うかもしれない。
定義の問題なので、私の考えはどうでもよいことなのだが、一番しっくりくる説明は、こうだった。
「撮られていることを意識する、させる撮影は、ポートレート」
なので、記録とは言え、確かにポートレートに被るのかもしれない。
私の感覚は、もっと単純で、手で持って撮る写真、スナップ、だったりする。そこに、人物も風景も、関係ないというか、ポートレートという概念が、実は、存在していなかった。
概念のことなので、本当は正確にしておかなければいけないのだが、そういうことは、見た人が決めればいいと思っている。
それが写真なのか、絵なのか、そういうくらいの感覚でしか、私はない。
私には品性がない。
美術や芸術の類に、触れてこなかったし、あまり興味もない。
俗物的なものが好き、と言えるほどでもないし、つまらない人間だ。
未だに、あのモナリザを見ても、古い絵くらいにしか思えない。
いや、古い「写真」のようなもの、かもだ。
肖像。一番しっくりくる。
いずれ、八月に撮る、八月の写真は、どうしたって、八月にしかならない。
あまり考えてもしょうがないが、考えない不安というのも、ある。
これは期待でもあり、実感でもあるのだが、私の空気というか、雰囲気というか、撮り方というか、それを察して表現してくれるモデルが、次の人物であるから、とりあえず私は、ファインダーを覗いてみることにしたい。
その次は、一緒に色々と試してきた方との撮影なので、また色々試したいし、純粋に楽しみたい気もしている。
私にとって普通の写真とは、良識ある、綺麗でもあり、凄くもあり、どこに載せても誰も文句のない写真のこと。
それを撮れるとは、思わない。
それを撮りたいか、というのは、技術的には、撮れるようにしたい。
かと言って、今、撮りたいイメージがないので、撮りたい写真は、撮れない。
一度、普通ってなにと言われた。その時ははぐらかしたが、誰でも撮れるという意味では、少なくともないのだった。
自分にしか撮れないものというのは、ない。
あるのは、その時しか撮れないということ、目の前の光景、目の前のあなたしか、撮れないということ、だけだ。
多分それは、構図とか、そういうものでもない気がしている。
極論で言うならば、カメラやレンズとも関係なく、もしかすると、写真でなくともよいのだ。
知りたいのかもしれない。
それだけかもしれない。
それは、結局、自分のことなのかも、しれないな。
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