毒親を否定することの真髄
毒親に対し「やはりアイツらが間違っていた。育て方がおかしい。それにようやく気がついた」と。
そうすると、親を否定することが、自分の正しさを強固にしていく。
私は正しい!私は正しい!私は正しい!
だってアイツらが間違ってるんだもの、泣いているわたしを叩いた。口の中が血まみれになるくらい、殴られたよ。そして寒い雪の中、わたしをぶん投げて何時間も放置したよ。
まだわたしは子供だったんだよ。
そんなの許されないじゃない!
これに気がついたわたしが間違いなワケないじゃない!
そうじゃないと、道理に合わないじゃない!
あんなに我慢したのがムダだったっての⁉️
そんなの許されないじゃない!
…と、裁きたくなるのですが、これは裁いても裁いてもいくらやっても、根底に「悲しみの自分」がいるから、報われないのです。
裁くというのは、どっちが正しいか思い知らせてやりたい!そして謝罪してもらいたい!ということなんですが。
自愛において、1番にすべきことは、「こんな暴力的なことをされてイヤだった、悲しかった」と怒りを感じることですが、ここで終わらせないの。
暴力に従うしかなかった弱い自分。
あまりに親が怖すぎて迎合するしかなかったダメな自分。
そんな怖い親におべっかを使いながら生きるしかなかった、みじめな自分。
そんな闇堕ちしたいくつもの自分を拾い集める。
弱いわたしなんてダメだ!って否定してごめん、と謝りながら。
正しく強い自分だけ認めて、小心のビビりな自分を否定しているから、正しさにこだわるのだ。
周りの行いの、正しさやルール違反に目ん玉ギラつかせて私服警官やっちゃってるのは、そういうことよ。
別に正しいのは良いのですが、傷ついた心を癒すのは正しさではなく、どこまでも赦されるんだという安心感。
国会中継で、正しいかどうか討論してるの見て心の底から楽しい?満たされる?
社会的側面からの正しさやルールは必要ですが、心の安寧をはかるために正しさをものさしとして持ってくるのは、他人のふんどしで相撲をとるような感じ。
心を癒すのなら、正しいか間違いかの論争から降りる。
そもそも毒親が正しいかどうかなんてどうだっていい。
毒親は好きで毒親やってるのだから、いつまでも好きにやらせておけばよい。
一緒にいたいか、いたくないか、やりたいか、やりたくないか、好きか、嫌いか?
正しいことをいちいち確認するより、自分の心に正直になることが、自分を大切にすることよ。
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