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令までありがとう

 彩人へ
 いつか必ずセッションしよう。夢を叶えたら、次はお互いプロとして。
 令までありがとう。
 蒼介より

                ***

 最後の確認のために書類に目を通す。これが完成すれば今日は終わり。全員帰ってしまったオフィスで気持ちがいくらか軽くなる。手にした紙は朝から何度も書き直したためもう一字一句覚えてしまった。
「会社名よし、名前よし、日付よ、あ……」
 本当に最後の最後、プレゼンの日付というわりとどうでも良い箇所。『令和』が『今和』になっているのに気づいてがっくり肩を落とした。あと少しだったのに。
 正直完全に帰るつもりでいたためにボールペンも仕舞ってしまった。一日働いて疲れ切った体ではもう鞄を開けるのさえだるい。小さなペンケースも鉄の重りのようだ。『今』に点をつけて『令』にする。少し違和感はあるけどまあ良いだろう。
 ようやくすべてを終わらせて書類を鞄に仕舞った。何年か使っている黒皮のブリーフケースは最近汚れが目立つ。昔持っていたカバンを仕事用に作り変えてもらった物だが品質としてはまだまだ現役で使える。とはいえ手入れはやはり必要なようだ。
電気を消して部屋を出た。
「よう、お疲れ」
 エレベーターを待っていると別部署の同僚に会った。茶髪が印象的なイケメンだ。
「お疲れ。こんな時間まで残っていたのか」
「明日の会議準備終わらなくてさ。お前こそ」
「俺もプレゼン資料の確認してて」
 お互い仕事は尽きないようだ。
「そういやお前この間の資料また誤字ってたぞ。令和の令って字」
 痛すぎる指摘。まさにさっきも同じミスをしたところだ。まさか他の書類でもやっていたとは。
「こっそり直しておいたから上にはバレてないよ」
「悪い、助かるわ」
「前もやっていたよな、その書き間違い。漢字苦手なわけ?」
「いや、この字だけ。癖なんだよ」
 『今』と『令』の書き違い。もうずっと前からこの癖は直らない。
 エレベーターを降りて外に出ると昼間の暑さを含んだ空気が体にまとわりついた。
「昔貰った手紙が書き間違っててさ、何度も読み返していたら逆で覚えちゃって」
「へえ。あ、この後どう?久しぶりに一杯」
「悪い。やることあって」
「この後に、か。忙しいな」
「そうでもないよ、最近は怠けてほとんど出来てないんだ」
 改めて礼を言って別れた。
 やること。まるで真面目に仕事の続きでもやるみたいな言い方に、自分で言っておいてもやもやしてしまう。実際はギターの練習、という疲れたサラリーマンからはちょっと連想出来ない用事だ。
 彩人には夢があった。音楽で生きていく、つまりミュージシャンだ。いつかは舞台に立って何万人もの前で歌を歌う。そんな目標を胸に週に二、三回。会社終わりに預けているギターも持ってカラオケで練習していくのが彩人のルーティーンになっていた。
 きっかけは幼い頃、近所に住んでいた幼馴染の男の子だった。幼馴染、蒼介と彩人はまるで兄弟のように仲が良かった。同じ幼稚園バスに乗り、小学校は毎日一緒に通い、放課後も一緒に公園に行った。気づいたときには趣味嗜好も似通っていて、たまたま同じランドセルを選んだときなんかは親も感心していた。
 そんな二人だったので、蒼介の家で兄貴のギターを見たときは二人一緒に大興奮した。そのフォルムや音のかっこよさにしびれたのを良く覚えている。それから二人は夢までお揃いになって、中学校で二人で軽音部を作って文化祭で歌ったりもした。周りからは笑われたが、いつだって二人とも真剣だった。
「いつかプロになってもサインやらないからな」
 それが口癖だった。
 しかしそれも蒼介の引っ越しで状況が変化した。引っ越しと言っても隣の県だったのだが、中学生にとっては超えられない巨大な壁のように感じた。もう二人で練習は出来ない。気を落とした彩人に蒼介が残した短い手紙。それが彩人の原動力であり、癖になってしまった書き間違いの原因だった。

***

 会社の最寄り駅から何駅か乗り継ぎ、目的地で降りる。いつもはここら辺にくれば音楽で頭がいっぱいなのだが、今日は歌もギターも考えたくなかった。原因は先ほどスマホに届いたオーディション落選の通知だろう。
 仕事で疲労が溜まる日々、なかなか取れない練習時間、重ねていく年齢。
「やっぱ厳しいよなぁ……」
 そんな弱音がこぼれる。分かっているのだ。自分にとびぬけた才能は無い。うまくはなっているものの、簡単な世界ではない。落ちまくるオーディションが追い打ちをかける。一生分の時間を使ったってなれる保証など、どこにもないのだ。
「今日はやけに疲れ過ぎている」
 カラオケに向かっていた足が段々ゆっくりになる。
「明日も早いし、体は大事にしないといけないし」
 一歩一歩が重くなる。
「大体こんな状態じゃ良いもの作れるとは思えない」
 言い訳が体にまとわりついて、行く手をはばむ。
「そういえば鞄の手入れをする道具を買いに行かないと」
 消しても消しても逃げる口実が湧き上がってくる。
「そもそもここで頑張ったって、お前なんかになれるはずないだろう?」
 ベトベトとまとわりついた言い訳はついに彩人の歩みを完全に止めてしまった。
 やめよう、今日はカバンを優先した方が良い。そう思った途端に体は回れ右をして今来た道を戻った。さっきと同じ足とは思えないくらいに速足で、まるで、何かから逃げるように。

