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花手折るひと

                             水樹 祥

 方向感覚がない、地図が読めない、スマホを持たない、自分を疑うという選択肢がない。
 方向音痴の素質として言われることには様々あるが、一体何の気まぐれか、神様はそのすべてを僕にお与えになったらしい。
「……完全に迷子だな、これ」
 身ひとつで細い道の真ん中に立ち、久々に少し大きなスーパーに行くはずだった僕は途方に暮れていた。
両側から天高くそびえたつコンクリート塊は空を遥か高くに押し上げ、青く細い帯を縦に成している。
 一体どこから入ったのか自分でもよく分からない。建物が軒並み背を向けたようなこの路地は、途中で曲がり角もなく左に緩やかなカーブを描いて一本のレンガの道を続けていた。
 両側に並ぶ建物は互いに壁を共有するように密着し、隙間から向こう側を覗くことはできない。かといって、人に助けを求めようにも、ドアや窓はおろか換気扇や排気口の一つすら見当たらず、細い配管が所々這うばかりののっぺりとした外壁はどこか要塞を思わせ、奇妙な静けさを漂わせている。
 戻ろうか。この一本道だ、さすがに迷うことはないだろう。いやしかし、そう言って事態を悪化させるのが常だ。この先を進めば、もしかしたら元の道に戻れるか、そうでなくとも大きな通りに出られるかもしれない。そうすれば、人を頼って交番に行き、安心して道を聞けるというものだ。
 ここで後退の選択肢を消した僕は、遠く曲がったその先を目指すことに決めた。しかし、道はただ緩やかにカーブするばかりで、歩けども景色は変わらず、少しの配管と裸の壁である。
 時折流れる雲を仰ぎ、歩くこと五分、十分、十五分……。
「さすがにおかしい」
 というのは、道の果てが一向に見えないからである。これだけ歩けばさすがに別の道にあたってもいいはずだ。ここまでドアの一つ、人の一人も見ないのは普通ではない。大きな円の縁を歩くような感覚は、そろそろ元の地点に戻ってきたとさえ錯覚する。代り映えのしない景色は存外人を狂わせ、僕は妙な倦怠感を抱えながら初めての状況に狼狽していた。
 しかし、ここまで来てしまったものは仕方がない。もう少し、もう少しだけ進んで、それでも駄目だったら、今度こそ戻ろう。
 そう言い聞かせてまた足を踏み出し、五分、十分、十五分……。
 もう駄目だ、引き返そう。さすがに心の内で弱音を吐き始めたその時、ふわっと何かが鼻をくすぐった。
 肉の焼ける香ばしい匂いだ。この先に店があるのだろうか、それとも排気口があるだけだろうか。
 僅かな期待にさらに進むと、突然右の壁にさらに細い道が現れた。ちょうど肩幅くらいの、道というより隙間という方が適しているようなそれは、しかし今の僕にとっては大きな変化だった。
 足元を見やると、レンガ敷のこの道から一転して粗く削られた灰色の石が雑に敷かれ、その隙間は緑く苔生している。久しく人が通っていないのだろうか。小路に顔を差し入れると、壁の両側は相変わらず無表情なものの、その先からほんのりと雨の上がった土の匂いがした。
 さて、このまま真っすぐ行くか、それともここを曲がるのがいいか。
しばし迷った末に、僕は苔を踏んだ。何の訳もない、僕は魚派なのである。

 道は案外すぐに途絶えた。あれから突き当りを右に一回、左に二回、しばらく進んでもう一度右に曲がると、大きく開けた場所に出た。
 高い壁に日を遮られて道を進んできたために一瞬目が眩み、僕は咄嗟に手で影を作って瞬きした。白い視界が徐々に色付いていく。
世界が輪郭を取り戻したとき、そこは一面の花畑だった。
 いよいよここはどこなのか。住宅街を歩いていたはずが、今では地平線の果てまで続く黄色い花の海の中だ。振り向くと、ゆうに三メートルはあるだろうか、灰色の高い壁がどこまでも真っすぐに続いていた。ここを端として、遥か向こうまで花畑は続いているらしい。もと来た道は一筋の細い亀裂となって、壁を二つに分かっている。
 土地には僅かな隆起もあるようだが、その陰も日向も余すことなく膝丈の花々が覆い、些か現実に欠けたその光景は、ふと死後の世界を想像させた。
 こんな平和な世界に死ねたら、さぞ幸せなことだろう。
 
