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少女だった

                               神馬椿


「真っ白だね」
 高校卒業以来、三年ぶりに会った夏実は着ているワンピースも肌も真っ白だった。
「今はハンドやってないんだから、当たり前じゃん。直美は相変わらず可愛いなあ」
 と夏実は笑った。高校時代の夏実はハンドボール部で、髪も今よりずっと短かく、肩につかないくらいだったはずだ。お化粧もしっかりしていて、今日の夏実はとても女の子らしい。
 私はひと口オレンジジュースを飲んで、着ている和服の身八つ口に手をつっこみ二の腕を摩った。カフェの店内は少し冷房が効きすぎている。
「大学ではハンドサークル入らなかったんだ。何のスポーツやってるの?」
「今は茶道のサークル入ってる」
「夏実が茶道!? びっくり。早く言ってくれればよかったのに」
 夏実は黙ってアイスコーヒーを飲んでいた。少しの沈黙の後に、
「変、かな」
 と伏せた目のままで言った。
「全然変じゃない! たしかに、ちょっと意外だったけど、夏実も茶道に興味持ってくれたの、とっても嬉しい」
「そっか。直美も和服素敵」
 夏実が笑顔を見せたのに私は安心した。

「直美は肌白くて羨ましいな」
 正面に座っている夏実は、みかんジュースの缶をパチパチ指で弾きながら言った。みかんの粒をとるために必死でキリンみたいに舌を伸ばしているのがちょっと面白い。
「そうかな。でもたしかに体育のときくらいしか長時間外出ないし、日焼け止めすごい塗りなおしてるな」
「あたし部活のせいで焼けちゃうんだよね~。日焼け止め塗りなおしてもどうせ汗で落ちるから諦めちゃったわ」
 どう返していいか分からず、私は夏実と購買の自販機で買った冷たい缶コーヒーに口をつけた。夏休みの教室には私たち二人しかいないのに冷房がキンキンにかかっている。教室のエアコンは職員室で集中管理されているため、こちらから操作することができない。
「さっき長岡先生が言ってたのわかった?」
「補習で聞いても無理だった! 長岡もあたしに教えながらため息ついてたし」
「だよね! 難しすぎるよこの問題。どうしてみんな解けるんだろう?」
「そもそも、うちら文系で受験にも使わないから数学要らなくない?」
「ほんとそれ」
 愚痴をこぼしながら先生に明日までに解いてくるように言われた課題を進める。廊下を大きな模造紙と筆、大量の新聞紙、バケツを抱えた袴姿の書道部が通り過ぎて行った。その様子を見つめてしまって、何人かと目が合った。
「直美はさ、好きな人とか居ないの?」
「どうしたの突然」
「どうしたもこうしたもないよ? ただ、ちょっと気になったの。直美モテるし」
「モテないよ。あと、いないよ。好きな人」
 秘密にしてごめんね。
「えー、じゃあ佐藤は? 仲いいじゃん。あたしはいいと思うけどな、佐藤」
 その名前に驚いた。廊下を通る佐藤君を眺めていたことに気づかれていないことを願う。
 他の子がこんなことを言ってきたら、私、きっともうその子と仲良くできなかったかもしれない。みんな、こうやって私が恋敵なのか、確認してくるのだ。そろり、そろりと、猫みたい。どうしてみんな、男の子を取り合うんだろう。ガツガツしていて、猫……ううん、獣みたい。でも、夏実はきっと本心から言っていて、こんな穢れた考えは持っていないのだろう。私は夏実のことが好き。見下してなんかいない。本当に、好き。
「うん。佐藤君のこと、別に嫌いな訳じゃないよ。でも、好きだとか、私にはまだわからないかな……」
 これは嘘じゃなくて、本心なんだよ。私は、ほんとうの恋というものを理解しないまま、彼と恋人をしている。彼の優しさに甘え、彼の純な下心につけこんでいるのだ。悪い女。醜い女。
「ふっはは!」
 私が本音を吐露したというのに、彼女は大笑いした。
「な、な、何よ! 人が真剣に悩んでいるというのに!」
「ははは。ごめんごめん。だって、直美が迷子になった子供みたいな顔で言うんだもん」
 そう言って彼女はまだ大笑いしている。
「こ、子供?」
「うん、子供。アンタたまにすごく子供っぽい顔するよね。なんかとっても馬鹿っぽいというか、ちっちゃい子みたいなというか……」
「そっか、ふふふ。そっかあ」
 私にもまだ、女じゃないところがあったんだ。
「え、何。なんで急に笑い出すの? 怖いわ」
「ふふ、夏実のせいだよ。ふふふ」
「ええ、馬鹿っぽいって言ったの泣く程イヤだった!? ごめんね!?」
 夏実はまるで意味がわからないという顔をしてから、笑った。

 寒いなあ。温かいものを頼めばよかったと後悔した。オレンジジュースの氷は溶けて、どんどん飲み物を薄めていく。
「あのね、今日は佐藤君とのこと、ちゃんと話そうと思って」
「……うん」
 氷をストローでかき回しながら夏実は小さく返事をした。
「私、高一のときから、本当は付き合ってた」
「知ってたよ。高二のときには」
「え」
「わからないわけないじゃん。直美とどれだけ一緒に居たと思ってんの」
 夏実はからりと笑う。
「……ごめん」
「そりゃ言い出しにくいよね。親友が自分の彼氏好きだなんて言い出したら」
「……ごめん」
 もっと怒ってほしい。
「でも、卒業式に告白するって時には、流石に言ってほしかったかな」

