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読み返したい本たち【10位~6位】

 前回、前々回に引き続き読み返したい本たちをランキング形式で紹介していく。今回は10位〜6位。ここまで来ると、一冊一冊への思い入れが深く、語りたいことがたくさんある。そのため、5冊で一旦きることにした。一応、順番は付けているが、1位〜10位の全てが入れ替え可能と言っても過言ではない。早速、始めよう。

10位:ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

 報酬の多いことよりも、労働の少ないことの方が彼を動かす刺激だったのだ。彼が考慮にいれたのは、できるだけ多く労働すれば一日にどれだけの報酬が得られるか、ではなくて、これまでと同じだけの報酬ー二・五マルクを得て伝統的な必要を充たすためには、どれだけの労働をしなければならないか、ということだった。まさしくこれは「伝統主義」とよばれるべき生活態度の一例だ。人は「生まれながらに」できるだけ多くの貨幣を得ようと願うものではなくて、むしろ簡素に生活する、つまり、習慣としてきた生活をつづけ、それに必要なものを手に入れることだけを願うにすぎない。近代資本主義が、人間労働の集約度を高めることによってその「生産性」を引き上げるという仕事を始めたとき、至る所でこのうえもなく頑強に妨害しつづけたのは、資本主義以前の経済労働のこうした基調だった。

マックス・ウェーバー著・大塚久雄訳(1989).プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神、岩波書店

 大学院生のとき研究のベースとしていた社会学の創始者の1人、マックス・ウェーバー。概念を巧みに駆使することで、異なる社会を比較し、現在の常識が決して普遍的なものでも、不変的なものでもないことを読者に突きつけた博識な天才、それがウェーバーだ。テクノロジーの進化とともに、社会の様相は、刻一刻と変化をしている。しかし、ウェーバーが研究対象とした資本主義や官僚制、宗教などは、強固なシステムとして今現在も社会の中で機能し続けており、その代表作である本書は、今読んでも、新鮮で非常に面白い。

 私は、ウェーバーから特に、「政治的に思考する作法」を教えられたように思う。われわれは「合理的」という言葉を単に「無駄がなく効率的」といった意味で使用する場合がほとんどである(形式合理性)。しかし、彼は(実質)合理性という言葉を、当該個人の価値基準に照らし、その個人の行為がその価値を達成している度合を判定するために使用する。このことが、政治的に思考することとどう繋がるのか。

 有名な話だが、ウェーバーは『職業としての政治』(講演)において、心情倫理ではなく、責任倫理の重要性を説いた。つまり、いくら心情的にあるいは理念的に正しくとも、目的が達成出来なければ、何の意味もなく、政治家は、政治的な行為の結果に対して責任を取らねばならないと説き伏せた。そして、彼は各人が結果責任を果たすことができるよう、生涯、ドイツの政治を「実質合理性」の観点から批評し続けた。

 職場など目的を有した組織の一員として、例えば会議で議論をする際など、この視点ー組織の目的と個人の価値の対立点を明らかにした上で、今行なっていることがその目的を達成する上で合理的か否かを判定する視点ーは重要であろう。まともに議論が出来るようになりたい人には、ウェーバーの『政治論集』をお勧めしたい。

9位:加藤典洋『敗戦後論』

 火事の中、地面に倒れた。と、誰かが自分の上に覆いかぶさり、気がついたら、その人はもう灰となり、すでに火は消え、自分はその灰に守られ、生きていた。その自分の真先にすべきことが、自分を守って死んだその人を否定することであるとしたら、そういうねじれの生の中に、そもそも「正解」があるだろうか。戦争に負けるとは、ある場合には、そういう「ねじれ」を生の条件とするということである。

加藤典洋(2015).敗戦後論、筑摩書房

 私の批評の師匠は、柄谷行人であり、加藤典洋である。加藤からは、違和感に敏感になること、そして、立ち止まってその違和感を凝視することを教わった。加藤は、戦後すぐに起こった転倒を敏感に嗅ぎ取り、その現実を凝視し続けた。

 その転倒を一言で言えば、日本人は、「敗戦を受け入れることー太平洋戦争において日本の侵略には大義がなかったと認めること、被侵略国に謝罪することー」と「大義のために死んだ英霊を弔うこと」を(左派と右派)に人格を分離することで目を背けたという事実のことを指す。そして、加藤は、この分裂した人格(ジキルとハイド)を統一する方途を探した。

 私は、戦後民主主義の旗手である丸山眞男の『超国家主義の論理と心理』を読み、「そうだ、その通りだ。」と思ったことがある。しかし、加藤の『敗戦後論』を読み、自身の浅はかさに辟易した。丸山の文章の歯切れの良さに、違和感を抱くべきだったのだ。戦争で命を落とした英霊のおかげで今の戦後があるという現実を見落としている、と。