 花畑を行く。
 至る所に花が生えているものだから、足の先で茎をかき分けて進み、そのせいで僕の後ろには体を曲げた花で長く跡が残った。
 しばらく歩くと、ようやく人影を見つけた。花の中に座り込んでいるその人は、近付くと年端のいかない少女だとわかる。彼女の周りだけ茎が見えて緑になっているのは……ああ、そうか。傍らの花を手折って、花冠を作っているのだ。今作っているものは半分ほど仕上がっているようで、よく見ればあと二つ、完成したものが膝の上に乗っていた。
 彼女がパッと顔を上げる。ゆっくりとこちらを向き、不思議なものを見るように小首を傾げた。
「あの、ここは一体どこですか」
 僕はこれ幸いと歩み寄り、彼女の横に立った。
「あなた、まい子?」
 高い声が届く。彼女は相変わらず不思議そうな顔をして僕を見上げた。
「ああ、うん。道に迷って」
「すぐわかったわ。よそからきた人は、あるくのがへただから」
 少女は僕の後ろを指して言った。花を倒して跡が付いた道は、かの名言を彷彿とさせる。
「こけのみちをきたんでしょう?」
 少女は言葉を続ける。苔の道、とは、あの小路を言うのだろうか。
「来る途中で曲がり角があったから、そこを曲がったらここに着いて」
 すると少女は花冠を置き、口に手を当ててくすくすと笑った。
「まっすぐいかなくてよかったわぁ。だってあそこにはかりゅうどがいるもの」
「狩人? 肉を焼く匂いがしたけど、狩りをする人がいるの?」
「かり? そうね、かれらはかりをするの。かったえものをやいてくうのよ。やばんな人たち」
 少女は朗らかに肩を揺らし、また私を見上げた。
「まっすぐいかなくてよかったわぁ」
 それはどういうことだ、と聞こうとして、彼女に差し出された花に遮られる。
「あなたもかんむり、いる?」
「いや、大丈夫」
「あら、ざんねん。こんなにきれいなのに」
 少女はつまらなそうに傍らに花冠を置いた。
「それ、君が作ったの?」
 少女の目線の高さに合わせてかがみ、花冠を指すと、少女は「しらない」とふんわり笑う。
「それは君が作ってるんだろ? なら、それも君が作ったんじゃないの?」
「これはわたしがつくってるの。でもこれは、きづいたらここにあったの」
 少女は作りかけの花冠と傍らの花冠を順に指して言った。このあたりに、ほかに人がいるのだろうか。
 お父さんは、お母さんはと聞きかけて、また少女に遮られる。
「あなた、名まえは?」
「僕? 北村林太郎です」
「りんたろー」
 音が気に入ったのか、りんたろー、りんたろーと、やけに「ろ」の音を伸ばして呪文のように繰り返したのち、少女は「りんたろー、いいところにつれていってあげる」と僕の手を取った。

