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霧中

                              飴宮すみ

「ねえ、ママが死んだら、どうする?」
 今年は特に長雨で、しかも降水量が多かったのだ。わかりきったことをもっともらしく発言するアナウンサーに嫌気がさして、テレビを消そうとリモコンを探しているところだった。もしかしたら母さんの座っている場所に隠れてしまったのかもしれなかった。
「えっ?」
 いや、「え」だったかもしれない。そもそも声に出ていなかったかもしれない。僕がリビングをうろうろと歩き回る足を止めて母さんのほうを振り返ったのは確かなんだけど。あくまで母さんは、昨日取り込まれたままシワになってしまった洗濯物を、ぴんと伸ばしながら畳むことに集中していた。少なくとも僕にはそう見えた。だから僕の顔を見ることもしなかったんだ。きっとそうだ。
『コロナ 四十代女性死亡』
 テレビに目を向けると、赤のゴシック体ででかでかと映し出されていた。
「ママの仕事でね、いつもお世話している人の旦那さんが感染したって。その人はまだ大丈夫みたいなんだけど……もしかしたら、ね」
 母さんは訪問介護の仕事をしている。家まで行って高齢者の方の生活を助ける仕事だから、今時期はかなり神経質になっていた。
 それに若ければいいけど、ママはもう若くないし。とゆっくりと言った。僕に言うというより、どちらかというと自分自身に言い聞かせているように見えた。
 僕は何て返したか、覚えていない。「そっか」とか「うん」とか曖昧な生返事だけだった気がする。「どうする」って言われたって、僕にはよくわからなかった。それよりも絶妙な重さを持ったこの空気から逃げたいとさえ思っていた。ちゃんと向き合わなきゃいけないこともあると最近になってようやくわかったけど、しばらくはそんな真面目になれそうにもなかった。
 母さんはそんな僕を見て、何も言わずにほんの少しだけ微笑んだ。期待していた答えがもらえなかったような顔。
 母さんはそのまま、何もなかったかのように昼ご飯を作りはじめた。少しの後悔がまた心の底に溜まっていくのを、僕は見ない振りでごまかした。
『警鐘 拡大 増加 閉鎖 緊急』
 リモコンを見つけられないままテレビに向き直ると、これまで何度見たかわからない言葉たちが飽きもせずに肩を並べていた。「少なくともあと数年は続く」とか眉間に皺を寄せて口々に言う専門家。この前までは数ヶ月は続く、という予想が半年、一年と伸びていって今はもう予想することさえ意味を持たなかった。それらはことごとく悪い方向に裏切られていくからだ。
 半ば目をそむけるようにしてスマホを開くがまだ逃げ切ることはできない。死にたい、消えたい、泣きたい、希死念慮と鬱であふれたタイムライン。わざと視界をちらつくように配置されたニュース記事。毎日ばらばらと頭から嫌なことを浴びせられ続けて、心が麻痺してきた。
 ゲームやYOUTUBEにのめりこんだのも家から出なくて暇だからじゃなくて、無意識に嫌な情報を見ないでいられるから。繭の中みたいに、守られながら全部忘れていられるから。
 でもその母さんの言葉はそれさえ打ち破ってきて、僕の目の前をうざったいくらいにくっついてきた。
「マサは?」
 昨日の残りのシチューと冷食のエビフライを並べながら母さんは階段のほうを見た。昼ご飯の時間になったら二階の自分の部屋から降りてくるかもしれないからだ。
 けれど希望に反して相変わらず僕と母さんとテレビの音しか聞こえなかった。席について木のスプーンでシチューを冷ましながら、母さんは別の不安を隠しきれていないようだった。
 まだ寝てるんじゃない、と返したのは不安を消してあげようと思ったわけじゃない。昨日も深夜までゲームしている声が隣の部屋から聞こえていた。