 最近だと、「フィルターバブル」と言うのだろうか、自分が如何に自分が見たいものしか見ていないのか、このとき思い知らされた。自身の価値観に拘泥し過ぎると、本当の意味では、本は読めないし、物を見ることは出来ない。一方で、感性が鈍かったり、自身の価値基準を完全に捨て去ったりしていては、批判的に物を見ることは出来ない。そのバランスって本当に難しい。加藤典洋は、1948年生まれであり、戦後すぐに起こったことをリアルタイムで体験したわけではない。そのため、本を読み想像力を駆使することで、その知識と視野を得て、本書を執筆している。本当にすごい人だ。

 加藤が『敗戦後論』を世に問うてから、25年以上が経過した。われわれ日本人は、いつになったら、「戦後」という時代区分から卒業出来るだろうか。彼に代わって、その行く末を見届けたいと思う。(本当に惜しい人を失ったと思う。もし早稲田大学に入学していたら、彼のゼミに参加できていたのかと思うと、友人I氏が羨ましい。)

8位:フーコー『安全・領土・人口』

 私は今年度の講義の題に「安全・領土・人口」を選んだわけですが、つまるところ、今、より正確な題を選んでいいのであればそうはならなかったでしょう。今、私が本当にやりたいのは(本当にやりたいのならですが)、何か「統治性」の歴史とでも呼ぶようなものなのでしょう。この「統治性」という単語で私が言わんとするのは三つのことです。第一に「統治性」とは、人口を主要な標的とし、政治経済学を知の主要な形式とし、安全装置を本質的な技術装置とするあの特有の(とはいえ非常に複雑な)権力の形式を行使することを可能にする諸制度・手続き・分析・考察・計算・戦術、これらからなる全体のことです。(略)

ミシェル・フーコー著・高桑和巳訳(2007).ミシェル・フーコー講義集成7 安全・領土・人口 コレージュ・ド・フランス講義1977-1978、筑摩書房

 「言葉と物」や「監獄の誕生」「性の歴史」など非常にエキサイティングで目を見開かされるフーコーの著作は多い。しかし、ここでは、このコレージュ・ド・フランスの講義集成を挙げたい。なぜなら、フーコーの息遣いが感じられ、その人となりが分かり、フーコーの思想の理解が進むからだ。また、新自由主義や生政治など、比較的歴史の浅いトピック・権力装置なども扱っており、より現代的だからだ。

 教科書的なことを言うと、フーコーは権力を、「支配者が被支配者に対して一方的に行使するもの」とは理解せず、「人と人、あるいは人と社会の間において機能する装置」と捉える。そして、われわれの社会において機能している権力、その権力の構造を明らかにすることにより、自由を実践したフーコーは、自由を実践として捉えたスピノザの正当な後継者と理解して良いと私は思う。

 重田園江さんが『ミシェル・フーコー 近代を裏から読む』において、「フーコーの書籍を読んでいると、普段、不快に感じていることを言語化してくれていることに気づき、泣きそうになる」といった主旨のことを書いている。私も同感である。フーコーは、権力装置の仕組みを白日の下に晒すことで、それへの抵抗の拠点を築く。その実践は、例えば、「君は〇〇病だ」ということで、病気という枠組みの中に押し込み、安心させる精神医学とは本質的に異なる。構造の外部に踏み出るラディカルな思想家、それがフーコーだ。

 大学院生の頃、知人とフーコーの読書会をしようという話になり、チラシを作り、大学の掲示板をフーコーの顔写真で埋め尽くしたことをこれを書いている最中に思い出した。(ちゃんと、フーコー研究をしていた大学院生が釣れた。)今となって思えば、よく怒られなかったなと思う。そんなわたくしも、今では大学職員である。

7位:村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』

 「駄目だね。好きになんかなれない、とても。何の意味もないことだよ。美味い店をみつける。雑誌に出してみんなに紹介する。ここに行きなさい。こういうものを食べなさい。でもどうしてわざわざそんなことしなくちゃいけないんだろう?みんな勝手に自分の好きなものを食べていればいいじゃないか。そうだろう?どうして他人に食い物屋のことまでいちいち教えてもらわなくちゃならないんだ?どうしてメニューの選び方まで教えてもらわなくちゃならないんだ?そしてね、そういうところで紹介される店って、有名になるに従って味もサービスもどんどん落ちていくんだ。十中八、九はね。需要と供給のバランスが崩れるからだよ。それが僕らのやっていることだよ。何かをみつけては、それをひとつひとつ丁寧におとしめていくんだ。真っ白なものをみつけては、垢だらけにしていくんだ。それを人々は情報と呼ぶ。そういうことにとことんうんざりする。自分でやっていて」

村上春樹(1988).ダンス・ダンス・ダンス、講談社

 村上春樹の小説は、全て読んだ。その中から、一作品を選ぶとしたら、どれにするか。『風の歌を聴け』、『羊をめぐる冒険』、『ダンス・ダンス・ダンス』、『国境の南、太陽の西』、『ねじまき鳥クロニクル』、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』この辺りが浮かぶ(一作品じゃないのかよ)。比較的、初期作であり、共通のテーマを導き出すとしたら、「喪失と成熟」となるだろうか。

