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とある独白

 まず僕の自己紹介をさせてもらう。僕は世間一般で言うところのゲイだ。恋愛感情を寄せるのはいつも男性であり、女性に対しては、友達以上として見ることのできない。もっといえば、性欲の対象として見ることができない。

 一人で自慰行為をするとき、まず最初に想像するのは男性の肉体であり、逞しい肉体と男性器に対して強烈な興奮を覚える。
 字面にすると相当に生々しい話であるが、およそ二十歳となる今年抱いた疑問を、ここに列記していきたい。

 勿論のこと、僕はこれから、新しい家族を望むことは難しい。仮にパートナーができたとしても、日本社会には男性同士の結婚制度はないし、子どもを育てることはかなわない。
 こちらも正確に言えば、不可能なわけではなくて、子持ちのパートナーや代理母出産などないことはないが、実際に生まれてくる子どものこと考えるとそこまでの茨の道を歩ませる覚悟は、現状持てない。
 子どもについては、はっきりとここに明記しておきたいが、親となる自分たちのせいで迫害や好奇の目にさらされることは耐えられない。だから、僕らが今生きている時代においては、子どもを持つことは、例え可能であってもしたくない。
 自分のことでもないのに、その苦しみを与えるなんて、僕の心が耐えられない。それが愛する子どもとなれば一入である。僕はそれを守ることができても、子どもたちの心を歪めることは間違いない。そんな苦しい経験を、僕らの都合で抱えさせることは、どうしてもできないと思う。

 では、愛するパートナーができたとして、その彼と社会的な契約なしでどこまで関係を続けていくことができるだろうか。綺麗事抜きで、永劫の愛を結び続けることは難しい。この狭い世界で、しかもゲイという更に狭まった世界の中で見つけることはまさに天文学的な確率になる。
 社会的な肩身の狭さゆえか、どうにもゲイのカップルは長続きしない。そこにどのような因果関係があるのかはわからないけど、少なくともこの国のイデオロギーには関係していると思う。勿論、ゲイという人たちのコミュニティにも問題はあるだろうが、どちらにしてもゲイカップルが長続きしないのは間違いない。

 ただでさえ離別の多いゲイカップルに、更に社会的な契約すらないとなお続けていくことは困難を極める。実際問題は別として、まだ二十歳である自分に絶望を与えるには十分なものである。
 おまけに出会い方すら面倒が多く、しかも成功するまではそれこそ、大企業のエントリーシートをパスする程度の試行回数を見込まなければならない。
 ゲイの出会い方は専ら、スマートフォンなどの出会い系アプリがメインとなる。ゲイバー等の実際に交流して関係を深めるというのもあるが、地域格差がかなり激しく、生憎僕の暮らす街ではさっぱりこれは見込めない。そのため実質的にアプリ一択になるのだが、残念ながらこの手の出会い系アプリは異性愛と変わらず、八割は性交渉を目的とした猥褻なアカウントになる。そんな中、真剣な交際を目指す人間を探すには相応の観察眼が必要になるし、何より精神がすり減ることになる。
 関係の殆どは行きずりになり、いい人だなと思った人も結局は「ヤレるか」で判断されて捨て置かれるなんてことを繰り返されれば、誰でも心は壊れていくだろう。

 まさに絶望のオンパレード。事実の列挙がもの悲しくなるが、それ以上に僕の心を蝕むのは、異性愛が普通として語られるばかりではなく、彼らは在り来りな幸せを掴み、見せびらかされているような気持ちになることだ。
 隣の芝生は青く見えるとはよく言ったものだが、何度そう言い聞かせても、目の前に転がっている世界の現実を見せられれば、恨み言の一つも言いたくなる。

 これから自分はどうやって生きていけばいいのか。ともすれば安定した生活を望む必要すらない。養うべき家族も作ることができず、孤独で死んでいく定めなのかと自分に尋ねても、返ってくる答えなどたかがしれている。
 「仕方がない」という諦めの言葉。よく聞けばお利口に聞こえるが、その言葉に込められた意味の本質は理不尽を自分の意見のように吐き捨てることで、自分の心に蓋をするだけなのだ。

 もし、これを見ている人がいるのであれば、聞きたい。

 僕はどう、絶望に立ち向かうべきなのだろうか。数多転がっている絶望という現実に、どうすれば立ち向かうことができる? どうして、僕は家族を持つという、ともすれば在り来りな幸せすら、持つことを躊躇われる?
 どうして、異性愛者のように振る舞うことが許されないのか? 理由が欲しくてたまらない。同情のひとかけらも、激励の言葉も要らない。ただ、僕に納得の行く理由だけを教えてほしい。

 この気持ちに、簡単な解決の言葉なんてない。
 「家族を持つ以外の幸せもある」、「嘆いているよりなにかしたほうがいい」、「君より苦しんでいる人はこの世にたくさんいる」、「現実を見ろ」そんな言葉は道端に転がってるゴミと同じだ。仮に、そんな言葉を僕に吐く人間がいるのであれば、僕は胸を張ってこう返せる。

 「理解のできない問題に首を突っ込んでわかったふりをするのはやめろ」真っ直ぐな瞳でそう返よ。なぜなら、そのゴミたちは僕が一度拾って、再び捨て置いたものだから。
 いろいろな人にこの話をしたけど、どういうわけか揃いも揃って僕の問に答える人間はいなかった。小手先のアドバイスや解法なんて何も求めていないのに、なぜか示し合わせたかのように上のような言葉ばかり吐いてくる。

 何度も言う、いらないんだよ。
 そんなものはいらない。欲しいのは答え。学のない僕だって理解できる。その理由は「ゲイだから」とか「被差別集団だから」、色々な言葉で説明できるはずなのに、どうして皆それを避け続けるのだろうか。

 それはゲイ同士でも言える。無理に「現状を憂いても仕方ない」とか利口ぶる答えばかり狂ったようにして馬鹿みたいだ。現状を受け入れることが最良なはずがない。

 現状を受け入れている暇があるのであれば、戦うべきだ。
 武器は幸い無数にある。この社会を変えるためにできるところから始めようと、どうして思えないのか。今まで嘲笑のアドバイスばかり並べてきた連中に怒りを持って社会を変えようと、思ったことはないのか?

 生憎僕は、そんな社会に従属することなどしたくない。
 僕は、僕のために残りの人生を投じていく。この糞溜めを、絶対にひっくり返すために。

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