 何度目かの寝返りでもう右肩が痛かった。シーツが擦れる音が耳障りだ。眠れないのは最近顕著になってきた暑さのせいかもしれないと、クーラーをつけてみたが、違うらしかった。
 もし母さんが感染していたとしたら、僕が死ぬとしたら、考えても予防できるわけじゃないし、どうにもならないことなんて僕が一番わかってる。わかってるんだけど……考えないで済むんだったらとっくのとうに眠っている時間だった。
 今の生活で母さんがいなくなることなんて考えられなかった。毎日の食事や家事だって任せっきりだし、学費も父さんとだけど出してくれている。免許だってまだ持てないから塾の送迎とか……考えれば考えるほど自分の生活が母さんに頼りきりだったことがわかる。高校生ってどれくらい自立してなきゃいけないんだろう。高校生でひとり暮らしとか、漫画やアニメでなら珍しくないけど……。今の自分には到底できそうもなかった。それに、弟の雅紀もちゃんと学校に行けるようにさせなきゃいけない。あいにく僕はなぜか嫌われていて、ほとんど口もきいてくれないから難しそうだ。
 おそらく、塾は辞めることになって、大学には行けないかもしれない。そしたら就職? 高卒でロクな働き口があるのだろうか。バイトでもなんでも金を稼いで、毎日なんとか生きていかなきゃいけない。
 もう一度寝返ると、間接照明が想像以上にまぶしかった。思わず目を細める。ききすぎたクーラーのせいで乾いた喉を潤すために階下に降りるか、このまま無理矢理寝るかしばらく迷って、一つ息を吐いて左足からベッドを抜け出した。
 リビングではまだ母さんがひとりでテレビを見ていた。「あれ、まだ起きてたの」というふうにこちらを見たが、特に気にしていないようだった。コップの半分くらいのぬるい水道水を飲んでから、母さんの背中を眺める。去り際、「おやすみ」と言ったら、間延びした声でおやすみー、と返ってきた。いつも通りだ。
 ベッドに再びもぐり込んだら、少しだけ呼吸が深くできるようになった気がした。
 大丈夫、今まで四十数年間何事もなく生きてたんだから、そんなに簡単に死なないだろ。きっと僕がちゃんと大人になるまで……生きてくれるはず。

