第三章 - 軋む者 2

目次 → 「煉獄のオルゴール」
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 瑠璃の言葉に従ってすり抜けた扉は、まるでおとぎ話に出てくるように小さく、おおよそ普通の体格よりも小さい僕でもギリギリ入ることができるほどの大きさだった。
 扉を開いて腹ばいでそこに入っていくと、先程まで鬼気迫る調子で鳴り響いていたオルゴールの音が途絶え、静かな沈黙の奥で耳鳴りだけがけたたましく頭に残響している。それによって強烈な頭痛がこめかみを軋ませて、完全に立ち上がるまでに数刻を要することになる。

 それでも体を奮い立たせて立ち上がれば、そこは地平線まで広がっている闇の空間が眼前に迫ってくる。見ているだけで頭痛が増加してしまいそうなその景色は、真っ暗な湖畔を彷彿とさせるように、静謐の中、闇に波紋が生じては静かに無へと帰っていく。
 不思議な感覚だった。そんな夢幻の景色にも関わらず、僕は不思議な郷愁にかられていて、呆然とその場を分けもなくあるき出した。

 一体、僕は何を見せられているのだろうか。
 どれもこれも、間違いなく現実のそれではなくて、しかも死後の世界というものであるとも考えられない。まるで永い長い走馬灯を見せられているようで、なんとも言えない感覚で頭が一杯になる。

「……ここは、僕そのものだ……」

 その、表現の当たらない感覚の中で、僕から無意識的に飛び出た言葉はそれだった。言葉では理解できないけれど、僕が端的に思い浮かんだそれは驚くほど正確に、心境の上層を掬っていた。
 この真っ暗な世界そのものが、僕の心の空白を見事に表していた。生前の記憶の乏しい僕を突き放すかの如く、この暗がりがニュアンスとして明瞭な存在感を放っていた。

 なにもないのは、僕の記憶がなにもないから。それだけではない。記憶がなければ向き合うこともできない。だからこそ、この暗がりに静かな波紋が広がっている。
 それはなにかの変化を必死に与えようとする自らの行動のように思えてならなかった。決して干渉することのできないこの領域で、僕は抗っている。すべてが無くなってしまう前に、なんとしても生前の記憶を取り戻したいという想いのみを引っさげて、真っ暗な世界へと走り出す。

 不思議だった。真っ暗で行く宛もないというのに、体は一切止まろうとはせず、感覚が安定しない床ですらも意味もないように足取りは軽い。その一方で陰鬱と心に伸し掛かってくる「優一を殺したかもしれない」という懸念は冷や汗となって体にまとわりついた。

 そんな遁走地味た足取りの中、真っ暗な世界は静かに音を鳴らしていく。

「一緒に死んで……」

「僕、優一が好きなんだ、いわゆる恋愛的な意味で……」

「僕の一番好きな曲……」

 聞こえてきた言葉たちは、どれも先程の世界の中で僕自身が言っていた言葉だった。先程と全く同じ言葉たちであるにも関わらず、僕はその全てが「自分自身」に向けられていることを理解する。
 罪悪に絡まる甘言に喉が詰まりそうになるが、同時に明らかな悪意にさらされる言葉たちに、僕は強い口調で言い放った。

「……惑わされない。幾ら罪悪感を煽っても、僕は必ず、自分と向き合う!」

 立ち止まってそう言葉を投げると、それに反発するように無から生じた大量の言葉の羅列は徐々に大きくなっていき、しかもその量も尋常ではないほど増えていく。
 終いには、恐らく過去の僕が言ったと思われる言葉が一斉に鳴り響き、とんでもない騒音が闇をエコールームにして乱雑に広がっていた。不意に耳をふさいでしまいそうになるが、そこをぐっと押し戻し、一つ呼吸を整えて、再び真っ暗な世界を駆け出した。

 今度は遁走ではない。明確に、前に進もうとする意志を持って闇を蹴った。
 すると、騒音は自らの足音とともに置き去りになっていき、次第に強烈な声も遠くではしゃいでいるようだった。漸く不快な世界を抜けたと思えば、今度はぽつりと真っ暗な世界に家屋が一つ佇んでいる。

 見た目は一般的な日本家屋である。近代的なもののようで、若干の西洋感も混ざっていて、本当にどこにでもあるありふれた一軒家に思えたが、すぐに表札にぶら下がっている「錫野」という名字を見て、この家が生前の実家であったことが判明する。
 そうと分かった瞬間、まるで闇に佇む魔王の城のような印象を抱いてしまうのは、きっとこの家に寸分の思い出もないからなのだろう。ある意味ではどうでも良ささえ覚えてしまっている自分がいることにさほど驚かなかった。

 けれど、自分と向き合うと何度も啖呵を切ってきた。ここで後戻りをする意味も理由もない。一糸乱れぬ呼吸を飲み込んで、静かに家屋の前で足を止めて、静かに玄関の扉に手をかけた。
 しかし、扉に手をかけた瞬間だった。手のひらはまるで焼け爛れるような熱を持ち、思わず激痛で手を離してしまう。一瞬、何が起きたのかわからず訝しげに玄関を見回すが、これと言って何かが起きている様子もない。強烈な怪訝さが残る中、今度は体中で扉を開けようとするも、今度は逆に扉全体が凄まじい冷気をまとったように侵入を拒んでくる。

