なぜイエス・キリストは十字架を受け入れたのか?
神のひとり子イエスからみた神様の愛とは如何なるものか
ルカによる福音書 15:4ー
「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。
その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、
いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。
そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、
『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。
よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、
悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
親の心は、
元気な子供にはそれ自体で安心できますが、
重病な子が一人でもいれば、その事の心配で全身が覆われます。
10人の子供の一人だけ病気になったと言って、
10%の悲しみで終わることはありません。
90%の喜びを維持できる訳ではありません。
親の心はあまりにも繊細で傷つきやすいのです。
わが子一人の苦しみは、親の全身の苦しみとなります。
これが人類の親である神様の心情であるとイエスは言われています。
ヨハネによる福音書 3:16ー
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、
御子によって、この世が救われるためである。
ここにイエスがこの世に遣わされた目的が明確に書かれています。
神様はある特定の人だけの親ではなく、人類全体の親です。
ですからかわいいひとり子イエスだけを愛された神様ではなく、
人類全体を愛され、その愛する人類を救うためにイエスを遣わされたのでした。
しかし、それは同時に、愛するひとり子イエスを十字架にかけてしまう危険性を承知の上での決断でした。
そのような神様の究極の愛をよくよくご存知であったイエスは、その愛を受け止め、神様の願い通りに人類を愛し、自ら犠牲の道を感謝で行かれたのでした。
私たちはそのようなイエスの愛に感謝をして、今の時代を生きていかなければならないと思います。
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