新事実!イエスは死ぬために来たのではない
イエスが来られた理由とは?
世界のクリスチャンにとって
イエスは死ぬために来られたとなっています。
クリスチャンは
イエスが十字架にかかることそのものにこそ大きな意味があると
今でも固く信じています。
弟子の裏切りがなければ、
イエスは、霊界に対する勝利、地上天使に対する勝利を獲得できたはずでした。
もしそうなっていれば、イエスは決して十字架で殺されることなどありませんでした。
イエスが殺されたのは、「世を惑わす悪霊に憑かれたとんでもない男」と誤
解されたからでした。
イエスを、待ちに待ったメシヤと認めていたら、一体誰がイエスを殺したで
しょうか。
イエスはどこまでも生きてなすべき使命があったのです。
世界の全てのクリスチャンは、イエスは十字架で死んでこそ人類を救うこと
ができると解釈しています。
死なないイエスなど全く想像することさえできません。
イエスの十字架こそ救いの道であると片方では主張しながら、
もう一方では、
なにゆえに人間は強情さをもってイエスを十字架に追いやったのかと非難しています。
一体、イエスは十字架で死ぬべきだったのでしょうか、
死んではいけなかったのでしょうか。
問題は、イエスが登場されても、
イエスを受け入れるかどうかは、どこまでも人間の責任に委ねられていたという事実です。
人間がイエスを受け入れていれば、イザヤ書9章6節が成就し、
人間が反逆すれば、イザヤ書53章の悲劇が成就することになっていました。
イザヤ書 9:6-
ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。
まつりごとはその肩にあり、その名は、
「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、
ダビデの位に座して、その国を治め、
今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。
万軍の主の熱心がこれをなされるのである。
イザヤ書 53:1-
だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。
ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
彼は暴虐なさばきによって取り去られた。
その代の人のうち、だれが思ったであろうか、
彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、
その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。
人類の反逆によって理想的な預言は成就されず、悲劇の預言が成就しました。
イエスは決して十字架で死ぬべきではありませんでした。
十字架で殺されたことは、イエスの失敗を意味しています。
イエスが成功したことを敢えて上げるなら、復活できたことと言わざるを得ません。
エデンの園で、悪魔はアダムとエバを誘惑しました。
エバとアダムは、「取って食べれば神のようになれる」と信じました。
この時、アダムとエバの心は既に悪魔の侵入を許していました。
次にエバとアダムは肉体的に不倫の関係を結んでしまいました。
身体まで悪魔の侵入を許したことになります。
心で侵入されたことだけでも悲劇ですが、それでも肉体まで奪われていなけ
れば回復する道は容易だったはずでした。
結果として、アダムとエバは心と肉体の両面に渡って悪魔の侵入を認めたことになりました。
神様は、人類を救うべく第二のアダムと言えるイエスを遣わされました。
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