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いまひとたびの

                                鮎

 とん、からり。とん、からり。
夜中と早朝の合間、水で薄めた留紺を幾重にも塗り重ねたかのような輪郭の見えない世界を初老の男が歩いている。人も虫も草木も空も、いまだ目覚める様子はない。あたりを包む深い霧がすべてを粗雑な印刷物のように曖昧にする中、とん、からり。とん、からり。細く骨ばった手の握りしめる濡羽色のステッキと、歩みを進めるたびにうっすらと湿った地面をなでる下駄の音だけが生き物の、男の存在を主張していた。肩にかかった闇色の外套が隠してはいたが、男の体躯は葉の落ちた枝のようで、もしここに人がいたならばなぜ男を一人で歩かせているのか疑問に思うほどであった。しかし、萎びた体に似合わず男の足取りは確かなものであった。とん、からり。とん、からり。急いてはいない、かといって迷ってもない。濁った水底のようにすべてが曖昧に滞った中、男の足取りのみが目的に向かって進んでいた。
男は母親に会おうとしていた。その腹を痛めて己を生んだ母親に。育ててくれた父と母が己と血のつながった親ではないことを知ったのは、もう何十年と前のことであった。父と母は大っぴらに話そうともしなかったが、特別隠しだてたりはしなかった。昔、偶然街で出会った若い女から引き取ったのだと事実をただ告げ、血の繫がりなど関係なく自分たちの一人息子として男を愛し、育て上げた。男も実の母親について知りたいとは少しも思わなかった。惜しみなく愛情を注いでくれる父と母がいたのだから。彼ら以外の親を思い描くことは出来なかった。その必要もなかった。男の中で実の母親は、まるで蜃気楼の中水平線を滑る海舟のようにぼんやりとしていて、そのまま消えてしまっても気づかないほどどうでもいいものであったのだ。そのまま大人になり、実の母親について考えることはもうないはずであった。しかし、男の母はそうではなかった。彼女はもう十五年ほど前に他界してしまったが、病に倒れた時からよく男の実の母親について語り聞かせるようになった。とはいっても、赤ん坊であった男を引き取った後関りはなく、母もその女を知っているとは言い難かったが。
母の話を聞いて分かったことは、その女は決して赤ん坊であった男を厭うて手放したのではなかったということ。父と母から見て、その女は子供を育てる余裕があるとは到底言えない様子だったらしい。まだ年若い娘でありながらやせ細り色の褪せた着物を着て、結び目から零れ落ちた髪や欠けた爪にも気を留めていなかったと、母は布団に目を落とし、懐かしいながらもどこか苦さの混じる表情をして語った。母は男に言って聞かせた。その女も確かにおまえを愛していたと。父親のいない中どうにか育てようとしたが、若い女一人ではどうしても難しく、もう二人で海の藻屑となるしかないと思っていたところで、子供を切望していた私たち夫婦に出会ったのだと。母は実の母親について関心を持ってもらいたいようであった。それが実の息子に全く関心を持たれなかったその女を哀れんだためのものだったのか、死の間際になって、同じ母親として子供を愛し慈しむ心を知っていながら、結果的にその女と子を離れ離れにしてしまったことに罪悪感を覚えたためであったのかは分からない。母は男に言った。もし可能なら、実の母親を探し会いに行ってみたらどうかと。男は黙って首を横に振った。そもそもそんなにも愛していたならば、どうして男を渡した後に交流を絶ってしまったのか。どうして男に一度も会いに来てはくれなかったのか。その女の愛なんてその程度のものだったのではないか。いくつもの疑問が浮かんだが、どれも喉の奥で他のたくさんの何かと絡んで結局言葉になることはなかった。そもそも誰に答えられる疑問でもなかった。
 そこからまた長い月日が過ぎたある日のことである。父と母から継いだ仕事を全て我が子へと引き渡した頃、気が抜けてしまったのだろうか、男は突然ばたりと倒れた。病の名はよく覚えていない。ただ男の命があと一度季節を巡れるか否かほどであると医者が告げたのを薄らと記憶しているだけである。一年という期間は、先を見据えれば途方もない時間と言え、後ろを振り返れば刹那とさえ言える。つまりは漠然としていて、どう受け止めればいいのか分からないものであった。男は何も言わず、その捉え難い余生を静かに全うすることにした。人生への未練は特になかった。強いて言うなら自分を支え続けてくれた妻を置いていってしまうことに申し訳なさはあったが、妻には我が子も孫もいる。きっと支えてくれるだろう。というわけで、男はそれからの一日一日を「最後の」という言葉を枕詞に、噛みしめながら過ごすことにしたのだ。