 相反する感覚が、この扉には練り込まれているようで、こちらの侵入の一切を拒んでくる。
 いくつか試行錯誤をしてみるも、押しても引いても、服で皮膚をガードしても、それをすり抜けて強烈な痛みが体中にまとわりつく。恐らくは、是が非でもこの扉の先に進みたくないらしい。

 事実とは裏腹に、僕は「家自体」が侵入を拒んでいるのか、それとも「自分自身」がここに入りたくないのか、どちらであるか判断がつかなかった。おおよそ、覚悟を決めてもこの家には入りたくない自分の弱さであるとは思うが、これだけ弱さと向き合い、受け入れようと心構えをしても入ることすら許されないなんて、どれほど強靭な心を持てばこの先に進むことができるのだろうか。

 先に進む事ができずに辟易とさせられるが、このまま玄関前で尻込みし続けるのは時間の浪費だ。
 ひとまず玄関を後回しにして、周囲に闇が広がっているだけなので、家の外周を回ることは簡単だ。どこか別の所から入ることができるかもしれないと希望を持ち直し、右回りで家そのものを調べていく。

 外周を見ても変なところはない。強いて言えば外壁が随分と褪せているところを見ると、どうやら建設されてから十数年は経過しているのだろう。もしかしたら、僕と同じくらいの月日が経っているのかもしれない。
 どちらにしてもそれらの情報を見送って、家を回ると、カーテンのかかっていない窓から明かりが漏れていることに気が付き、ひっそりとそこから中を確認する。

 そこはリビングルームのようであり、赤ん坊が眠る柵付きのベッドがあり、その上にはテレビなどで見たことのある赤ん坊をあやす玩具が吊るされている。
 微笑ましいワンシーンであるように見えるが、どういうわけか状況は険悪であり、両親と思われる二人の人物が言い争っている。それまで生活音の一つも消えてこなかったが、両親が口論を始めた途端、窓が開け放たれたように音がクリアになる。

「……どうして私達の子が、遺伝子疾患なの……?」
 恐らくそれは母親の声である。その内容に思わず顔を歪めるものの、今度は窓辺に背を向けている母親に話しかける父親の視線を懸念して体勢を屈める。
 そして、怒号のような父親の声に聞き耳を立てた。

「クラインフェルター症候群が問題じゃない……原因不明の痙攣や心停止が多いだけで……」
 何やら不穏な会話ばかりが聞こえてくるが、残念ながら、後者の痙攣や心停止まではわかるが、前者の「クラインフェルター症候群」なる疾患名は聞いたこともない。
 これは自分が幼いときの記憶だろうか? であれば、自分は体が弱い子どもだったのかもしれない。一方でそれが「優一を殺す」ことに繋がるとは思えない。もっと情報をと焦る気持ちを押さえて、会話に耳をそばだてる。

「……クラインフェルターって、おとこおんなって……ことじゃない!」
「そうじゃないだろう!? それよりもこんな体の弱い子どもじゃ、期待できないじゃないか……」
「そんなことよりも……」

 会話の流れが明瞭になった時点で、会話が途切れてしまう。
 どうやらこの両親は、子どもの病気が原因で理想的な育て方ができないことを憂いているようだ。しかも赤ん坊とはいえ本人の目の前で、である。とんでもないろくでなしであるが、およそこれが自分の両親であるとすれば、自分の気持ちが歪んでもなんとなく納得できるような気がした。

 窓からはもう何も聞こえない。しかし、このように他の窓を漁れば同じようなことが起こるかもしれないと、同じ方向に曲がってみれば、同じように窓があり、なにかボソボソと話しているようだ。
 しかし今度は窓が2階にあり、話を聞くことしかできない。

「ほら……あの子やっぱりおとこおんな、じゃない!」
「そんなことよりもどうして、絶対に私立にいけるっていうのに公立に通うなんて言ったんだ! 体が弱いならせめて頭だけでも……」
「それよりも、この部屋を見なさいよ……少女漫画とか、宝石とか、気持ち悪い……」

 どうやらあの部屋は僕の部屋らしいが、肝心の本人は不在だったようだ。生前の事実として聞けば悲しくもなるが、それ以上に僕は今随分と俯瞰してことを眺めていた。
 そのためか、「子供のこととはいえよくあんな本気になれるな」なんて思いながらも、自身が精神的に相当切迫していたことを知る。けれども、それだけではあの最悪の事件にはつながらない。もう少し、具体的にわかる情報が欲しいと更に先に進んでみても、今度は窓一つ確認できない。

 ここで手に入れられる情報はこんな程度だと内心がっかりして玄関に戻ってみると、おかしなことに気がついてしまう。

 今まで実家の家の周りを回っていたはずだが、玄関の佇まいは全く別物に変貌していて、しかも表札には「菅谷」というものに変わっていた。

 それを見た瞬間、僕はその家が優一の家に変わったことを理解する。

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