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満開

                              藤の骨

 肉つきのよい二本の脚から、果物の香りがする。アキの脚をまっぷたつに割ってみれば、きっと果汁が飛び出すだろう。鮮やかな檸檬の果肉だろうか、オレンジだろうか、それとも巨峰か。色とりどりの果物が目に浮かんだ。

「結び方。これで合ってるの。」
 怪訝な顔で私を見る、アキの足元にはトウシューズが二つ、嵌め込まれている。日光を滑らかな灯りに転換した、白桃のようなトウシューズ。白桃と味の合う果物は何だろう。アキの脚が、ますます芳醇な香りを振り撒いて、鼻孔を微かに擽った。
「ほんの少し、じっとしてて。」
 足首をクロスするリボンのずれを直してやろうと、アキの足に触れた。タイツ越しに感じるのは、ひんやりと冷えた肉のかたまり。誰しも人間の皮膚下には、生暖かな血が通っているものだが、アキは特別で、体には冷ややかな血が通っていた。真っ赤っかな雪解け水を想起させる、澄み切った鮮血が、つらつらと流れている。
「これでばっちり。」
 リボンは完璧な角度で、アキの脚に巻きついている。男性に似つかわしくない、なだらかな脚の線、そこそこの脂肪と筋肉。そこに食い込むリボンは薄ら薔薇色で、アキの品の良さを際立たせている。
「ハツ。今また僕が嫌いな顔してる。」
「幸せだなあって思ったのに。」 
「気味の悪い顔して笑うなよ。」
「アキ。そろそろ慣れてもいい頃じゃない。」
「慣れるもんか。」
「意地っ張りめ。」
 そう言ってアキは口を曲げつつ、渋々ドレッサーの前に座るのだから、慣れたものだ。鏡越しに見るアキは艶やかで、肌がぴきりと輝いた。
「今日はピンク尽くしだね」
「せっかくトウシューズ履いてもらったなら、化粧はピンクでばっちり決めたいものでしょう。」
「ふうん。さっぱり分からないけど。」
「それでよし。分かっちゃいけない。」
「心配しなくても、ハツの趣味を理解できる人間この世にいないね。」
「望むところよ。」
 喉を引っ掻くように妙な音を立て笑うアキの声を聞くとほっとする。ドレッサーの上にずらりと並べた化粧品の中から下地を取って、手にのせた。
 アキの肌は、所々表面がざらりと乾燥し、つるりと清らかだった。鼻筋は小ぶりながらもつんと高く、睫毛は硬く、毛先は上を向いていた。誰が見ても整った、可愛らしい顔立ちだった。
 ブラシを取って、アキのまぶたをピンクのシャドウでほんのり色付けしてやると、ぷくりと膨らみ始めた大粒の瞳に私が映る。まるでアキのまぶたは月夜に滲む桜のようで、瞳はそんな桜の下に流れる小川だった。アキが瞬きをする度、緩やかな波が立ち、水面が和らいでいた。
「よく似合ってる。」
「そう。」
「可愛い。」
「そう。」
「桜のこどもみたいだよ。」
「そうかもね。」
 ほんの一瞬、アキの瞳の中がぐらついて、激しく波が立っていた。早く化粧を終えなければと、頬と唇に紅を点した。
「ほらできた。」 
 化粧を施し普段よりも幾分か幼く見えるアキが、鏡越しに私を見ている。自身の姿に全く興味を示さない。これこそ、私がアキを気に入っている理由の一つであった。
「ハツが幸せそうでよかった。」
 アキは、私が女装を頼むと決まって最後に一言、そう言う。私が幸せそうにしていると、とても安心するそうだ。アキにとって、それが幸せなのかは定かでないため、私にとってはまだ少し不安であった。 
「私すごく幸せだよ。とびきり幸せだよ。アキは違う?」
「きっと幸せだよ。ハツのおかげだ。」
「いつもそう言ってはぐらかす。」
「ハツが心配することないから。」
「ますます心配になる。」
「ハツ、今僕が一番嫌いな顔してるよ。」
「さっきみたいに笑ってないけど。」
「もちろんさっきみたいに笑ってるのも嫌いだけど、ハツの不安そうな顔が一番嫌いなんだって。僕まで不安な気持ちになるから。」
「ごめん。」
「ならその顔今すぐやめて。今日は特別な日なんでしょ。」
 肯く前に、アキは立ち上がり部屋を出て行った。そうだ。今日は特別な日なのだ。毎年一度、この日はうんと可愛いアキと一緒にタルトを食べて、お祝いするのだ。こんな日に限って絶対に、アキを不安にさせてはいけない。アキと共に、この日を迎えるようになって十度目になっても、今日だけは気持ちが落ち着かなくなる。
「ハツ!何してるの。早く来て!」
「すぐ行く!」
 とは言ったものの、すぐさま気持ちが落ち着くはずもなく、ええい、こうなったら付け焼き刃だと、深呼吸を二回して、部屋を出た。
 アキはリビングにいた。律儀に椅子に座って、トウシューズで覆われた爪先で床をこつこつ叩いている。
「タルト。食べようよ」
「そうだね。そうしようか。」
 冷蔵庫の奥から、大事にしまっておいたタルトを取り出し皿に並べる。今年も変わらず、アキの好きなフルーツタルトを買ってきた。
「美味しそう。でも、まずは食べる前に写真撮らせて」
「今年は十年目だし、奮発して、ちょっと高いタルトを買ったの。」
「このオレンジなんて本当につやつやしてるもの。待ってて携帯取ってくる。」
 私も写真を撮らなければと、ポケットから携帯を抜き取った。携帯を見ていない僅かな間に既に何十件か、通知が溜まって待ち受け画面に表示される。
 通知は全て、アキの行方を探す人々のメッセージを知らせるものだった。十年経ち、こうして未だ、アキと私を必死に探している人々がいることに感激する。まずはアキのご両親に感謝しなければならない。が、同時に警察には憤りを覚える。十年経った今、アキのご両親の訴えもまともに聞かず、警察は全く動いてない。端から私を見つける気などないのだ。
「携帯どこに置いたか忘れちゃって、探してた。」
「見つかった?」
「灯台もと暗し。僕の部屋の机にちゃんと置いてあったよ。」
 携帯を握りながら、どうにかうまい角度はないかと吟味しているアキが愛おしかった。柔らかな微笑みを湛えている。まさに桜のこどもだった。

 四月五日。満開の桜が天に昇り、涼やかな風が新たな活気を呼び込んでいた。

 私がアキを見つけたのだ。アキが私に見つかったのだ。

 灯台もと暗し。誰もここで桜が咲いていることに気付かない。


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