日々過ごすにつれ、男は何処かぼんやりとしていた己の死というものをゆっくりと見つめるようになった。そしてある時になってようやく、実の母親がもう生きているはずもないということに思い至ったのだった。男の死は特別早すぎるほどのものではない。男の父も母ももう十数年も前に逝去している。つまりは男の実の母親がまだこの世のどこかにいるとはもう考えられないのだ。そのことに気が付いたとき、一瞬心臓があらゆる面から少しずつ抑え込まれ、圧迫されているような感覚に襲われた。それは驚愕と悲嘆と諦観が入り混じった感情の波であったが、それを理解するには男は実の母親について知らな過ぎた。男に唯一分かったのは、もうその女に会うことはできないということだった。「会わない」と「会えない」は結果的には同じだとしても、違うものである。男にとって、その女は男が「会わない」と断じたものであって、決して「会えない」ものではなかったのだ。それが、その時、その瞬間、もうとっくのとうに会えないものとなってしまっていたことにようやく気が付いたのだった。
それから男はよく、実の母親について考えるようになった。どんな顔をしていたのか。どんな声をしていたのか。どんな姿であったのか。どうして男を捨てたのか。男のことをどう思っていたのか。男を父と母に渡した後、どう生きていたのか。何を考えても最後の「かもしれない」が消えることはなかったが、とにかく、死期が近づいてきてようやく男は実の母親というものを思い描くようになったのだった。ただ、男はどんなにその女について考えても、会いたいと願うことはなかった。いや、もしかするとそういう思いは何処かにあったのかもしれない。しかしいつだって「会いたい」という思いより前に「会えない」という現実が先行し、願いは脳裏に浮かぶ前に諦めとなって沈んだ。
会えるはずもない実の母親をよく夢想するようになったからかもしれない。数か月前から男は不思議な夢を時折見るようになった。それはいわゆる明晰夢というもので、男はその夢に訪れた瞬間から、それが現実でないことを理解していた。不思議な夢の中で、男はいつも夜の森のような暗い道を歩き、何かの目的に向かって進んでいた。夢を見始めた当初は分からなかったが、何度も同じ夢を見るうちこの道を進んでいけば実の母親に会えるのではないかという考えがぽっかりと頭に浮かんだ。それはまるで自明の理のようにしっくりとくるものであり、現実では当然ありえないものであったが、現実ではない夢であるからこそ、そういうこともあるのだろうと男は思った。
とん。からり。とん。からり。
繰り返し見る夢は少しずつ進んでいるようであった。夢を見始めたばかりの頃は、まだ星のきらめく夜だったのが、段々と星さえも眠る夜中となり、今はやっと、もうすぐ薄明が訪れるだろうというところまで来ていた。朝が近づくにつれあたりには霧が立ち込め、もう自分がちゃんと道を進めているのか分からなくなっていたが、男が足を止めることはなかった。まだ、たどり着かないのだろうか。まだ、会えないのだろうか。繰り返し見る長い長い不思議な夢の中、もう何千回と同じような考えが男の頭に浮かんでいた。
とん。からり。とん。からり。とん。
ふと、霧の中に水辺特有の匂いと甘い香りを感じた。近くに川でもあるのだろうか。男は注意深くステッキを前方に彷徨わせる。かつん。何かに当たった。からり。少し進み、今度は片手を伸ばしてみる。手が何かに触れると、ふわりと霧が逃げていくように視界が開けた。まるでここが終着地点であると言外に告げられているかのように。
 目の前には広大な水面が広がっていた。湖なのか、川なのか、もしくは海なのか。少し先からまた霧が深くなっているためその全様は分からない。男が触れていたのは、水辺と道を隔てる柵であった。ここで待てということだろうか。男は柵の手すりに片手をかけ、眼前に広がる薄いベールを何枚も重ねたかのような景色を見つめた。
空が白み始める。まだ朝日は顔を出していないようだが、その予感を感じてか、じわり、じわりと霧が薄まっていく。すると少しずつ、薄まった霧の先に小さな影が見えるようになった。小舟だ。たくさんの小舟がだだっ広い水面にぽつぽつと影を落としている。ここは舟遊場なのだろうか。いや、そうだとしたらこんな時間に来る人々などいるのだろうか。ここが夢だからなのか。よく見れば、どの小舟も櫂を漕いでいる様子はない。どこまでも滑らかな水面を目的もなく漂っているかのようだ。なんとも奇妙な光景に男は目を奪われていた。