***

「いらっしゃいませ」
 レンガ造りのどこか暖かみのあるその店は、彩人のようなサラリーマンでも来られるようにか、店は遅い時間でも開けてくれていた。オレンジ色のライトに照らされて狭い店内には革の鞄が並んでいる。客は彩人以外いなかったが、主人はカウンターの奥でひっそりと作業をしていた。どうやら傍においてある明るい茶色の皮の鞄を修理しているらしい。
「革の手入れ道具を探しているんですが」
「ああそうでしたか。少々お待ちください」
 店の奥にあるのをいくつか出すと言ってくれた。待たされる間、こっそり店内を見回した。落ち着いた雰囲気の壁にある鞄は良く見ると新品だけでなく使い込まれたものや修理前であろうものも多く並んでいる。売るよりも修理をメインにしているのかもしれない。
 この店の存在は元から知っていたのだが入ったのは今日が初めてだった。いつものカラオケに行く道にあるので必ず前を通るのだ。今日もそうだがあまりにぎわっている印象は無いため印象は薄かった。
「ええとこれとこれと、それから」
 プルルルル
店主が口を開いたとたん、電話の音が鳴った。奥から聞こえるので店のものだろう。
「すみませんねえ」
 申し訳なさそうに店の奥にはけていった。
 手持無沙汰になったのでなんとなしにまた並んでいる鞄を物色することにした。鞄は仕事用のだけでなくおしゃれなリュックや出かける時用の小さめの物など様々だ。革製品のみのようだがひと口に革と言っても薄い茶色や赤身のかかったもの、真黒なものもある。デザインがまちまちなところを見るとどうやらほとんど修理品なのだろう。
 流れるように見ていた中に、思わず目を留めたものがあった。彩人の鞄と同じような大人向けの黒革だったので気づかなかったが良く見るとそれはランドセルだった。大人向けの鞄が並ぶ中でピカピカのランドセルは違和感を放っている。しかし彩人が感じたのはそういう違和感ではなかった。
「これ、どこかで……」
「それ、良いでしょう。お客さんが持ってきた物なんですよ」
 電話が終わったらしい店主が戻ってきた。
「お父さんが使っていたものをもう一度作り直してほしいって持っていらっしゃったんですよ。何十年も前の物だったんですが素材が良くてね、ご覧の通り新品同然です。世界に一つだけのランドセルですよ」
 頼んではいないのだが店主はランドセルの錠前のところを開けて中を見せてくれた。確かにお古とは思えない程綺麗でしっかりしていた。
 よほど自信作なのか満足気にランドセルを見せてくれた。
「何か落ちましたよ」
 ふと、ランドセルから付箋くらいの小さな紙がひらりと落ちた。ルーズリーフか何かを切り取ったのだろう。よく見るとうっすら線が入っている。
「ああすみません。お客さんに注文した日付を書いてもらったのを入れっぱなしにしていたみたいで」
 拾い上げたメモを裏返すと確かに文字が書かれていた。
『……今和……』
 心臓が跳ね上がった。ついさっき同じ文字の並びを見たばかりだ。日付を書くといつもやる書き間違い。令和、じゃなくて……。
「ああでもこの方、日付の漢字を間違えていますねえ」
 店主をよそに、彩人は文字にくぎづけになった。同じ文字の書き間違い、そしてそっくりな色の革。
 まさか。
「元のランドセルがね、なんでも思い出の品なんだとか。六年間使う物ですからねえ、愛着も湧くでしょう」
 ランドセルにそっと手を伸ばした。作り直したと言うだけあって見た目は全然違う。デザインを現代風にしてあるのだろう。しかしその肌触り、色、そして何より書き違い。
 まさかとは思ったが、引っ越したのは隣の県だ。ここに戻ってきていてもおかしくない。息子がいたっておかしくない歳だ。
「それでお客さんの鞄ですが」
 店主の声で我に返った。今日は自分の鞄だ。昔使っていたカバン、ランドセルを作り変えてもらった、大切な物だ。
「手入れをしたいんです。大切な、思い出の品なので」

***

 道具を買い、店を出た。さっきより少し涼しい空気が頬をなでた。
 あれ以上、あのお父さんのことは聞かなかった。もしかしたら別人かもしれない。たまたま字を書き間違えただけ、たまたま似た色の皮だっただけ、たまたまランドセルに思い出があっただけ。
 それでも、なんだかあいつは元気にしていると、同じように頑張っているという気がした。お互い何年もたって成長して、あいつは子供が出来て。見た目なんかもう会っても分からないかもしれない。それでも、この同じ空のどこかにいて、約束を果たそうとしている。そんな気がした。
 帰ろうとしていたはずなのだが、気づけば足はもう一度カラオケへ向かっている。
 疲れが溜まっている。明日は早い。今からでは大した時間は出来ないだろう。それでも、足はステップを踏むみたいに軽やかだった。
 歌いたい。
 無性に店舗を刻みたくなる。体がギターの重みを求めている。
 鞄の黒皮が月に照らされる。長年のそれは、新品みたいにやけに張り切っているように見えた。

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