第二章 - 鏗鏘のアラベスク 4
目次 → 「煉獄のオルゴール」
前回 → 鏗鏘のアラベスク 3
次回 → 軋む者 1
音楽室のある3階には、鈍く鳴り響くオルゴールの音色が縦横無尽に反響していた。しかし、その旋律は先程のように完璧な旋律を紡いでいるのではなく、時折音色が飛んでいるように思える。なんとなく、上手な奏者があえてこのような弾き方をしているようだった。まるで、こちら側を嘲笑するように。
僕はその音色に導かれるように、音楽室の扉の前まで歩を進める。すると、そこで音色はぴたりと止み、あたりは一瞬にして形相を変える。
この世界が急転する感覚、もう何度目だろうか。
僕は嫌味っぽくそう思うと、すぐに目の前に広がる深い闇を一瞥する。そこには、扉すらも消えてしまった真っ暗な部屋がこちらを待っているようだった。
暗がりの手前で立ち尽くす僕は、今この場所に入っていいのかを思い、一瞬の隙間に思考が体を束縛した。それは、どうして目の前の世界が一瞬にして変形したのかという疑問に対する答えを模索する、思考の鎖によって行われた。
今更、この先にいきなにかに襲われることが怖いのではない。だけど、この先に存在しているであろう、自分自身の記憶の羅列はきっと、僕にとって死を遥かに凌駕するもののような気がして、僕は怖かった。
僕は今、何を求めている? 求めているものは、自分の記憶であったはずだ。失われてしまった自分の人生を求めてここまで来たはずだ。
今一度自らの目的を心に言い聞かせて、僕はゆっくりと暗闇に足を踏み込んだ。
室内は暗がりのままだった。何も感じられない重苦しさに包まれた視界を一旦捨て去り、次に感じた足底の感覚に大きく体を震わせる。
靴を侵食するような水が足先をゆっくりと冷やしていき、感覚を狂わせていく。その一方で聞こえてくる水音に、僕は混乱しながらも必死に前へと進んでいく。水の音がどんどん近くなっていることが肌で感じられるようだった。それと同時に、今時分がどこにいるのかすらも曖昧になってくる。感覚だけを信じれば、到底室内とは言えないだろう。荘厳な滝を前に立ち尽くしているような気分だった。
そこで、あの音色が再び聞こえてくる。今度は、オルゴールを回すカチカチという特徴的な音も鳴り響き、不気味に辺りは生温く変形していく。
がちゃがちゃと乱雑な音が響き渡る世界を前にして、僕は声帯が裂ける勢いで叫ぶ。
「僕はここにいる!! もう、何も怖くない!! 姿を見せろ!」
その声に呼応するように、あたりは光を取り戻していく。
フラッシュバックのように光が網膜を貫くと、完全に明瞭な視界に戻るまで時間が掛かってしまう。それまでのほんの身近な間、僕は辺りを蠢く奇怪な者たちを感じ取る。それは、生き物ではないものの、壁を這い回るなにかだった。一瞬、それが何なのか知りたくなったが、それ以上に僕の心を引き寄せたのは、肩を濡らす雨だった。徐々に衣服が湿っていき、眼前にある前髪から微かに滴る雫を体で感じながら、辺りに降り注ぐ鬼雨を肌で悟る。
そうこうしているうちに、僕の視界が完全に取り戻された。ようやく、辺りを見ることができると感じた矢先、僕が見たものは酷く歪な世界だった。
最初に目に飛び込んできたのは、壁に埋まってオルゴールを回し続ける、あの怪物だった。それは引っ剥がされた顔で僕を見ていて、一切視界をそらす事なく僕を見るのだ。そして、ただ茫漠とオルゴールを回している。その仕草とずれるように、アラベスクの音色が跡からやってきて、映像とずれた不協和音を引き起こしている。どうにも、音は外れておらず完璧な旋律を続けているというのに、僕にとってそれは酷く苦痛だった。
一方の室内は、確かに音楽室の原型を残したまま、異形の光景に飲まれてしまっている。机はもう存在せず、床には大量の乳白色の液体がフローリングを埋め尽くし、水面はどこから降っているのかわからない雨により雑踏が生じている。薄明かりのなか垣間見える壁には、多くの水滴がまるで血管のような質感を作り出していて、水によって腐りかけた壁に新たなデザインを加えているようだった。そして、そのすべてが、今流れている完璧なアラベスクの音色と連動しているようだった。