 そして、さらに分かりやすい共通点としては、その全ての作品が1995年以前に書かれた作品という点が挙げられる。村上春樹は、オウム真理教による地下鉄サリン事件に衝撃を受け、1997年に『アンダーグラウンド』というルポルタージュを書いている。そして、それ以後、彼の作風は明らかに変わったように思う。何がどう変わったのだろうか。

 村上春樹は、その性的描写の多さゆえに、(例えば、ベストセラーとなった『ノルウェイの森』)不真面目で、ポルノ作家的だと言う人もいるくらいだ。しかし、私は一貫して倫理的な意味での「正しさ」に強い拘りを持った作家だと感じてきた。例えば、デビュー作の『風の歌を聴け』で「僕」は(僕の分身でもある)鼠に対して次のように言う。

 「でもね、よく考えてみろよ。条件はみんな同じなんだ。故障した飛行機に乗り合わせたみたいにさ。もちろん、運の強いのもいりゃ運の悪いものもいる。タフなのもいりゃ弱いのもいる。金持ちもいりゃ貧乏人もいる。だけどね、人並み外れた強さを持ったやつなんて誰もいないんだ。みんな同じさ。何かを持ってるやつはいつか失くすんじゃないかとビクついているし、何も持ってないやつは永遠に何も持てないんじゃないかと心配してる。みんな同じさ。だから早くそれに気づいた人間がほんの少し強くなろうって努力するべきなんだ。振りをするだけでもいい。そうだろ?強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ。」

村上春樹(1982).風の歌を聴け、講談社

 なんて、ハードボイルド。ここでは、「正しい」世界との向き合い方(スタイル)が表明されている。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』においては、ラストで「僕」は、この世界を生み出したのが自分自身であることに思い至り、自身の影に別れを告げ、その世界に留まるという決断をする。そこでは、繰り返し自身の「責任」が口にされる。当たり前だが、「責任」というものは、個人でしか取れない、取りようがない。だからだろうか。1995年以前の作品には、「僕」の親はほとんど出てこないし、「僕」が、子どもを作ることもほとんどない。

 だが、「アンダーグラウンド」以後の作品からは、主人公「僕」の「正しさ」ではなく、読者(の精神衛生)にとって「正しい」物語を書こうという明確な意図を感じる。人間は弱い。新興宗教に嵌りこみ、組織の指示に従い、サリンを撒き散らしてしまうほどに、圧倒的に弱い。そんな弱い人間の心が豊かになるような、そういう「正しい」物語を紡ごう、そう考えるようになったのではないか。強い人間の振りをする必要なんてない、弱い人間、いや人間の弱さを肯定しよう、そういうポジション変更が、(おそらく)意識的に行われたように思う。

 物語作家として、長く書き続けるためにも、この変更は、必要な判断だったように思う。しかし、初期作から入った私にとっては、残念と言うと言い過ぎになるのだが、少なからず、複雑な気持ちにはなった。今も、新刊が出たら、その日のうちに購入するくらいには、ハルキストなんだけど。

6位:ペソア『不穏の書、断章』

 誰にでも自分のお気に入りの酒がある。私は実在するということのうちにすでに十分な酔いを見出す。自分を感じることに酔い、彷徨し、まっすぐ歩いてゆく。時間になれば、みんなと同じように会社に戻る。時間が来てなければ、河まで行って、みんなと同じように河を眺める。私は同じだ。そしてこれらすべての裏側に、私の空があって、私はひそかにその星座となってちりばめられている。私の無限をそこに持っているのだ。

フェルナンド・ペソア著・澤田直訳(2013).不穏の書、断章、平凡社

 1年中、ペソアを鞄の中に入れ、通勤していた時期がある。当時は、最悪な上司のもとで、酷い仕事に従事し、同僚全員から敵視されるという悲惨な状況に置かれていた。逃げることが出来ない性格なので、意地でもやり切ろうとして、持病を悪化させ、精神を病んだ。その結果、結構いろいろなものを失った。それでもまぁなんとか乗り切れたのは、ペソアを読むことで、つまり、自分自身の他人のフリをすることで、バランスをとっていたからだろう、と思う。

 こんな入りで紹介をすると、ペソアを心理カウンセラーと勘違いさせてしまうかもしれない。だが、もちろん違う。ペソアは、リスボンをこよなく愛したポルトガルの詩人であり、複数の異名を持ち、それぞれ異なる人格で詩を書いた、風変わりで、友達がほとんどおらず、それでもユーモアに満ちた、極度に人見知りの、おじさんだ。

 私は、(そして、おそらくペソアを知っている多くの日本人は)アントニオ・タブッキの作品(その代表作は『レクイエム』)で頻繁に登場する「ペソア」が気になり、手に取ったわけだが、その世界を認識する視点とユーモアが面白くて、抜け出せなくなってしまった。パラパラとページを繰ってみると、こんな一文に出くわした。最後に引用して終わろう。

 私はどんな船に乗ってこの旅をしたのだろう。汽船「ありふれた」号だ。笑っていますね。私もだ。たぶん、あなたのことを笑っているのですよ。

フェルナンド・ペソア著・澤田直訳(2013).不穏の書、断章、平凡社

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