「すぐそこにさ、八波って会社あるじゃん」
 平日の夜だからか客もまばらだ。ほとんど立っているだけで時間が過ぎていく。レジスターの中の金を数えながら背中越しに和也は言った。
「……どこだっけ」
 僕がピンと来ていないのを見て、わざわざ振り返ってお前、マジかよと呆れたような顔をされた。和也はよく僕にそういう顔をする。高校生にもなって世間知らずというか、ニュースに詳しくないのも、多分マズいんだろう。別に調べたくないわけじゃないんだけど。
「ほら、高校の近くだよ。まあ、そこでさ集団感染があったらしい」
 全て数え終わったようで、ガチャンと勢いよくドロアを閉めてから難しい顔で振り向いた。僕は思わず食器たちを片付ける手を止める。
「集団感染……」
「そ。なんか会食があったとか……客の中にもいるかもな、従業員とか」
と言い切らないうちに、客がやってきた。よくいる見るからに太りすぎたおばさんで、縮れた茶髪を揺らしながらゆっくりと歩いてくる。外食とかカロリーの高い食事は控えたほうがいいんじゃ、というのは余計なお世話だろうな。なんて毎度のようにぼんやりと考えていた。
 オーダーはレジの近くにいた和也が取った。別にそれはかまわないし、何を頼んでくれたっていい、だけどマスクをわざわざ外して言う必要はないじゃないか。
 このおばさんみたいにマスクの存在意義をすっかり忘れてしまった客は少なくない。たったの布一枚だけど、無いだけで何か良くないものが自分にかかっている気がして、嫌悪感がする。
 そして僕はものすごく運が悪かった。その非難するような態度がなんとなく伝わってしまったのだろう。おばさんはきっと顔を上げた。
「あんた、何」
 目と人差し指で思いっきり僕のほうをさす。その迫力に思わず一歩後ずさってしまった。
「さっきからジロジロ見てたよねえ!?」
 僕の怯えた様子が火に油をそそいでしまったのか、みるみる語気が強くなっていく。おばさんの言葉が切れた瞬間にしんと空気が鳴り、周りの誰もが僕とおばさんを見ているように感じた。おそらく唾がカウンターを超えて僕のところまで飛んできているだろうが、それよりも一刻も早くこのおばさんを退店させることのほうが重要だった。
「す、すみませ……」
 すっかり萎縮して満足に声も出ない。ぎこちなく頭を下げることしかできなかった。きっとこれじゃあしばらく許してくれないだろう。怒られ慣れていないのは母さんにも教師にもほとんど怒られたことがないからだ。こういうとき、どうしていいかわからなくなってしまう。
 和也も一緒になって謝ってくれて、どうにか帰ってもらうことに成功した。おばさん肩をいからせながら先ほどの二倍のスピードで去っていった。本気出せばめちゃくちゃ早いじゃん、と和也がぼそっと言ったのには、堪えきれずに吹き出してしまった。和也は肩をすくめながらこちらを振り向いた。僕と同じことを思っていたみたいだ。
「ごめん、僕のせいで」
 友達にならすんなり謝れるんだけどな。
 いーってば、と和也は笑ってくれた。にっ、と大きく横に広がる笑い方は、マスクの下に隠れていてもわかるようだった。
「久々にヤバいのが来た……災難だったな」
 気にすんなよ、と言って和也は肩をたたき、伸びをした。
「あーあ、働くって面倒くせえ」
 口癖のように繰り返しながら和也は僕の足下にひょいとかがんだ。ペンでも落としたのかと思ったがそうではないらしい。それにしては長すぎた。
 見ると和也は、首元を抑えてしゃがみこんでいた。
 視線を合わせようと膝を曲げた僕の腕をしがみつくように握ってくる。力がこもりすぎて血管が浮き出て破裂しそうなくらいだ。空気を吸おうとして肩が上がるたびにヒュー、と音がした。空気を切るような音の合間に、うう、と低くうめく声が聞こえる。全身で息を吸おうとしているのに満足に呼吸ができないのだ。
 もしかして、やばい?
 和也どころか、家族も友達も誰も、こんな風になったところを見たことはなかった。こういうとき、どうすればいい――?
「救急車!?」
 カウンターの向こうからこちらを覗いて驚いた顔で客が叫んだ。
 その後は、よく覚えていない。
 汗か涎か涙か知れない液体が床を濡らしていたことと、救急車を呼ぶ客の金切り声。運ばれていく和也のだらりと放り出された腕が血の気を失って真っ白だったこと。
 そして人は想像よりもずっと簡単に死ぬんだ。こう思ったことは覚えている。