「……お前は、なんだ? 僕の何を知っている……?」
僕は思わず、泣きそうな声でそう言い放つ。どうして涙を流しているのかは僕自身でもわからない。なぜか、そこにいると猛烈に泣きたくなるのだ。
すると、その声を聞いて眼の前の怪物は、一抹の笑みを浮かべるようにオルゴールを深く、強く回した後、その動きを止め、ゆっくりとシリンダーが回りだす。その動作に反応するように、辺りに広がっていた完璧なアラベスクは一旦途切れ、その代りに幾つもの会話が聞こえてくる。それは、僕自身と、優一との会話だった。
「誕生日、おめでとう」
「え? 本当に? 僕に、優一がくれるの!?」
「……お前の好きなやつじゃないかもしれないけど」
「そんなことないよ! 優一がくれたものなら、なんだって、嬉しい」
それに続いて、オルゴールの音色が響き渡る。その音色は、今まで何度も聞いたオルゴール調のアラベスク第1番だった。流石にすべての部分を再現することはできなかったのか、オルゴール調にアレンジされた曲が流れている。
確か、このときもらったものは、開くとこの曲が流れる小物入れだった気がする。
「これ……僕の一番好きな曲……」
「だったら嬉しい。確か、この曲好きだった気がしたけど、名前がわからなくて……」
彼のはにかんだ声色を聞いて、小さく涙ぐみそうになる。
しかし、次に聞こえてきた僕の声は、嗚咽にまみれた声だった。
「優一……ありがとう。本当に、ありがとう」
「え!? そんな、泣くなって! 別に離ればなれになるわけじゃないんだから!」
「…………うん、そうだね、うん……絶対、離れないから」
「当たり前だろ。もう、泣きやめって……」
そこで、一つの会話が途切れたようだった。
しかし、声は続いており、新しい場面の会話が聞こえてくる。
「一緒のクラスになれてよかったね。中学校からも、よろしくね、優一……」
「あぁ、クラス別になったら親呼んだところだったからな」
「呼ばなくてよかった~。本当にやりそうだもん」
「本気だからな。そういえば、折人の親は……いないんだな」
「うん、うちの親はその、忙しいしね。仕事仕事だし」
「それを言えば、俺のところもか。そんなもんだよな。でも良かった。折人、なんか別の中学校行くかもしれなかったし」
「え?」
「いや、だって、私立の中学校行こうとしてたんだろう? 見学とか行ってたみたいだし」
それを聞かれて、僕は少しの間押し黙ってしまう。
そして、何かを決めたようにはぐらかす。
「いや、ちょっと視野に入れてただけなんだ。寮があるらしいしね」
「そっか……離れることになるんじゃないかと思って、心配だったんだ」
「大丈夫、絶対離れないから」
僕の言葉を皮切りに、再び場面が切り替わるようだった。
しかし、そこから徐々にノイズが混じり始める。
「好きなんだ。優一のことが、いわゆる恋愛的な意味で……」
「……俺もだ。きっと、昔から、最初に会ったときから好きだった」
あの時の会話だった。すべてが壊れていく前兆のような、狂おしく響き渡る声は、あの時見た記憶の続きである。
前回、この会話を見たとき、このあとのセリフを聞くことができなかった。それが今、目の前に存在しかけている。僕は、不意に目をつぶってしまう。
その先にある言葉を、知っているかのように。
「……え……? 優一が……僕のことを……好き?」
それは、喜びにあふれた声などではなかった。言い表すのならば、「想定外」であろう。それに続いて、震えるような呼吸の音が聞こえてくる。
一方の、それに反応する優一の声は、僕の声の異変に気づいたのか、すぐに不安げな声で話しかけてくる。
「折人……どうしたんだ……? なにか、あったのか?」
優一の声に、更に反応するように僕の声は混乱を更に強めていく。
「そんな……そんなわけない……僕は、僕は……独り……なんだ」
「折人、何を言ってるんだ……? お前はひとりなんかじゃない!」
