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レスト・イン・パラダイス

                             速水朋也

「だからね、今この瞬間もぼくたちの貴重な青い春はコンビニの出口んとこでぼたぼた垂れてくどっかのおっさんが捨てたコーヒーの氷とおんなじ速度で浪費されているわけ。それなのにこんな犬小屋みたいに蒸し暑い部屋で宿題やって、山にもフェスにも工場見学にも行かないでさあ、夏休みだよ、英単語は八十歳になっても覚えられる。けど十七歳の夏休みはあと三週間しかないんだよ。わかってるのかい、明は」
 と、そこまで一気にまくしたてた透は、ねえ、あかりってば、とだるそうに名前を呼びながら僕の英単語帳を叩いた。【mess‐散らかった状態;混乱状態】の文字が隠れ、端からはみ出たフィルム付箋がちらちらと光を反射して揺れる。彼女が中学生のころから着ている海外の古いバンドのロゴが入ったTシャツは、もう襟元がだらしなくよれて緩くなり、ちゃぶ台に乗り上げたせいで服の中身がすっかり見えた。
「透、見えてる」
「それをやめたら隠す」
 そう言って単語帳を指さしたが、今さら彼女の服の内側に感じることは何もないため、放っておくことにする。
 透は僕が夏休みに入ってから毎日部屋に押しかけて、小学生が遊びすぎてうっかり溶かしてしまったスライムみたいに畳にへばりついて過ごし、時折僕の母からおやつをもらって喜んだりしていた。そうして本棚やDVDラックをあさったり昼寝をしたり、それに飽きるとこうやって妨害を始めるのだ。まるで猫だ。猫はこの先何があっても飼わないと決心する。
 目の前の幼なじみはコップの底の薄い麦茶を小さな氷と一緒に口に流し込み、音を立ててかみ砕いた。透明な水のかたまりが、こんなふうに音を立てて砕けることに僕はいつも感心する。
「おかわりいる?」
「いや、いい」
 透は大きく口を開けてあくびを一つし、伸びをした。本物の猫みたいだった。
「明は毎日毎日勉強してるけど、一体将来何になるつもりなのさ。宇宙飛行士? 物理学者? もしかして錬金術師? そんならいいけど」
 そう言った彼女の至ってのんきな笑い方が、その瞬間、ほんの少しだけ僕を意地の悪い気分にさせた。
「別に何にもならない。ここから出ていくだけ」
 年代物の扇風機のぶうん、という音が頼りなく空気をかき回し、透の不揃いな短髪を揺らした瞬間、ぺったりと額に張り付いた幾束かの髪の毛と、その下にある二つの小さな瞳が見えた。薄い一重のまぶたと平らな涙袋に縁取られた、薄暗いまなざし。
「明」
 セミの叫び声が網戸をくぐり抜けてその勢いを少しも緩めずに僕たちの鼓膜へ。けれど透の声はよく聞こえた。思えば彼女は小学生のころから声が大きかった。僕が運動会で派手に転んだときも、彼女が校外学習で迷子になったときも、彼女はよくとおる声で僕の名前を呼んだ。僕はそのすべてに応えた。
「なんだよ」
 透を見ると、真昼間の公園のようにぎらぎらした笑顔が僕を見つめていた。午後三時の窓を背にして、顔にうっすら影が落ちている。僕は天井を仰いだ。染みが三つくらい逆三角形に並んで、疲れた人間の顔みたいに見えた。こういうときは大抵、最後にはあきらめるしかないのだ。
「死体を埋めに行こう」
「……死体?」
 透が勢いよく立ち上がり、舞い上がったほこりが日差しを受けてきらめいた。おかげでシャツの中は見えなくなったけれど、今度はゴムのたるんだ中学ジャージがずり落ち、安っぽい水色の下着の端が見えた。僕はそっと溜息をついた。
 
 
 八月の午後の陽の光は、何にもさえぎられることなく僕と透を突き刺し、道端の畑の葉を青く、まぶしく照らした。さらさらと揺れながら光る無数の葉に囲まれた歩道に、二人分の汗が落ちるのを見る。透がおもむろに立ち止まり、肩から下げた水筒のふたを開けた。僕の家の水筒だ。何も持たずに外に出ようとしたとき、母が彼女に持たせた。
「外暑いんだから気をつけなさいよ。明、透ちゃんにちゃんとついて行ってね」
 きっと母の中では、僕も透も十歳のころからまるで成長していない。実際、水筒を嬉々として受け取った透は化粧もしないし、中学生のときのジャージか、弟のウィンドブレーカーばかり着ている。おまけに自分のことをぼくと呼ぶので、声変わりのしていない中学生男子のように見えるのだ。
 オレンジ色の水筒には剥げかけたウサギのイラストがくっついている。母が選んだものだ。まるで自分の水筒じゃないみたいでずっと嫌だったそれは、透が持つとよく馴染んだ。透はふたをひっくり返し、冷えた麦茶を注いで一気に飲んだ。反りかえった平たい喉が麦茶に合わせて二度、三度と動く。彼女がこうして何かを飲み干すとき、僕は決まって、自分の喉もとに浮き出たやわらかな骨のことを思う。
「はい」
 目の前に差し出されたふたには、二杯目の麦茶がなみなみと注がれていて、僕はそれをこぼさぬようそっと受け取った。透のように一気に飲むとむせてしまいそうだったから、一口ずつ飲みながら尋ねる。
「で、どこに行くつもり」
「行けばわかる!」
 そう言って透は突然駆けだした。僕は慌ててコップの中身を空にし、走った。透のゴム製のサンダルが、彼女の足の裏から離れるたびにぺたぺたと間抜けな音を立てた。
 