霧の晴れ間にちょうど一層の小舟が浮かんでいる。若い女が一人。男はその女をじっと見つめたが、あちらがこちらに気付く様子はない。女は貧相な見た目をしていた。ここから見ても分かるほど細い体、頬は窶れたようにこけ、ひっつめ髪の米神あたりからほつれた細い髪がそれを撫でている。化粧っ気はつゆほどもなく、色褪せた若葉色の着物から、細く白い手が伸び、布に包まれた何かを抱えていた。何かとは赤子であった。こちらに全く気が付かないのは、女がその細腕に抱えた赤子だけを一心に見つめていたからかもしれない。女は疲れた顔をしていたが、その瞳は慈愛に満ち、可愛い子、愛しい子と語りかけている。ぽん、ぽんと優しく布を叩き、緩やかに赤子を左右へと揺らす姿は子供を寝かしつける母親のそれであった。そこには赤子への惜しみない無償の愛情が確かに存在していた。
 女と赤子の乗る小舟に、一艘の小舟が音もなく近づいてくる。裕福そうな余所行きの装いをした一組の男女が乗っていた。父と母だった。男は思わず声を漏らしたが、それでもなお誰一人として男には気が付かない。もしかすると、深い霧で男の存在さえもこの不思議な光景の中に溶け、水辺に生える一本の葦のようになってしまっているのかもしれない。しかし、男にとってそんなことは最早どうでもいいことであった。二つの小舟以外の全てが、今はもう男の意識の外にあったのだ。
 かつん。二艘の小舟が似合わないほど軽い音を立てて触れ合う。女と両親は何か話をしているようであった。そのうちに女はうつむき、はらはらと涙を流し始め、母は女の頭をなで、こぼれた後れ毛を優しく耳にかけた。女は腕に抱えた子をじっと見つめ、そんな女を父と母は見つめていた。じっと見つめる間にも女の瞳からは涙が溢れ続け、きっと赤子の顔にもその滴が落ちてきていることだろう。しかし女にはそんなことつゆほども気にならないようで、唯々一心に赤子を見つめるだけであった。その瞳に悲しみはなかった。先ほどと同じ、慈愛の眼差しのみが赤子へと注がれていた。
そこからどれ程経った頃だろうか、女が顔を上げたとき、その瞳からは何か決意の色のようなものが見て取れた。ああ。男は心中で声にならない声を上げる。この先にある結末を予感できるような気がした。
女が腕に抱えていた赤子をゆっくりと母の腕へと渡す。母は赤子を優しく胸に抱きしめ、女と同じ慈愛に満ちた眼差しを送りながら緩やかに腕を左右に揺らし、赤子をあやした。あたりに音はない。しかし、きっと赤子が笑ったのだろう、女の濡れた瞳が安堵したようにふわりとほころぶ。父が女に何か言ったようだが、女は首を横に振った。そして静かに、二艘の小舟が離れ始めた。待ってくれと男は思った。このまま離れて仕舞えば、もう二度と会えないような気がしたのだ。だが同時に、心のどこかで男は自分の声が届くはずもないことを理解していた。これが全てもう遠い過去の幻で、変えることなど叶わないということを。
二艘の小舟が徐々に離れ、両親の方の小舟はまた音もなく、霧の奥へと進み始めた。ぼんやりとした水の煙が小舟を包み、その姿を隠していく。そして小舟は砂時計の砂が下に落ちていくように少しずつ、長い時間をかけ、最後には影すらも見えなくなった。完全に見えなくなってもなお、女は赤子が乗った小舟が消えていった先を見つめ続けていた。
それから間もなく、女の小舟はゆっくりと沈み始めた。舟に穴が開いている様子も水が舟底から湧いてくるごぽりといった音もない。まるで舟と女の存在自体が水に溶けていくかのように、その様子は静かなものであった。女は己の乗る舟が沈んでいくのにも関わらず、何にも気が付いていないかのように、ただ赤子の乗った小舟が消えた方を見つめ続けるばかりであったが、ついに女の体もすべて沈んでしまうだろうというとき、ふとこちらを向いたのだ。
「     」
そして女は沈んで消えた。
もたせかけていたはずの手はいつのまにか、痛くなるほど手すりを握りしめていた。目が合った。少なくとも男はそう感じた。その瞬間男は口を開いたが、結局なに一つとして言葉が発せられることはなかった。何を言えばよかったのだろう。いや、何と呼べばよかったのだろう。男はその女を呼びたかった。その腹を痛めて己を生んでくれた母親を。だが、何も思いつかなかったのだ。「かあさん」とは呼べなかった。男にとってその呼び名は母に向けたものだった。ではなんと、何と呼べばよかったのだろう。男は想像の中ですら、実の母親を呼んだことはなかった。名前すら知らない実の母親、今まで彼女のことを探さなかったこと、考えすらしてこなかったことを男は初めて後悔した。
強い花の香りに男は顔を上げる。いつの間にか空には朝日が顔を出し、視界ももう遠くに少し靄が見えるくらいで、きっとあれももうすぐ消えてしまうのだろう。眠っていたはずのあらゆるものが朝を迎え、男はこの夢がもう終わりであることに気が付いていた。周囲を見回すと、あたりには花、花、花。大小さまざまな花束が柵にもたせ掛けるように添えられていた。ああそうか。男はその場を離れるようにゆっくりと歩きだした。もしまたこの夢に訪れることが出来たならば、花を持ってこようと心に決めて。

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