「ない……ありえない……ありえない、これからも、独り……今までも……」
次第に、聞こえてくる声が狂気を帯び始める。
「折人、大丈夫だから、少し落ち着いてくれ」
「……ねぇ、嘘だって言って…………」
「え?」
「僕のことを、愛さないで……優一にはもっと、相応しい人がいるから……」
「何を……、俺はお前しか……」
そこで、何かの音が聞こえた。
聞こえてきたのは、優一のうめき声と、不気味な転げ落ちる音が響いた。
それに続いて、狂気的な自らの声。
「なら、一緒に死んで……僕と……」
声はそこで完全に途切れ、意識が戻った頃には音楽室は一般的な世界へと帰結していた。
沈黙の室内を満たしているのは、忌々しさを残す自らの呼吸音のみである。
辺りは恐ろしく薄暗く、この泣きそうな声が実体を持つ波のように広がっていく光景がそこにあるようだった。
それほどの同様が僕の体を支配していた。自分がしてしまったことの大きさと、優一への狂気的な愛情を肌で実感し、気持ちの収集がつかなかった。
眼前にあるのは強烈な不安と後悔。
一体、生前自分には何があったのだろうか。ほとんどの事柄を覚えていないということと、現象として目の当たりにする生前の記憶がただ不安を煽っているようだった。
確かに愛していたはずだった。君と長い時間を共有したはずだ。それなのにどうしても、何も思い出すことができない。喉元まででかけている記憶の片鱗を見つけることができなかった。
対して感情はしっかりとあのときの記憶を持っているようだった。自らを襲った狂気的な思考と、それを発作的に実行してしまった後の絶望感、喪失感、続いた軋むような慟哭が今もなお口腔内をさまよっているようだった。
「……僕が、優一を……殺した……? どうして……?」
無意識に飛び出た言葉は不安定に震えていて、帰ってくるまでの短い時間の中で恐ろしい変形を遂げていた。
「お前が殺した」、「死ぬべきはお前だった」、反響により変わった言葉はふとそんな声に聞こえてくる。それを咀嚼するように聞き取ると、襲ってくるのは強烈な吐き気だった。
聞こえてきた声をなぞるように僕の手は震えていた。ついさっきほど、彼を突き落としたような感覚が手に残っている。その感覚から逃れようと、僕は必死にその手を机に叩きつける。何度も何度も、手のひらを机に叩きつけると、強烈な激痛が皮膚に残り赤黒い痕跡を残した。けれどその痕跡は、嗤笑するように未だ残る突き落とした感覚が残っていた。
逃れられぬ感覚に対して、僕は発狂寸前だった。
そんな僕を更に混乱させたのは、聞こえてくる完璧なアラベスク第1番だった。これまで聞いた音色の中でひときわ美しく、そして完璧に弾き鳴らされる音色が室内を何度も乱反射し、音楽室は再び変形していく。
その完璧な音色が響くたびに、辺りはフラッシュバックを起こすように明暗転を繰り返す。
そのたびに少しずつ音楽室は変わっていく。狂ったような形相で変わっていく世界の隙間に垣間見たのは、オルゴールを回し続ける何者か。いつもどこかにめり込んでオルゴールをひたすらに回し続けるあの異形の存在だった。
眩んでいく視界の隙間のなかで、僕は初めてその異形の瞳を見る。ぎょろりとした眼球は、ゆっくりとこちらを見ていて、強い怒りを孕んでいるように見える。だけど、その反面優しさも潜めているようだった。全く逆の感情を感じさせた異形のものは、僕と目があっていることを認識しているのか、徐々に笑っているように表情筋を変えていく。
やがて、異形のものは、初めて口を開いて僕にこう告げる。
「折人、戻っておいで」
その声を聞いて僕は驚愕する。
声は、まさに優一そのものだったのだ。何度も記憶の中で聞いてきたあの声と、寸分違わず同じものだ。
「優一……? 君なのか?」
答えが欲しくてそう声をかけても、異形が口を開くことはもうなかった。代わりに、変形した世界だけが僕の目の前に広がっていた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?