 私は寒くて、自室の窓のカーテンを閉めようとした。横浜の空に点々と星が見えるなんて、よく晴れているななんて思っていると、携帯から通知音がした。夏実からだった。
〈第一志望の大学受かった〉
〈おめでとう!〉
〈ありがとう〉
〈でも本当に京都行っちゃうんだね……。寂しいけど応援してる!〉
〈うん! 夏休みには帰ってくるからさ。会おうね〉
〈もちろん!〉
 そのメッセージに既読がついてからしばらくしても返信が来なかったから、私はもうこのやりとりは終わったのだと思い、お風呂に入った。しかしお風呂から上がり携帯を確認すると、夏実から一件メッセージが届いていた。
〈直美、あのね、あたし佐藤のこと好きなんだ。卒業式、京都行く前に告白しようと思う〉
「え」
 知らなかった。夏実が佐藤君を好きだなんて。どうしよう。言わなきゃ。言わなきゃいけないのに、何も文字が打てない。既読をつけてからどんどん時間が経っていく。何か言わなきゃ。
〈頑張って〉
 それから私は佐藤君に口止めの連絡を入れた。

「私、高二のときとか探り入れてたのに気づかないしさ」
 夏実の“私”という一人称に記憶とのズレを感じ、なんだか胸が痛くなった。夏実は綺麗に茶色く染まった髪を顔の前でいじって笑っている。
「……気づいてたよ。でも、夏実に限ってそんなことないかなって」
「それは私が女の子らしくなかったから?」
 膝の上に置いた手に力が入る。
「ちがうよ」
 佐藤君は、あの時と違って、今はもうすっかり私の大切な人だ。卒業前にはもう手離すことなど考えられなかった。でも、私はあの時、夏実の告白を止めなかった。私が佐藤君に手離される可能性だって、あったはずなのに。……私は、夏実のことを一度でもちゃんと女として意識したことがあっただろうか? 短髪で、日に焼けた、少しの化粧もしたことのなかった夏実を。
 今、私の目の前にいるこの女は誰だ?
「直美、さっき私になんて言ったか覚えてる?」
「え?」
「“なんのスポーツやってるの?”」
 夏実は穏やかだった。チーズケーキを小さく口に運んで美味しそうにしている。私は何も言えなかった。
「今も付き合ってるの?」
「うん……」
「そっか。私も実は今彼氏いるんだ。同志社に。合コンで会ってさ。けっこうカッコいいんだよ?」
「そうなんだ……」
「直美は佐藤と一緒の大学でしょ? 羨ましいな、彼氏と同じ大学」
「そうかな」
「……私、直美のことがずっと羨ましかった。まず可愛いし、スタイルもいいし、モテるし。重い荷物運んでる時とか、絶対誰か手伝ってくれてたし。背が低いわけでもないのに高いところにあるものは男子が代わりに取ってたし。クラスで一番可愛い女子は誰か、みたいな噂でも毎回名前が聞こえたし、男の先生だって直美には甘かったし。佐藤と付き合ってるし」
 夏実はもはや歌っているかのようだった。
「好きなことしながら、可愛くなっていける直美が、羨ましかったんだ」
 夏実はアイスコーヒーをストローの音が立たないように飲み干した。
「じゃ、私もう帰るね。ちゃんと話してくれてありがとう。久しぶりに会えて嬉しかった。佐藤のことも気にしてないよ。もう三年も経ったんだもん」
 夏実は荷物をまとめる。私も合わせて鞄を持って席を立った。
「あのさ夏実」
 店の前で私は鞄から一枚のチケットを取り出した。日の光が紙に眩しく反射する。
「これ、今度の学祭のお茶券。私も手伝うの。もうしばらくこっちに居るんでしょ? よかったら」
 夏実は嬉しそうにそれを受け取り、ひらひらと振った。
「ありがとう。あ、そうだ。茶道ってすごいね。合コンでお茶やってますって言うだけで男子の反応がいいんだもん。じゃあね」
 夏実はそう言うと、踊るようにヒールの音を立てて去っていった。
 私はその場で衿とおはしょりを静かに整えてから、稽古場へ向かった。

「着物綺麗だね」
「ありがとうございます。お茶席は何時をご希望ですか?」
「お姉さんの居る回は何時?」
「私、今日はお手伝いなので席には出ないんです」
「そっか。じゃあ休憩はいつ?」
「今日は公開終了までシフトが入っておりますので」
「残念。じゃあ、とりあえず次の回ください。連絡先聞いてもいい?」
「十四時からの回ですね。五百円頂戴いたします」
 男が支払うと私は笑顔でお茶券を渡し、
「あちらへお進みください」
 と言った。男が何か言いたげにすると他の部員が男を
「こちらです」
「お足元にお気をつけください」
 と誘導していった。
 私は近くに居た他の部員に受付を代わってもらうと、そそくさと水屋へ下がった。すると半東の後輩が苦笑いしていた。
「直美さん、だから受付はダメだって言ったじゃないですか。うち女子大でそういう輩が毎年湧くのご存じでしょう。主に直美さんにですけど。あとナンパはしっかり断った方が」
「あの殿方もお客様です。そういう訳にはいかないわ」
「う……、そうですけど! それでもよくないです! 次は周りの部員が止めますよ!  叱らないでくださいね! それで直美さん、次の十四時からの席のご友人がまだいらっしゃらないのですが、何か聞いてます?」
「聞いてないけど、来ないわ。はじめちゃって」
「いいんですか?」
「他のお客様をお待たせしてはいけないわ。茶道のおもてなしの心に反するもの」
「そうですね。失礼しました。まだ空いている席を探しておきます」
「ありがとう」
 私は半東からお客の名簿を受け取って、彼女の名前に二重線を引いた。


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