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ヒモと会社員

                                本意

 ふと気を抜くと、宝箱の様相を呈したちいさな箱庭のような教室の幻影が頭のすみを過ぎる。数多の生徒が上履きのままベランダへ出て、トイレを行き来して、戻ってきてまた踏んで歩いた板張りの、埃まみれで汚らしい床の上、べたりと座り込んで何時間もそこに居た。持ち込んだゲームの何と重かった事だろうと思う。その思い出をセピア色にしてしまうには、まだ遠く及ばない。今も鮮やかな記憶が、依然として心臓の一角を占めたまま、消えることなく脈打っている。


 大分暖かくなってきた気候も、夕方を過ぎればまだ中々に涼しくて羽織ものが要る。梅雨にさしかかろうかという折、気が変わったとでも言いたげなお天道様がさんさんと日光を地に人にと注ぎ、いっそ梅雨明けのようなからっとした空気の昼間までは良かったのだが、季節の変わり目は寒暖差に辟易することも少なくない。慌てて引っ掴んだ上着も気温が下がれば邪魔者扱いをされることもないのだが、思い通りにいかないことも多いこの時期の天候では、かえって嵩張るそれに悪態をつきたいときもある。
 「お先に失礼します」、と一言告げ、鞄を持って出た。ビルの外はオフィスより格段に涼しく、どうやら気圧も低い。体調を崩すような繊細な性質では無かったが、時間と共に段々と出てきたらしい中途半端な雲模様を見て、そのあまりにも微妙な天気に心中で嘆息した。まるで俺の心のようだ、などと、在り来りな言葉もすんなりと胸中に染み込んで落ち着いた。
 ありふれた表現はどうしてありふれているのだろうか。きっと共感する人が少なくないからだろう。例えば何事かについて只管考え抜いたとき、捏ねくり回して、練って、彽徊して、ようやく出た結論がありふれた言葉でしか表せないものだった、ということはままあるのではないかと思う。それは俺が大して複雑な思考回路を持ち合わせていないからかもしれないけれど。しかし表現力に乏しい俺は、どうにかして出尽くしている、膨大な量の「在り来り」に頼りたい。どうかこの心情を一言で言い表してほしいと思う。
「あ、おかえり」
 俺は感情の形を変えて表現することなど出来ない。出来るのはただ、
「あー、こいつ、なんで俺の家に居るんだろう。」
「え? また説明するの?」
「五月蝿い、早く仕事探せ」
 思ったことを思ったままに言うことだけだ。
 上着、要ったっしょ。などと自慢げに話してくるこの男、俺が暑かろうと雨が降ろうと決まった時間に起きて会社へ赴き、速やかに仕事を終えて定時で帰る──ことも中々出来ず、今日のように偶々早く帰れれば、「仕事がんばったんだな」と衒いなく賛辞するこの男は、学生時代の同級生の中でも、特別親しかったその男に違いない。抜けている所はあったけれど、基本的に真面目な男で、何時だったかに確か、自分の内定よりも僅か早くに通知を貰い、ほんの少し悔しがった気持ちまで鮮明に覚えていた。そうだ、ほんの一か月前にはかなり久々に見たと思った焦げ茶の旋毛だが、今はこうして人をダメにするクッションにだらしなく身を沈めてゲームする様を見ることにまたしても慣れてしまった。
「おまえ、家にずっと居るなら飯くらい作れよ」
 そもそもこの男は、本来こんな場所に居る筈は無いのだ。
「作ってるじゃん、一週間に一回」
「割に合わねえだろうが」
「勘弁して下さいよ」
 その居る筈無い男は、こうして俺が詰り出すと、ふとめの眉を八の字に下げて困ったように照れ笑いするのがお決まりだ。口先で誹れど、正直なところ現状に否定的な感情をほんの一滴たりとも持ち合わせていない俺の形骸化した文句たちは、当然こいつにも知られていて、さっきよりも困った顔で、「おまえは意外となんでも許してくれるやつだ」と低い声で紡がれたりもする。そんな訳は無い。俺はやさしい奴じゃない。やさしいのはおまえの方だ。だから今まで何度だって、俺の我儘に笑って付き合ってくれたんだろう。もう昔のことだけれど、俺の中で最も輝かしい記憶を辿れば、大抵この男が隣に居る。人によっては許容できないような態度も、全部赦して笑っていたおまえの方がやさしい奴だ。だから口の悪いことばかりを言っても、結局俺はおまえに頭が上がらない。
 尚更、サラリーマンとして辛うじて社会貢献に務める俺の元へ、まさか無職の肩書き付きで転がり込んでくるなどと思いもしなかった。そう、即ち現在、これが男女の関係で、俺たちのような腐れ縁の野郎共で無かったら、間違いなく"ヒモ"と呼ばれるそれに、この男が該当するわけである。