 和也は少し入院することになったらしい。二日後店長からそう聞かされた。
 腕の爪痕は数日間赤黒く残っていた。

 和也のいないバイトを終えて、靴を履き替えてからスマホを確認すると一件の通知が入っていた。
 雅紀からだ。気づけばLINEしたのはほとんど一年ぶり。最後に送ったのは、僕が雅紀の誕生日に送ったLINE。もちろん既読無視だ。まあわかってたけど……。
 弁当買ってきて。晩ご飯。
 そういえば今日は帰りが遅くなると母さんが言っていたような。母さんは遅くなるときは必ず二日前から僕たちに言って聞かせる。今回も例によって金曜日は遅くなるからね、と言われていた。いつもなら晩ご飯を作っておいてくれるけど、今朝は忙しかったのかもしれない。了解、と文字じゃなくてスタンプで返したのは、トーク画面があまりに寂しかったからだ。キャップを深くかぶり直して、店をあとにした。
 帰り道にある弁当屋の狭い店内は人であふれかえっていた。いつもはこの時間ならひとりふたりしかいないのに……きっと、自粛で三食作りつづけるのにも限界が来たのだろう。三つの密を避けろと言われたそばから完全に無視してしまっている。
 唐揚げの個数で無駄に悩みすぎたために他の客に追い越されつつ、気持ち細々と息をしながらできあがるのを待って、ようやく無愛想な女の店員から弁当を二つ受け取り、ようやく自転車のかごに丁寧に入れた。おそるおそる発進させると思った以上に揺れて割り箸がレジ袋から飛び出してしまった。結局揺れないように押さえながら家まで片手運転で帰るはめになった。だからかもしれない。
「遅い」
 時刻は二十一時を回っていた。いらいらしたように腕組みをしながら雅紀は僕を見下ろしていた。なんだか会ったのがものすごく久しぶりに感じた。しばらく見ないうちに身長伸びたな、なんて。そんなこと言ったら無視がいいところだろうけど。
 っていうかバイト終わりにわざわざお前の飯を買ってきてやったんだぞ……という恨みがましい目線にはどうやら気がついていないらしい。雅紀は弁当だけ大事そうに持っていってしまった。
 レジ袋から出したそのままテーブルに二つ並べて、向かい合って座り各々箸をつける。
 もちろん、話題などない。僕が一方的に言いたいことは山ほどあるけど……ちゃんと学校行けよとか、早く寝ろよとか。なんで僕のこと嫌いなの、とか。言ってどうにかなりそうならとっくにそうしてるんだけどなあ、と考えあぐねているのは雅紀には一ミリも伝わっていないのだろう。僕は気づかれないくらいに小さくため息をついた。それが思ったよりも響いたから、今日の食卓が痛々しいほどの静けさを持っていたことに今更気づいた。
 その理由はすぐにわかった。
『母さんがいなかったら、毎日こうなのかな』
 考えるまでもない、わかってたことじゃないか。
 それもこれも全部、あの言葉のせいだった。
「ねえ」
 沈黙を破ったのは僕だった。
「母さんが死んだら、どうする」
 しかし、というか、やはり、期待していた答えはなかった。
「知らない、どうにかなるでしょ」
 それで数日も悩むなんて、バカでしょ。というような蔑みさえふくまれたような言い方だった。
 僕は一度息を吐いて、目を閉じた。しかしわいて出る怒りを抑えることは難しかった。本当に今いなくなったらどうするんだよ、お前それでもその顔でいられるのかよ。将来どころか今の生活も保証されないんだぞ!
 僕は頭を左右に振って脳内からその考えを追い出そうとした。コイツは無駄に口が立つんだ。僕が感情論でたてついたところで鼻で笑われるのは目に見えている。今までもそうだった。
 結局その後何も言うことはできず、自室に去っていく背中を何も言えずに見送ることしかできなかった。

 また、険悪なまま会話が終わってしまった。少し後悔しながら、そろそろ寝ようとベッドに腰掛けたまま、眠気が来るのを待っていた。
 いつからあんな生意気になったんだ。小さい頃は可愛かったはずなのになあ。正確には覚えていないけど、リビングに置いてある写真立ての中で、幼い雅紀は誰よりも輝いた笑顔を確かにしていた。あれを思い出せば、なんとか、まあ……。
 ゆっくりと枕に頭をもたげて、なんとなくスマホを見ていると、見慣れたアイコンからLINEが届いた。
「和也!」
 急いでメッセージを見る。
「ごめんな、ずっと連絡できなくて」
 和也は前と変わらない口調で喋りだした。
 今は搬送された病院で入院していること、回復したからもうすぐ退院できるということ、あれは持病の発作だったということ。
「無理してシフト入れまくったのがダメだったのかもしれない、お前がいなけりゃ死んでた」
 僕は即座に首を振った。僕はあのとき全くと言っていいほど何もできなかったんだ。救急車を呼ぶことさえ思いつきもしなかった。
「ありがとう」
 その言葉は僕じゃなくて救急車を呼んだ客に言うべきだ。思ったままにそう打つと、和也は「そうだけどさ、一人でぶっ倒れてるよりずっとましだったよ」と言った。
 病み上がりの和也に気を遣わせるなんて。病院のベッドの中からもそうやって言える彼は僕よりもずっと大人だった。それがどうしようもなくかっこよく思えたのは、自分がそこからかけ離れているから。そう思った瞬間、あの問いの答えが、少しだけ見えた気がした。
『ねえ、ママが死んだら、どうする?』
 そうか。僕は、もっと大人にならないといけないのかもしれない。
 大きく息を吸った。頭まで酸素が届くような、深い呼吸ができたのは久しぶりだと思った。ざわついた心が夜の湖のように静かになっていく。
 そうだ、僕は大人にならないといけないんだ。
 空気のように生きるだけのこの生活が、ほんの少しだけ風向きを変えた。
 あの日考えていたこと、どうやって大人になるのかなんてまだわからない。でも、母さんの期待するような、いや期待以上の答えを見つけようと、そう思った。

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