見出し画像

不朽の器と五分の魂

                            享楽

 少し散歩に行ってくる、と気ままに足を進めて数十分。辿り着いたのは桜並木が美しい小川のすぐ側だった。視界を埋め尽くさんばかりの桃色世界は、なんと見事なものだろう。心なしか吐いた息さえ薄く色づいているような気にさせられる。春風に身を委ねるまま先へ進めば、せせらぎに混じるシャッター音。今時珍しい。ふらふらと並木を抜けると欄干に肘をかけた少女の姿を見つけた。
「あんまり身を乗り出し過ぎると危ないですよ」
 真っ逆さまに川へ落ちてしまいそうな少女の痩躯に、堪らず声をかけてしまった。驚きの表情で固まった彼女の手には、一眼レフが大事そうに抱えられている。
「あはは、確かに落ちちゃいそう。お気遣いありがとーございます」
「いえ、こちらこそ突然お声掛けし失礼しました」
 物珍しさに「カメラですか」と近寄ると、彼女もまた心得たように一眼レフを私に寄越してくる。
「自慢の宝物です! どうぞ」
「壊してしまったら怖いので結構です。近くで見せていただけるだけで十分ですよ」
「そう言わずに」
「遠慮します」
「今後触れられる機会があるのかなあ」
「その時はその時で」
 幾度目かの応酬で相手の勢いに折れた私は、両掌に戴冠された一眼レフに内心興奮していた。もしも今ここで手を離そうものなら、たちまち水晶は砕け散り、ガラクタになり下がるのだろう。
「ちょっと待ってくださいねえ」
 写真を見せてくれると言う彼女が私の抱える一眼レフを操作している間、左向きの旋毛が視認できる距離感に妙なくすぐったさを覚えた。笑顔を絶やさない少女の柔らかな人柄がそうさせるのだろう。私は初対面の相手と円滑なコミュニケーションをとれた試しがない。
 ふ、と視界の半分が暗くなった。雲で陰ったのかと空を見上げれば、真下から絶叫がこだました。
「めめめめぇええええええ!」
「おっと目からウロコが」
「目から目玉だよ! だっ、大丈夫なの」
 一眼レフを返却し、足元に転がる球体を拾い上げる。爪で弾けば硬質な音を鳴らす球体は、疵ひとつとて、ついていない。
「えいっ」
「わー!」
 がらんどうの眼窩に捻じ込めば、再び絶叫する少女。
「ふふっ、ふふふ」
「笑いごとじゃない!」
「新鮮な反応だったものでつい。前世紀ならまだしも、今の時代、眼球型記録内蔵媒体の着脱なんて標準スペックですので」
 眉間に皺を寄せたまま「そうですね」と答える彼女に先ほどまでの元気は感じられない。首筋に流れる髪の隙間へ差し込まれた指が、そろりと縫合痕の上を往復する。
「自分は、皆と同じにはなれなかった」
 桜吹雪が明けた空は、私たちを嘲笑うように爽快である。

 百余年前、とある先進国の学舎で起きた一つの悲劇は、瞬く間に恐怖という形で世界中へと伝播し、人々は支配された。
 デュラハン現象——全校生徒3507名の胴体から一斉に首が飛んだものの、命に別状はなし——謎の怪異は世界各所で発生し、現在まで真実どころか原因究明の糸口すら見つけられずにいる。
「私の世代からは頭部を含む身体の約95%を完全機械化しなければならないと新法律ができたので、あなたのような全身生身の人は滅多にいませんよね。絶滅危惧種です」
「馬鹿にしてる? こっちだって一度は首が飛んだ身だ」
「逆ですよ」
 少女の声を掻き消すように叫んだ。
「逆です。尊敬と、あなたがたに背負わせてしまう申し訳なさがぐるぐると胸中に渦巻いて、全部吐き出してしまいたいくらいです」
「生殖活動しか求められていないM.V.P.に?」
「エムブイピー……ええ、M.V.P.のあなたと私の違いは、首の再接続が可能か否かというだけで」
「それが全てなんだよ」
 置いてきたはずの薄桃色の花弁が風に舞って2人の間を通り抜けた。涙を溜める少女の瞳を、私は忘れない。どころか、記録としてずっと保持し続けることが可能だ。一眼レフを撫でる彼女にとっては数年もすれば色褪せて消えゆく過去に、機械人間の私は生き続ける。
「自分は運良く生身の頭を繋げることができただけ。アンタ達は首の再接続が不可能だと判断され、代わりに機械の身体を得た。寿命も、心も、見える景色も、全く別の生き物じゃないか」
 少女の叫びに同意できる者はいない。全人類の大多数と同じく機械化した心と身体をもつ私に、できるはずもなかった。
「写真は素敵ですね」
「そっちはご自慢の眼球型記録媒体とやらで常に映像資料がバックアップされてるんでしょ」
「おっしゃる通りです。だからこそ、唯一の時を切り取った写真は特別だと思います。私たちは個人の視界に入ったものしか記録できませんが、現像された一枚の絵は万人に同じ景色を伝えてくれる」
「主観って知ってる?」
「込みで良いものですねって話です」
「…………写真は、自分しか知らない今この時を、今の自分が収めた思い出を、ずっと大切にできる」
 やや間を空けて、「アンタが仰々しく一眼レフを抱える姿も撮っておきたかったのに」と少女は独り言ちた。
 暫く、互いの呼吸音を聴いていた。機械になっても私は息を吸って吐くことができた。皮膚は柔らかく、咳もするし大口を開けて笑いもする。229万6千時間の活動を可能にする身体は生身と一見した違いは見受けられない。けれど、生殖機能の有無だけが最も致命的であった。
 種の存続のため、M.V.P.はその短命を賭さねばならない。
「ここへは何しに来たの」
 軽快なシャッター音が小さく響いた。せせらぎに混じって、少女が描く瞬間を切り取っている。
「散歩です。今日が退院日で。この身体を得て外出するのは初めてなので、あなたに出会えたのが運命のように感じます。ほら、こんなにも胸が高鳴ってる」
 生身を手放した術後の違和感はとっくに記録から消去されてしまった。これからずっと付き合い続ける新しい器。トントン、と眼球を叩く。
「つまり慣れてないから目玉が落ちたと」
「納まりが悪いのはちょっとした不備ですね」
「入院中に直してもらいなよ!」
 少女の叫びは悲痛な声音とほど遠い愉快な色を滲ませていた。
 私はそっと管理システムのバックアップ機能をオフにして、彼女と笑い声をあげる。儚く尊い、最後の人間らしい思い出は、私の中に何年留まってくれるだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?