「美味かった」
 やっすい舌だな。かなり冷たくそう言ったつもりだったが、何が面白かったのか、今しがた食べ終えたばかりのコンビニ弁当を片付けながらあいつは機嫌よく笑った。
 地元で務めていた筈なのに、前触れもなく上京した俺の家に上がり込んできたこいつに、何があったのかと問い詰めるようなこともしなければ、心配するような言葉を掛けたことも無い。ただ、突然玄関の前に現れた懐かしい顔が、それはもう曇り空のごとき様相で、「仕事決まるまで泊めてくんない?」などと言うから、俺は一も二もなく、「寒いから早く閉めろ」と言ってそいつを迎え入れたのだ。その時のそいつの顔はまるで道に迷った子犬のようだった。学生時代、呑気なそいつはテストの点数がどれだけ低くてもそんなに深刻な顔を見せたことは無かった。だからきっと焦ったのだった。疲れた大人のような表情をするようになってしまった友人が、俺が知る友人では無くなってしまったような不安があって、加えて俺はその友人の顔に、大人になって変わってしまった自分自身を見た気もまた、した。
 だと言うのに、こいつは。
 上がり込んできて数日は借りてきた犬猫のような有様で態度も可愛らしいものだったが、少しすると学生時代を彷彿とさせる精神力ですぐにその表情に晴れ間を覗かせるようになり、あの曇天のような顔を見せることは無くなった。何があって、そして何をして解決に至らしめたのか皆目検討もつかず、また訊く気も更々無かったが、そんな奴の様子に「あぁ良かった」などと純粋な安堵を覚えていられたのも少しの間だけだった。職探しをする気が全く無いのだ。昔から危機感の薄い奴ではあったが、本当に毛ほども探す素振りを見せず、もう最近は俺自身も殆どやっていなかったゲームを引っ張り出してきてテレビの前を占領するその様子を見て、真面目と思っていたそのイメージと乖離していると思いつつも、本当にこいつは「こんな奴じゃなかった」のかどうか断言出来ないところがもどかしくて歯噛みした。今や心に曇天を飼うのはこちらであって、当の本人はゲーム三昧の生活を謳歌している。
 本当は分かっている。たかが何ヶ月か無職であっても何の心配もないことなど。俺に気を揉まれる筋合いの無い事など。けれどどうしても気にせずにいられない。そういうアレコレを我慢してこそ大人だろうと、甘えたことを言うなという、自分に強く課してきたそれらが、こいつにも及んでいるのだとすぐに自覚した。
「なぁ、この先どうするか覚えてる?」
 風呂を上がっても奴はそこを占拠している。俺は感情が複雑に絡み合うのを感じた。その変わらない能天気に安堵し、過ぎた呑気に苛立ちを感じ、苛立ちの原因が自身の精神の不調にあることを自覚して、疲弊する。相手が悪くないことを分かっていてもそうした感情を抱いてしまうのであれば、それはこちらの問題だから接触しないのが一番なのだが。
「おい、無視すんなよ」
「……なに、どこ?」
「ここ」
 この男はこちらの事情などお構い無しに話しかけてくる。俺が最近疲れていることに、そしてその原因の一割程度は自分であるということに気づいているのかいないのか、はたまた確信犯なのかは知らないが、学生時代から元々低かったそれより更に低くなった声で何でもないことのように話しかける。今、ちょっとナーバスになってるから、そうした変化も気になってしまう。俺はおまえに呼ばれたら行くしかないのだからやめて欲しい。見るとこいつらしくなく、丁寧にマッピングされた様子と、右往左往するキャラクターが居た。どう考えてもマッピングなんて真面目にやる奴ではなかったから、どうせ戦闘を求めて敵を追いかけていたら迷ったんだろうと当たりをつける。
「たしかこのへん、そこ右行って」
「あー、ああ! これか!」
 おまえ本当よく覚えてんな、と驚いたように言うこいつに、覚えてると思ったから呼んだんだろ、と思う。このゲームも昔一緒によくやった。無事次のイベントに進んだ奴を見届けて、中途半端に下ろした腰を上げようとした。
「最近マッピングするゲームやってなかったから新鮮でさ、真面目に隅々まで探索したんだけど、やっぱ迷ったわ」
 腰を上げかけた姿勢で静止した。何て事無い。そういう事もあるだろう。俺自身も、もうしばらくゲームをやっていない訳だし、たまにはと昔ながらのシステムを楽しむ姿勢があって可笑しくないと分かる。ただその瞬間の俺は、なぜか、確信めいた予想と反する行動を起こしたこいつに、読みを間違えたということに、酷くショックを受けたようだった。

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