憎愛の誄詞

今日、何十年も連れ添ったパートナーが逝きました。
共有したものは多く、無限に近い愛情を交換し合い、貴方との日々は整然と眼前に伏しているようでしたら。

僕は今でも貴方のことを愛しています。
それはそれは深い愛と、貴方に静寂の死が訪れることを祈りながら、もう動くことのない表情に語りかけています。
しかし、それと同時にこみ上げる苦しさと、儚い貴方の病に怒りを感じているのも事実です。

貴方の苦しむ声が僕の耳をつんざくようでした。もう何度この声に苛まれなければならないのか、その気持ちが脳内に不機嫌な羅列となって辺り一面に残っているのです。

変わっていく貴方を前にして、僕はどれほど貴方のことを愛していると標榜できたでしょうか。今となっては、それを貴方に尋ねることはできません。
物言わぬ貴方に代わって雄弁に語るものは貴方の表情でした。涙を流しながら微笑む貴方の顔を見ると、心の底から湧き上がる罪悪と苦しみ、そして貴方に対する愛情が僕の中を過ぎ去っていくのです。

だからお願いです。
どうか僕を許してください。苦しむ貴方を葬った僕の愚かな行為を、許してください。

脳裏をよぎるのはあの時の光景でした。
何年も連れ添った僕のことを忘れていく貴方を見て、僕の白い脳には黒色の絵の具が落ちました。
その時に舞い上がったのは、貴方への失望と悲痛さ、そして強大な憎愛でした。
断末魔のごとき慟哭が今も鼓膜を震わせるのです。
気がつけば、自らの手によって既に人ではない貴方がありました。

一瞬にして辺りは血の海へと変貌し、僕は茫漠と何かを求めるように激しい涙を浮かべます。ぽたぽたと何度もその水が血に舞い降りていく様は、忌々しいほどの躍動を見せているようで、僕に現実を突きつけるのです。
貴方を失ったことを、現実であることを受け入れられず、僕は苦しき彷徨人となって貴方の肉片を集めては、その空に貴方の一部を散らせるのです。

僕は、この手で貴方を殺してしまった。
それを自覚するまでかかった時間は本当に一瞬で、弾指に匹敵するほどでした。
けれども、僕はそれを理解することができませんでした。血塗られた貴方を抱えて、何度も貴方の名前を叫ぶのです。
勿論、貴方はそれに応えることはせず、闇雲な笑みのままこちらを見つめています。
その笑顔で、僕は自らの暴挙を悟ることになります。

「殺した。僕が、殺した」

反芻された言葉が室内にこだまします。
響き渡った音色が返ってくると、僕は自分の感情に気がつくのです。

貴方への深すぎる、重すぎる愛が貴方を殺してしまったのです。
貴方を殺害してから数分の間、僕はしばし逡巡しました。
今まで貴方と共有してきたものを、指でなぞるように、1つ1つの美しく甘美な記憶を頭の中に思い浮かべるのです。
それはゆらゆらと水面を駆けていく光の如き散乱を持っていて、苦しみすらも風化していくような気分に僕を落としていきます。
けれどもそれは幻惑であり、眼前に横たわる貴方を見ればすぐに僕は狂いそうな悲しみに襲われます。

大好きだったはずなのに、貴方を殺した。
この手で、貴方を殺した。

僕は滔々と流れ落ちる涙を目前にして、貴方の幻影を見るのです。
それは、必死に僕に謝罪する貴方でした。そこから遡るように、僕は直前に何があったのかを思い出すのです。

「誰だお前……なんで俺の部屋にいるんだよ!」
「智史、僕だよ、一都だ。君の、夫なんだよ……?」
「ふざけるな!! 気持ち悪い……俺が男となんて付き合いはずないだろう!!」

そう、この時、僕の心は完全に瓦解した。
今までどんな言葉も、どんな暴力すらも、優しかった過去の貴方を想って支えてきた。
思い返せば、そこまでの効力を持っているのかは定かじゃない。だけど、僕にとってその言葉は最も重く、自らの心をぶち壊すほどの威力を持った凶器であった。

「……とも……ふみ…………? なにを……言ってるの?」
「煩い! もう、出ていってくれ!! 気持ち悪い……」
「本当に、僕のこと、覚えてない……の?」

この次のセリフが、僕のことを狂わせた。
その時、僕はどんな表情を浮かべていただろう。
涙だっただろうか。それとも、怒りだっただろうか。悲しさだっただろうか?
どれであっても構わない。眼の前にあるのは、憎愛に歪んだ貴方だけだった。病に冒されすべてのことを失ってもなお、僕は貴方を愛している。

だからこそ、許せなかった。
今までの記憶が消えていく、僕らの思い出が消えていく。すべてのことが消える前に、僕は自らの手で彼の命に終止符を打ったのだ。

「知るわけないだろう」


その次の視界に映えたのは、けたたましいほどの鮮血だった。
すべてを悟り、理解した今の僕には、泣きながら彼の体を抱えることしか出いなかった。

「ともふみ……僕は…………何をしてしまったのかな……?」
「あんなに愛していたのに……君を……こんな……」
「ごめん……本当に、ごめんなさい……今でも愛してるのに……ごめん」

僕の体は、貴方の鮮血に歪んでいる。
大好きだった貴方を抱えて、必死に貴方への憎愛を身に沈めていく。
それから、僕は彼の肉体を掬って、そのまま住み慣れた部屋を通り抜け、一緒に眠ったベッドの上で横になった。


7月31日、茹だるような真夏日であった。しかし湿度は低くからっとした空気感がコンクリートアイランドを包み込んでいた。
その社会の片隅に、2人の老人の死体が発見された。2人はともに暮らしていたらしく、写真等の遺品から推測するに、同性パートナーという関係であったようだ。
2人はともにベッドの中で死んでおり、1人は他殺体、もう1人は餓死で亡くなっていたという。

特に、餓死で亡くなっていた老人は、自宅の中で食料があったという状況から、自ら餓死という選択をしたようだった。
自殺と表現するにはあまりにも奇怪な状態に多くの機関が頭を悩ませていたが、彼らを知るものからは、「片時もパートナーの傍を離れたくなかったのだろう」と推測された。
もちろん、専門知識がある者ならば、それが不可能なことくらい理解できるだろう。極度の衰弱と空腹に理性のみで、限定的に言えば愛情だけで耐えることなど不可能なはずだ。
結局、関係機関は納得のいく答えをだすことはできず、「無理心中」という形で処理されることになった。

だが、本当の真相は闇の中である。
あるのは、安らかな他殺体と、その他殺体に寄り添う、胃に何も入っていない老人の死体のみである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?