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言葉と表現を考える② ~同性愛・ゲイ~

文:舘野雄貴
イラスト:片山なのあ

「偏見はないのですが・・・」から始まる偏見発言
 
「偏見はないのですが」を枕詞にする場合、そのあとに続く話の内容は発言者の偏った見解や否定的な発言になることが多い気がします。
なので、この言葉を用いるときは、相手を否定する発言の前振りのようになっていることが多いです。
 例えば、「同性愛者への偏見はないのですが・・・」に続く言葉は、同性愛者に対しての否定的な意見が出てくると思われます。また、「あの人は、悪い人ではないのだけど・・・」「別に、嫌いな訳ではないのだけど・・・」などと言った逆接する言葉に続くのは、その前置きをかき消すような内容になっているでしょう。
 そのようにするのは、自分には相手を傷つける意図はない、差別するつもりなどないという宣言のつもりなのかもしれませんが、結果的には相手を否定したり傷つけていることがあります。
 私は、その言い回しを聞く度に、相手を否定する気持ちをぼやかして善人のように振舞う姿勢から、発言者の薄い人間性が透ける気がしてしまいます。
 つまり、「~ではないけど・・・」という前置きをするときほど、否定的な意見を発せられる可能性は高いです。

「ゲイっぽいよね」という発言に含まれる不適切性
 
「ゲイっぽい人」と言われたら、どのような人をイメージしますか?
ヒゲを生やしていて筋肉質な人というイメージをもっていたりしませんか?
 あるいは、「やぁだ~」「もう~」といった言葉遣いをしたり、話すときや笑うときに口に手を
当てる仕草や内股歩きをする男性でしょうか?
 実際に、そういったイメージに近い人もいるかもしれませんが、そのイメージ通りばかりと思っているとしたら、テレビやメディア等の情報を信じ過ぎているでしょう。
 ちなみに、私(ヘテロセクシュアル・シスジェンダー)も「ゲイっぽいね」と言われたことが何度かあります。
これに対して違うとは答えたものの、何とも言えない違和感がありました。その違和感の正体は、自分の内側にあった差別性を秘めた心から生まれたものだと思います。
 違うなら違うで何の問題もないはずなのですが、なぜそのような複雑な心理状態になったのか・・・発言者の言い方にセクシュアルマイノリティへの差別的意図を感じられたからか・・・それとも自分に向けられた誤解への憤りだったのでしょうか・・・。
 いずれにせよ、その違和感は自分自身が同性愛者やゲイの人たちに対する内在化した偏見があった事実を認めざる負えませんでした。本当に恥ずべきことだったと思っています。
 また、一般的に想像されがちなゲイのイメージは、あくまでもイメージに過ぎません。なので、一方的かつ勝手なイメージを決めつけないことも、相手に対して重視すべき配慮となるでしょう。

「自分、ゲイにはモテるんです」発言
 
私のゲイの友人が、知り合う人から「自分、ゲイにはモテるんです。」と発言をされることが多々あるという話をしていました。そして、その度に不快な気持ちになるそうです。
 同様の話を他の人物からも聞いたことがあるので、わりと頻繁に発せられる話の内容なのでしょう。
 この発言のどのあたりが不快なのかについて考察してみた所、いくつかの差別的意味合いが含有されていることが考えられました。
まず、「ゲイにはモテる」という言葉には、異性と比較して同性には好意をもたれる傾向があると言いたいことが推察されます。私の考えすぎかもしれませんが、これは同性愛者より異性愛者を優位であるというように聞こえてしまいます。
 無論、その場合だけではなく頻繁に同性からアプローチを受けているという理由で、そのような発言をする人もいるとは思います。
しかし、そうでない場合は、同性からは好かれるという表現でなく「異性にモテないが、同性にはモテる」と主張する意図は一体何なのでしょうか?
自慢か?同性愛者に対して友好的であるというアピールか?それとも、マイノリティへの蔑視か?
 こうした発言は、状況や場面によって意味が異なってくるかと思います。よって、受け手側がどう捉えるかについて良く考えながら、言葉や表現を選択したいものです。

同性愛者への偏見
 
そもそもセックスとジェンダー、性的指向は、独立した別々のことですが、混合して考えられがちなのかもしれません。
マジョリティ(ヘテロセクシュアルやシスジェンダー)として生活している人でも、その人の性別による傾向はバラバラでしょう。少し前までの概念では、制服や持ち物などによって性別を分ける傾向が強かったですが、近年は性別による区別も改められてきている兆しがあるようです。
 よって、性別によって分けるというよりは個人単位での違いを理解していくことが、相手を理解する上で大切なことでしょう。そのためにも、生物学的な性と自認している性別、性的指向、性表現等をそれぞれ分離して捉えていくことが求められているのではないでしょうか。

まとめ
 
人は、あらゆる概念の組み合わせによって成り立っています。また、病気・障がい・精神状態によっても考え方は変動します。健常でいる時には、病や障がいのことを深く考えたことはなかったとしても、当事者になると視点が変わり、世の中の見え方も変わってくるでしょう。
 更に、結婚・パートナーの存在、出産、別れといったことによっても、その人の価値観は変容していくでしょう。また、マジョリティ・マイノリティのどちら側なのかによっても優位性や安心感等の感じ方が異なってくるかと思います。
 周りを見渡してみると、自分と異なる価値観が孤立していたり、悲鳴を上げていることはないでしょうか?そのような人々との出会いや存在によっても、自分の在り方を見つめることもできるでしょう。
人それぞれ違いがあり、変化もしていくことを理解しておけば、「人は同じではないから分かち合う必要がある。」「変わらない所もあるが、変わることもできる。」という考えに変換できます。
 人は、無知であることに気付かず生きていくこともあるでしょうし、気付いても知らぬふりをすることもあるかと思います。どんな生き方を選択することも自由だとは思いますが、自分の主張を通したいのであれば、それは相手への理解を示すことと一対でなくては成就し得ないでしょう。
そして、異なるアイデンティティとの共生の道を歩みだすとき、新しい世界への扉を閉めていたのが、どちらであったかを考えてみるのも良いかもしれません。世界を閉ざしていたのは自分だったという気付きが与えられるでしょう。
 私たちは生きているうちに、どれだけの人たちと互いの価値観を分かち合い、感動を共感することができるのでしょうか?多種多様な人たちとの共生の道を歩む中で、さまざまな魅力や可能性に満ちたこの世界を心ゆくまで楽しみたいものです。

参考文献:
四本裕子.脳や行動の性.https://www.jstage.jst.go.jp/article/ninchishinkeikagaku/23/2/23_62/_pdf
大木繁.生物学的に見た男女差.https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyorinmed/49/1/49_21/_pdf
澤田玲子、佐藤弥.男脳vs女脳~感情処理における行動と脳の性差~、https://psych.or.jp/wp-content/uploads/2017/10/75-9-12.pdf

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