 右手に作りかけの花冠、左手で僕の手を引いて、少女は花畑を縫うように進んだ。僕の後ろに道はできるのに、彼女の後ろは綺麗なままだ。これなら確かに土地の人でないとすぐに分かるな、と感心し、同時になぜか悲しくなった。
「りんたろー、ついたよ」
 そこは依然として花畑の真ん中である。正直壁から少し遠ざかった以外、景色に違いはない。
「ここ、きのう花がさいたところ」
 少女は僕の手を放して座り込み、さっそく花を一本手折った。花冠の続きを作るらしい。僕は無言でその隣に座り、彼女をじっと見守った。小さな手が茎を編み、端を収めたら次の花を折る。それを繰り返し、花冠はみるみるうちに形を成した。
「これでさいご」
 少女はそう言って、僕と彼女の間に生えた一輪を摘んだ。
「これ、りんたろーにあげるわ。きょうは空が青いから」
「空が青いと何かあるの?」
 今度は遮られなかった。小さな達成感に浸っていると、彼女は出会った時と同じ不思議そうな顔をして、それから白い歯を見せて笑った。
「だって、きょうははれの日でしょう?」
 小さな指が器用に花を挿す。端を輪にして編んでいく様は、一面の花畑の中にあって一枚の絵を見ているようだ。
「できた」
 小さな、しかし満足げな声がして、見ると少女は完成した花冠を掲げていた。頭に載せてくれるのだろうかと待つが、少女は何の躊躇いもなしにそれを向こう側に置いてしまった。
「あれ、今日は晴れじゃなかったの?」
 笑って言うと、少女はきょとんとする。
「あなた、まい子?」
「なに、どうしたの、急に」
 少女は首を傾げ、僕の後ろを指した。
「よその人でしょう? あるくのがへただからすぐわかったわ。こけのみちからきたのね?」
「何言ってるの、さっき話したばかりじゃないか」
「あなたこそなにをいっているの?」
 少女は至極真剣だ。それでも僕は笑って続けた。
「何って、君がその花冠を作ってるのをずっと見てただろ?」
「しらないわ」
 少女はぞんざいに言う。
「わたしのじゃないもの。きづいたらここにあったの」
 そのとぼけに一層おかしくなって、僕は肩を震わせる。
「なにがおかしいのかしら、かわった人ね」
 その真っすぐな目を見て、不意に笑いが引っ込んだ。もしかして、もしかしてだけど。本当に分からないのか?
「……ねえ、僕の名前は?」
「それをいまからきこうとおもっていたのよ」
 努めて穏やかな声を出すが、少女の返答に気温が下がったような心地がする。
「りんたろうだよ、北村林太郎。さっき狩人の話をしたのも覚えてない?」
「あら、なんであなたがかりゅうどをしっているの?」
 彼女は首を傾げる。
どういうことだ。この短時間で、彼女は記憶を失ったというのか?
「ねえ、いいところにつれていってあげる」
「それは、『昨日花が咲いたところ』?」
「どうしてわかったの?」
 ふらりと立ち上がった彼女の細い腕を咄嗟に掴む。
「やっぱり覚えていないんだね?」
「おぼえているって、なんのこと?」
 彼女の足元の、完成したばかりの花冠。僕は唐突に閃いた。
「もしかして、だけど、君は、花冠を作るたびに忘れてしまうんじゃないか?」
 口にして、それは確信に変わる。完成した花冠を傍らに置いた途端、彼女はなぜか様子を変えたのだ。
「なら、もしかして君はたくさんの事を、ずっと忘れ続けてきたんじゃないか?」
 彼女が置いてきた二つの花冠、あれもきっと彼女が作ったに違いない。無意識に語気を強める僕に、彼女はぽかんとしているままだ。
「君は忘れたことにすら気付いてないんだ。君の一番古い記憶はいつ? 君の家族は? 御両親は? 君にとっての『今』は、いったいどこにある?」
 急き立てるように言いきって、肩で息をする。なんでこんなに必死になっているのだろう。自分でもよくわからない。相手が年端のいかない少女だから? この短時間で情が湧いたから? いや、違う。これは、この違和感は――。
 ぬるりとした感触があって我に返る。思考に溺れている内に掴んだ腕が抜けたようで、やけに白い幼い指が、僕の手の甲を不器用に撫でていた。
「ねえ、りんたろう。あなたとおはなしするの、たのしいわ。もうすこしこうしていましょうよ」
 骨と骨の間を辿り、浮き出た血管を一つひとつ数え、彼女は僕の手の縁を擦る。人差し指の腹で手のひらを描き、やがて幼い指は、僕の親指の付け根に至った。男の固い肉は、押されてもほんの少し歪むだけだ。やがて彼女が手のひらの肉の丘を何度も探り、時に逸れて指の股に自分の指の腹を潜らせる頃には、僕は金縛りにでもあったかのように身動き一つ、目を逸らすことすら出来なかった。
「き、みの」
 辛うじて絞り出した声は、か細い吐息でしかない。しかし、彼女にはしかと届いたようだった。
 相変わらず視線を拘束された僕は、彼女の手の動きが変わったのに気付いた。彼女は次第に緩急をつけ、僕の指を弄りだした。爪を擦り、関節を挟み、薄い体毛を撫で――。
 そして彼女の手が手首を這い始めた時、僕は僕の視線の自由になったのを感じた。力を抜いた彼女の手のひらは僕の腕にぴたりと吸い付くようで、腕の先へ這い上がるように進む中指が僕の手の皺を拓いていく。じっとりと濡れた手の真ん中、窪みに溜まった手汗が流れ、彼女のちいさくまろい爪がぬらぬらと照った。その瞬間、彼女は反対の腕で僕の首を掻き抱き、耳に口を寄せ恐ろしく澄んだ声で囁いた。
「変な人。私の今はここよ、ここしかないの」
 途端に僕は少女を突き飛ばし、一目散に逃げだした。花に跡を付けながらあっという間に壁にたどり着き、裂け目を必死に探すが、そんなものまるで知らないとそっぽを向くように、壁はただ黙ってそこにあった。
「冠をあげましょうね、今日はハレの日だから」
 高い声がして振り向くと、ちょうど少女が僕に花冠を被せるところだった。
 僕は情けない悲鳴をあげてその場にへたり込んだ。少女は浮いていた。ほっそりとした白い足は、その向こうに青い空を透かしている。
「ねえ、林太郎」
 少女はゆっくりと降りてきて、僕の頬に手を添えた。呆然とする僕の頬骨を親指でやさしく撫で、鼻先をくすぐるように吐息を漏らす。
「こんないいお天気の日に出会えたというのに、このままなんにもなしなんて。私を一人ぼっちにして帰ってしまわないでね、寂しいわ……」
 反論する間もなく彼女の唇が僕の唇に重なって、小さな長い舌がぬるりと僕の歯をなぞった。彼女の顔が離れ、僕が喉を鳴らしたときにはもう、僕の「今」はここだけだった。

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