見出し画像

超鮮度カレー [すーぱーふれっしゅ - かれー]


                             えんぞう

 タマネギを炒める人間とそうじゃない人間がいる。カレーの話だ。今さっきまで鍋で炒められているのはくし切りにされたタマネギで、雑に切ったので根元が少しくっついている。跳ねた油が胸のあたりの肌にぶつかり、痛みと驚きで腕が弾み、おたまとともにタマネギが鍋から飛び出す。おれは悪態をつきながらしゃがんで落ちたタマネギを拾い、鍋の中に戻してやった。これと同じ事が三回起こった。その後も憎く見えてきたタマネギをおたまでぐずぐずといじっていたのだが、炒めるのもだんだん面倒になってきて、炒めない人間もいるんだし炒めなくても良いんじゃないかという気持ちになってくるのもいつものことだ。六月にしては気温が高く、ガスコンロのそばはさらに暑い。いまおれはパンツしか身につけておらず、跳ねた油は直接おれに攻撃してくる。
「タマネギ、透明に見えなくもないな」
 タマネギを炒めるのを切り上げることにして、鶏肉とジャガイモ、にんじんを投入する。水も。あと炒めるときに入れようと思っていた胡椒も。鶏肉も本当は炒めるつもりだった。炒めた方が旨く思えるが、おれのばかな舌が鶏肉の加熱方法を敏感に感じ取れるのかというと、そういった己の感覚器官への信頼は全くなかったし、具材を炒めることに対する、何かそういう宗教的な信条というものもなかった。なかったのに炒めていたのは滑稽だが、思えば今日のように炒めるのを途中でやめることの方が多かったことを思い出した。なんの問題もなかった。
 ここからさらにおれはナスを入れた。ナスが好きだからだ。ナスは高級な野菜なのでそう頻繁に入れることが出来ないのに、カレーには毎回ナスを入れるくらい好きだ。節約のために肉は安いものを選ぶ。鶏はもも肉ではなくむね肉だ。今日は奮発して二割引の骨なし手羽を混ぜている。むね肉よりgあたり十円くらい高い高級品だが、たまには美味しい思いをしてもいいと思う。煮ている間は何もすることがないので鍋をじっと眺めている。今日はこれを書いているので幾分有意義な時間になっているだろう。
 さて、じゃがいもとにんじんが煮えるまで何を書いたらいいだろうか。カレーを作るとき、やけに凝る人間がいるが、あれらをおれは全く理解できないでいる。カレーという言葉は「一度に、大量に、楽に作ることが出来る」を意味している。おれの言語では。なので作るのに手間暇をかけるようなカレーはもはやカリーであり、こちらはおれの言語では「カリー」を意味する。スパイスを駆使したアレだ。こちらも非常に美味いのでたまに食べに行ったりする。
 というわけでおれは二週間に一度はカレーをつくり、その日から五日間カレーを食べることになる。作るのは金曜日が多い。おれは普段の日常を船乗りのような気分で過ごしているから、旧帝国海軍の慣習に倣ってそうしている。鍋の中でくつくつ煮える音はソナーだ。これで空腹の座標を定位する。空腹が胃に在ると少し手遅れだ。生煮えでもいいからとおれは煮える鍋に手を付けてしまうだろう。いま空腹は手足の先、力がうまく入らず注意して握力を維持しているような、床を掴んで安定をえているような場所に位置している。あ、にえてる煮えてるというか吹き零れている。鍋の内圧を下げるために蓋を取りたいが今はあいにくと両手がふさがっていて、と、タイピングをやめればいいのか。ちょっと離席します。





 もうちょっとまってね。





 はい、大丈夫です。じゃがいもとにんじんはあとちょっとってとこでした。よし、なにをどこまで話したっけと数行までの文字を読み返す。カレー調理実況は煮る時間は手持ち無沙汰になるので探り探り言葉を連ねるだけになり結果内容が薄くなりがちになることに気付いた。書いていたもの以外に注意を向けてしまうと流れを失ってしまうのだ。えーっと、何話してたっけ。ソナーによる空腹定位の話か。この話題内容がないのでこれ以上話すことはない。
 カレーは水、スパイス、油、タンパク質をぶち込めば完成する奇跡の食べ物だ。さらにここには種々のビタミンやミネラルを加えてもいい。ここまで構成単位に富んだ料理を前にすれば、大体の知性体は膨大な計算処理が追いつかなくなり考えるのをやめてしまう。市販のカレールーはこれらの知性体の救いであった。これを煮えた鍋に入れるだけでカレー未満の混合物をすべからくカレーへと昇華させてしまうその機能性は、四分割することが容易なパックデザインにも顕著に表れている。そろそろ煮えてきただろうか。煮えているでしょ。おれはさっき台所に立ったついでに実装した第三、第四作業義肢でもって取り出した固形ルーの、背面から溝を見定め、十字になっているそれに沿って割り始めた。柔らかくぱきり、という音がして分かれたひとつひとつを鍋にいれる。冷蔵庫から焼き肉のたれをとって適量ぶち込んだ。焼き肉のたれは米とルーの繋がりを強固にしてくれる頼もしい奴だ。いままでのカレー調理において幾度となく参加しているベテランである。
 しかし今回の主役は、なんといっても、じゃーん。これ、アムリタです。以前から気になっていたのだが、今日のスーパーで四捨五入して大体九点九割引四千円だったので買うなら今じゃんと思い購入してみた。ヒンディー語、サンスクリット語? とにかくラベルにある一番デカい「अमृत」なるにょろにょろした文字の自動翻訳が「アムリタ」だった。アムリタをそのまま選択して検索をかけてみたのだが、どうやら酒と乳の入った高級な飲料らしい。つまりアムリタに含まれる酒精はカレーの油と水の結合を助けるほか、香り付けにも良いことが期待できるし、また乳成分が含まれているためカレーは旨味とまろやかさを獲得するというわけである。

 アムリタを投入した鍋の中は依然としてカレーのようであった。具材の島が浮かぶ表面にくつくつと泡沫が浮かび、消えない。泡沫は泡沫を押しのけきめ細かくなっていき、表面を覆っていく。泡沫は具材を飲み込んだそばから分解しているようで、大きめに切ったごろごろじゃがいもが、ああそんなに細かく……おそらく単糖以下まで分解されている。今結合した泡沫たちは、鍋の蓋の下で泡沫らしさを失ってなめらかな表面をもった塊になっていた。筒のような構造をあちこちに生やし、膨張したり収縮したりをせわしなく繰り返す。それは脈動だった。


 一度作ってしまえば二日三日後も食べられる料理であるカレーは、厳密に過去の料理だ。熟成とともに劣化は始まっていて、その競争で熟成が勝ったのが所謂『二日目のカレー』であり、時間経過や保存環境によっては劣化が勝る場合もあるだろう。
 劣化しない、常に鮮度を保つカレーがあるとするなら、それは自ら元素の循環を、代謝を行うような……おそらく生物に近いものかもしれない。


 今、鍋の蓋をゆっくり持ち上げながらカレーが這い出てきた。不定形然としたどろどろの主体に、おそらく手のような器官が三つ生えていた。そのうちの一本をこちらに振り、胴の中心の、ぱくりと裂けた穴から話しかけてきた。

「カレーは、喋る!」

「しかし、痛覚はない!」



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?