 
 透が高校に行かなくなったのは進級してすぐのことで、僕が名前も顔も知らないような男との間に子どもができたと言って、そのままやめた。僕は、どうやらそこに未完成の人間が一人いるらしい、彼女のまだ平らだった腹を見て、なんだか出来の悪いSF映画を見ているような気持ちになり、笑った。透も笑っていた。子どものころ、日曜日の夕方にやっていたアニメをよく二人で見ていた。そのときと変わらない笑い声だった。
 手術が終わってから、透はずっと家の畑の手伝いをしていた。彼女の親は娘の人生に対してそこまで深刻に捉えない人たちだったから、今回のことも気にしていないようだった。反対に、僕の母は透のことを一方的に心配し、僕の元に来ることを歓迎した。母が女の子を欲しがっていたことは何度も聞かされていたから、僕も透が家にいたほうが気が楽だった。

 
 二十分ほど歩いたところで、コンビニに立ち寄ってアイスを買った。互いに手持ちがなくて、一番値段の安いガリガリ君を選び、外の日陰に座って食べた。陰の中にも夏の熱気は容赦なく押し入ってきて、僕たちの手元を溶けたアイスでべたつかせた。
「ガリガリ君の当たりって見たことある? ぼくはあれを都市伝説だと思っている」
「見たことないけど、存在はするだろ。さすがに」
「明は夢見る少年だなあ」
 返事をする気力もなく、そもそも僕たちの会話は毎回こんなふうに途切れるので、コンビニの向かいの床屋を眺める。平日の昼間、客のいない店内では店主が居眠りをしていた。
「何見てんの」
「床屋のおじさん。寝てる」
「日陰から日向をみるとさあ、まぶしくて嫌になっちゃうとき、ない?」
 左側を向くと、食べ終わった無地のアイスの棒を透が奥歯でかみしめていた。日向に出ないように僕たちは肌の触れないぎりぎりの距離まで近づいていて、それはそれで互いの体温で暑く、汗で色の変わった透の襟元から、日焼けあとと白い肌の境目が見えた。
「外れた?」
「外れたね」
 じゃあ、行こっか、そう言って立ち上がった透がふと、ごみ箱の脇に目を向けて立ち止まったので、つられてそちらを見ると、小さなセミが一匹ひっくり返っていた。
「虫苦手だったっけ」
 一応聞くが、そんなわけはない。僕は数年前まで彼女と虫相撲大会をして遊んでいた。ついに互いに早起きが億劫になって虫を捕らなくなり、なんとなくやめただけだ。
 透はたった今捨てようとしていたアイスの袋を開くと、はたして本当に死んでいるのかもわからないセミに躊躇なく腕を伸ばし、拾い上げた。幸いというべきか、セミの魂はとっくに抜け落ちていて、暴れまわるようなことはなかった。透がそれを素早くソーダ色の袋に投げ込むのを見て、僕はこの散歩が死体を埋めるために始まったことを思い出した。
「よし、行こう」
 僕は自分の空の袋をごみ箱に投げ入れた。
 

 背の高い、名前のわからない植物に囲まれた道を進むと、潮の匂いがしてきた。風が少し強く吹き、草の向こうから葉を震わせて僕たちを生温かい空気で包んだ。
「明は結局何になりたいの」
 透はこちらを見ずに、静かな声でそう聞いてきた。右手に握った袋から、一歩歩くごとに虫がビニールにこすれる音がして、僕はなるべくそれを見ないように答える。
「何になるとかは、本当にないよ。ここを出る」
「なんで? 今、楽しくないの?」
「楽しいけど、ここは大人になって出ていくところだ。僕は早く、何者でもなくなりたい」
 ふいに、隣から小さい手が伸びてきて、僕の右手を掴んだ。透が僕の手を握って歩いていた。十年前、よくこうして繋いでいた手は、すっかり細く、しなやかに成長していた。
 
 そうして互いに手を握ったまま海に着いた。透はそっと手を離すと、波打ち際から少し離れた場所に手で穴を掘り、死んだセミをアイスの袋ごと埋めた。パッケージに印刷されたキャラクターの朗らかな表情が、熱い砂に隠れていく。僕はそれを見ながら、生きたセミが海を見ることは、浜に触れることはあるのだろうかとぼんやり考えた。日はすっかり傾き、透は死体を埋め終わるなり、手を合わせたりすることもなく海に向かって駆けだした。
「明!」
 水筒に貼りついたウサギと、波打ち際で水を蹴り上げる透が踊るようにこちらを見ている。けれど、傾いた太陽を背景に揺れる彼女とウサギがどんな顔をしているか、その光の強さに目を細めるしかない僕には捉えることができない。
「明!」
 透の少年みたいな声が波と一緒に押し寄せて、やっぱり今日もよく聞こえた。その声がほんの少し水っぽい響きを帯びているような気がしたけれど、それは彼女が海の中にいるからかもしれない。僕は多分生まれてはじめて、透に何も言わずに、そのまま目を閉じた。夕焼けがまぶしく、まぶたの裏を熱く照らした。ふと、今この瞬間に目を開けて、そこに透が横たわっていて、僕がそれを埋めることができたら、と思った。相変わらず、遠くで水と透の交じり合う音がするけれど、彼女の声はもう聞こえない。



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