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研究者を目指していたけど、挫折して休学、適応障害になったけどなんとか生きてるよって話 #人生を振り返る

はじめに

治ったのかもしれない。適応障害と診断されて5年目の冬。

いらいらしたり、落ち込んだりすることもあるが、なんとなく"正常"な反応が増えてきた気がする。少なくとも、過剰に気分が落ち込んだり、無気力状態が一日中続いたりすることはなくなった。

治ることをずっと希求していたのに、あまりうれしくないのはなぜだろう。
「自分は病気だから。治療中だからだ。」ということを言い訳にできなくなったからだろうか。
それとも病気になっていた時間が長すぎて、「健常」な状態がもはやわからなくなったからだろうか。

ずっと悩んでいた日中の激しい眠気は収まり、やっと人並みに働くこともできている。
いまだに寝つきは悪いので、睡眠薬を使ってはいるが、無くしてももしかしたら大丈夫かもなんて予感は薄々している。

思えば、親に内緒で初めて精神科を受診したのが大学四年の時だった。
ずっとどこかに記録として残しておきたいと言う気持ちがあった。
だからこのnoteを書きたいと思う。


高校時代

私は科学部に入っていた。わりとガチな部活で、それぞれがテーマを持って課題研究に取り組んでいた。子供の頃から生き物や科学が大好きだった私は自然と研究にのめり込んでいった。
自由研究に毛が生えた程度のものだったが、とにかく実験や飼育をしている時間が楽しかった。PDCAを回すのが性に合っていたらしい。通学の電車の中では、どうしたら実験がうまくいくかばかり考えていた。微生物の数をひたすら数える作業とか、気の狂う作業を嬉々としてやっていた。将来は大学院に進学して、研究者になろうとその時決めた。

ただ残念ながら私には数学的能力が壊滅的に無かった。数学C のテストで3点をとったことすらある。しかも私のやりたい研究分野はかなりマイナーで、全国的にもその研究を取り扱う大学は少なかった。

不利な状況だったが、それでもなんとかとある私立の理系学科に滑り込んだ。幸運なことに、その大学には自分がやりたい分野を取り扱う研究室があった。

大学3年

研究室選択の季節。当然の如く、以前から志望していた研究室を選んだ。そこになんの躊躇いもなかった。あっさりと面接を通過し、晴れて希望していた研究室に入室した。その選択が自分の首を絞めることになることなど思いもよらなかった。

意気揚々として入室した私は、次第に気力を無くしていった。きっかけは、研究室の先輩との仲がうまくいかなかったことだった。
指導教官とのコミュニケーションもうまくとれず、問題は悪化していった。
情緒不安定になり、しょっちゅう泣き出しては花粉症だとごまかしていた。
友人や家族に当たり散らし、周囲から嫌厭されがちになった。
うまく立ち回ろうとすればするほど、空回りし、頑張れば頑張るほど求められている努力とは遠ざかっていった。

大学4年

卒論発表会が近づく。全く準備ははかどらない。先生が言っていることが分からない。全くわからない。どこをどう直したらいいのか、さっぱりわからない。周りの友人たちも、とうぜん忙しいので相手にあまりしてもらえない。5階のトイレで嗚咽を漏らした。本気で卒論発表会を本気でボイコットしようかと思った。ずっとお世話になっていた学生相談室のカウンセラーさんの支えで、なんとか当日発表を乗り切った。
ずたぼろだったけど、もうどうでもよかった。

内部の大学院への進学がすでに決まっていた。当時の私は本当にバカだった。そんな精神状態で、研究を続けられるわけもないだろうに。そのときどうして進学を辞めなかったのかは、あまりよく覚えていない。論理的な説明などできない。きっとただ何かにしがみついていたかったのだろうと思う。


修士一年の4月~

研究テーマなど決まるはずもなく、大学に行かずに引きこもっていた。指導教授からのメールで、なんとか研究室へ行く。泣きながら話していた。もはや涙を流さずに会話することが不可能だった。悲しいのか、つらいのか、教授がひたすら困惑していたことだけを覚えている。
「いまのあなたの状態では研究を続けるのは難しい。大学院を辞めるという選択肢もある」、そんなことを言われた気がする。それでも研究を続けたいと意地を張り続けた。ただ愚かだった。自分の経歴に中退の文字がつくのが嫌だった。

指導教授におんぶにだっこで、なんとか研究テーマを決め、精神安定剤を飲んで正気を保ちながら、フィールドワークに出ていた。とにかく必死だった。

その時の処方箋は、パロセキチン10㎎、ロラゼパム0.5mg、エチゾラム0.25mg、ロラメット0.1mg、クエチアピン12.5mg、リボトリール1mg.
このころから日中の眠気がひどくて、ホームで電車を待つ間ですら眠気に耐えられず、うずくまって待っていた。ハッと目が覚めて、落ちそうになるというかなり危ないことを繰り返していた。良く死ななかったものだ。

大学院にどうしても行きたかったのは、研究者になるのが高校からの夢だったからだった。高校時代、科学部でひたすら研究に打ち込んでいた。研究が楽しくてたまらなかった。でももう、このころからその気持ちは死にかけていた。

効く薬が見つからず、ひたすら薬の量を増やしたり、種類を変えたりしていた。ケータイやパソコンに依存し、睡眠薬で眠れないと医師に訴えるくせに、夜更かしを繰り返していた。みんなが寝静まった、深夜が唯一落ち着ける時間だった。薬でごまかしながら、日々をやり過ごしていた。


