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創作の独り言 ジャンルの話

 小説には、いくつものジャンルが存在するのは周知の事実である。「エンターテイメント」「純文学」「私小説」「時代小説」「推理小説」、ぱっと思いつくだけで羅列しても相当な量があり、しかもこれら一つ一つを解体していくとさらなる細分化ができる。
 私はもっぱら、ジャンルとして分類するのであれば「推理小説」や「純文学」寄りの作品を書くことが多く、できるだけ多くのジャンルに触れたいと思っている。ジャンルの垣根を超えて、小説は価値のある代物ばかりだ。

 しかしながら、小説のジャンルの中には実は大きな分断が存在する、と思っている。それが「純文学」と「ライトノベル」である。勿論これらは対象としている人が異なっているため、正直比肩することはできないのだが、どういうわけか小説の界隈には、「純文学はライトノベルよりも素晴らしいものであり、ライトノベルなんて書いているのは子ども」などという不思議な主張をする人もいる。
 内容の対象年齢の低さからか、小説そのもののクオリティで判断せずに、主語を大きくジャンルで作品の程度を測ろうとする人が一定数存在しており、概ねそのような場合は「純文学のような素晴らしいクオリティを書く側が評価されるべき」と思うこともある。

 このような書き方をしていて失礼であるが、実はこれは数年ほど前の私の主張である。
 実際は非常に稚拙で非論理的なものであるため、今ではライトノベルも面白そうなものはぜひ拝見したいと思うようになったが、あのときは実際見ることすら憚られていて、若干の蔑みも存在していた。
 私の場合、これがどのようにして改善されたかというと、自分でもよくわかっていない。いつの間にやら多くの作品に触れ、卓越された発想力と努力によって作り出されたファンタジックな物語に素晴らしさを覚えるようになっていた。

 しかしながら、私のような感想を抱く人間も実のところ多いのではないだろうか。統計データによるものではないためあくまでもイメージなのであるのだけど、「純文学」をメインに嗜む人々は、「ライトノベル」を嗜む人々を少なからず見下しており、しばしば「ライトノベルは小説ではない」とまで言わしめる。
 過去の私を含めて、どうやら美しい日本語以外は小説としての価値が認められないらしい。ではどうして、そのような事になってしまうのか。

 現在の私の意見では、ライトノベルは勿論小説であるし、立派な作品であると胸を張っていいと思っている。というより、ジャンルで作品の価値が左右されるのはナンセンスであり、必要な価値基準は「クオリティ」であると思っている。
 以前、「文章の価値」について記述した記事があるのだが、それはあくまでも文章としての価値であり、小説の価値はひとえに「クオリティ」であろう。あえて付随させるのであれば、どれほど発表される世情に合致しているかというのも一つの価値基準であるが、どれをとっても「クオリティ」は大前提であると考えている。

 作品のクオリティはいくつか基準が存在する。物語構成の矛盾のなさ、キャラクターの行動の整合性、キャラクターそのものの魅力、物語に合致した文体、いくつもの基準を高水準で調和させたものが「クオリティの高さ」だと思っている。
 当然これらの基準は多くの物語に適用されるべきだし、そこでジャンルによる違いはない。というかこれらの定量的な評価がジャンルによって違っていれば、それはクオリティの高さを客観視するのではなくて、主観による好き嫌いの話になってしまう。

 話を戻してどうしてライトノベルは「純文学」から見下されてしまうのか。
 それは、小説を書く上で一つのパラメーターとなるのが「語彙力」であるからだ。私の文体は基本的に硬い表現が多い。投稿している作品の中にもそのような感想を抱く人が何人かいたようで、それを直接メッセージとして送ってくれた方もいたものだから、客観的に見て私の文章は堅苦しく、古語ではないが日本語らしい表現だと思われる。
 だが、日本語で堅い文章を書こうとするとどうしても一般には使われていない語彙が必要になる。いわば難しい言葉と表現することもできるが、これらの語彙を「知っていて、更に活用できる」ということに優位性が生まれる。

 一方でライトノベルは描写を極力簡素化して、物語としての面白さやテンポの良さを引き出している。逆に簡素化しないと物語は完結しないし、それだけ表現しなければいけない情報量も多くなる。だからどうしても、沢山の語彙を使って説明する、というよりかはできるだけ簡易な言葉で多くの情報を伝える方向にシフトしたのだと思う。
 これこそが、「純文学がライトノベルを見下す」という構図を生み出す原因となっていると私は考えている。簡易な言葉で描写を徹底的にわかりやすくする、ということは今までの小説の魅力を捨てることにもなりえ、だからこそ「ライトノベル」というジャンルをそもそも小説ではないのではと思ってしまう人もいる。

 ライトノベルは扱うべき情報も多く、これで日本文学並の描写をしようものならテンポが悪すぎて見れたものではないだろう。このジャンルは今までの小説ではできなかった表現を、文章の簡素化という要素によって克服したものだと私は思っており、他の媒体との親和性を極力高めたものである。
 それまでの小説の定石を大きく超えているのは間違いなく、それを今までの小説の感情的な評価を行うことで、「ライトノベルは小説じゃない」という評価に至るのではないだろうか。

 何度もいうが大切なのは「クオリティ」である。それは「語彙力が多い」や「文章が日本語の文法に沿っている」という定量的な判断ではなくて、より包括的な見方が必要になる。
 作品の空気感、根幹として何を伝えたいのか、どうして物語はこのようにして進むのか、あらゆるものを追求した結果できたものであれば、ジャンルなどかなぐり捨てて素晴らしい作品ができるのではないだろうか。

 散々言っているが、私はできるだけ多くのジャンルに触れたい。しかし、それでも出来上がる自分の堅苦しい言葉の羅列はもはや、ある意味では才能なのかもしれないと思うしかなかったりする。

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