修士2年~休学


就職活動という二つ目の試練に遭遇する。研究者への道は完全に諦め、普通に会社員になろうと考えていた。植物(一応専門だった)の良さをより多くの人に知ってもらえるような仕事がしたいという、かなり安直な考えで、園芸業界や、教育業界に興味を持ち(理科の教員免許を持っていた)、応募しては落ちまくっていた。当たり前である。

そのとき流行していたマッチャーというOB訪問アプリを使っていた。出会ったとある社会人の方の言葉が忘れられない。一通り、私が志望動機を熱心にぶちまけた後、こう言い放たれたのが忘れられないのだ。「一般の人、植物のことなんてどうでもいいよ。」

ショックだった。自分の好きなものが否定されたことだけではない。一番ショックだったのは、何一つ言い返す言葉がでてこなかったことだった。なんにも言い返せなかった。うすうす自分でも分かっていたのかもしれない。その後も、さんざんコテンパンに言い負かされ、私の心は完全に折れてしまった。耐えきれなくて、泣きながら「あなたと話すのつらいので、もう電話を切っていいですか?」と言った気がする。逃げるな的なことを言われ、最後までこちらから電話を切ることはできなかった。つくづく愚かである。今思えば、失礼でもすぐ電話を切るべきだった。心が完全に壊れた瞬間だった。

結局、知り合いの紹介でとある園芸関係の会社に内定をもらった。あまり納得してはいなかったが、もう疲れ果てていた。
お世話になっている先輩と食事中に、涙をこぼしながら食べていることを指摘され、休学を勧められた。医者やカウンセラーでない人から自分の状態の”異常さ”を指摘されるのははじめてだった。ようやく休学を決意した。


休学中


修士2年の冬、適応障害の診断書を出してもらい、休学をする。ひたすら、寝て起きるを繰り返し、相変わらず夜更かし癖は治らなかった。無気力で、希死念慮がひどかった。誰かに一思いに殺してほしかった。当時フルタイムで働いていた母は、年頃の娘が家でだらだらしていることに対して、よほど腹が立ったのだろう。毎日のように、何もしないで寝ているなら家事ぐらいして!と怒られた。家事をするのは死んでも嫌だった。家に居場所がなかった。それならば、とアルバイトを始めた。家にいない時間を増やしたかったからだ。初めのうちは楽しかった。そのうちだんだん正気を取り繕うのが苦痛になっていったのだが、バイトを始めてすぐの私はそんなことは思いもよらないのだ。


復学そして就職まで 


翌年の春、復学する。今思えば全く治っていなかったが、そのとき休学期間を延長するという選択肢は自分の中になかった。何か合理的な決断をできる精神状態ではなかった。

学生相談室のカウンセラーさんの勧めで、認知行動療法を受ける。これがとても効果的だった。ものすごく小さなステップから、少しずつ少しずつ、論文を執筆作業を進めていく。同時に、達成したときに自分の気持ちがどう変化したかを記録していく。(はじめは、朝起きる、それができたら次は顔を洗う、それができたら、机に座ってみるといった順に)これがうまくいき、メンタル最悪の状態でもなんとか修士論文を書き上げる。他人の修士論文と比較して1/4ぐらいの、笑っちゃうくらいぺらっぺらの論文だったけど、修士号がもらえた。今思えばお情けだったのだろう。

そんな論文を書くのがやっとっという状態だったので、就活など手も付けていなかった。夏ごろから、重い腰を上げ始め、10月ごろになんとかとある会社に内定をもらう。現在働いている会社である。それからなんやかんや、粉雪の降る縁もゆかりもない田舎で設計の仕事をしている。そこそこ精神状態は安定している。

振り返ってみて、まとめ

こうして振り返ってみると、ことごとく人生の選択が裏目に出ていて、どの選択肢からやり直したらよかったのか、自分でも良く分からない。大学院に進学したことか?研究室を選択したところか?そもそもその大学に進学したことか?高校で研究に出会わなければよかった?そもそも生き物や植物なんて好きにならなければよかった?もっとお金になるものに打ち込むべきだったか?

私は教訓を与えるような立場の人間ではないが、一つだけこれは正しいんじゃないかと思うことは、人生においてこうしなければいけない、ということはなにもないということだ。何かに縛られていたからこそ、私は自分を苦しめる選択ばかりしていた気がする。周囲のことなんか気にせず、研究室を途中で変えてもよかったし、大学院進学を辞退してもよかったし、休学を延長してもよかったのだ。「植物なんてどうでもいい」と言われたって、それでも植物の良さを世の中に知ってもらえる仕事に、こだわってもよかった。先輩に嫌われようが、教授に否定されようが、自分の好きなように研究をしてよかったのだ。たとえそれが、優れていなかったとしても、せめて研究している時間が自分にとって幸せだったらそれでよかったのだ。

もっと好きなように生きればよかった。と、後悔している。きっと研究者にはなれなかっただろうが、(学術的に優れている研究とやっていって楽しい研究はやっぱり違うし、そもそも本気で研究者になるための努力が私には足りていなかった)それでも、もっと幸福な大学生活を送れていただろう。

せめてこれから何か選択をするときは、省みるようにしたい。その選択は誰のためか?何かにとらわれていないか?。バイアスのかかった選択をしていないか?と。

ここまで読んでくださってありがとうございます。
私は何かを成し遂げた人間でもなく、特別な能力がある人間でもありませんが、反面教師にでもしてくだされば、と思います。
質問などあれば、ご遠慮なくコメントください。

給湯(きゅうとう)

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