フル・ムーン、Honey〜猫と僕の日々|#短篇小説
Chapter6.
フル・ムーン、Honey
ここで一旦、モンが行方不明になる前の話をしたい。
モンと僕は、恋人になってから、蜜月期間を味わっていた。
猫として存在しても愛おしいのだ。人間に変身した時には狂おしいほどの想いが溢れてきた。
―――僕も、何かの魔法にかかっていたのかもしれない。
毎晩のようにふたりでシャワーを浴び、浴室から出たら笑い声をたてて、お互いの身体を拭きあった。そして、生まれたままの姿でベッドにダイブした。
あるとき、愛しあったあと、僕は両手を上げて頭の下で組み、隣りで小さく身体を曲げて横たわっているモンに尋ねた。
「―――モン。何処か、行きたいところがあるかい?」
「ん・・・」モンはまだ、余韻に浸っているようだった。くぐもった声だったが、ゆっくり顔を上げた。
「・・・行きたいところ・・・?」
「そう。この家か、その周辺しか、知らないだろう?」
僕とモンの目が合った。モンは仰向けになった。
「・・・そうね・・・。
海を、見てみたいわ。波が寄せては返す、なんて不思議なの。どんな感じか知りたい」
「海か・・・」
それこそ、蜜月旅行のつもりだった。モンとは、人間同士の契りを交わせない。なら、形だけでも結婚めいたことをしたいと思った。
「じゃあ今度のゴールデンウイークに、レンタカーを1台借りるよ。
海の近くのコテージに泊まろう。
朝から晩まで、好きなだけ海が見られるよ・・・」
僕が言うのを聞きながら、モンは嬉しそうににっこり微笑んだ。そしてくすくす笑いながら、恥ずかしそうにシーツを顔まで引き上げ、小さな声で言った。
「・・・ヒロキ、ありがとう・・・」
旅行の日まで、モンは「海」について一生懸命学ぼうとしていた。
僕のDVDの棚を調べて、
「ヒロキ。海が分かる映画はない?」と訊いた。
「そうだな・・・」
パソコンに向かっていた僕は、椅子をリビングに向けて腕組みをした。
「言われてみたら、海が出てくる映画って、案外少ないかな?
―――あ、『グラン・ブルー』とか」
「どんな映画?」モンは棚を見ていた。
「潜水記録を持つ主人公が、親友や彼女よりイルカのいる海を選んで、命を捧げる映画だよ」
―――言って、あ、しまった、と思った。モンは僕の表情を見て、何かを感じたようだったが、何も言わずまた棚に視線を移した。
何が「しまった」なのか上手く言えない。―――言えないのだが、頭の中に、しばらく白いイルカの映像が消えなかった。数頭が身をくねらせて、深い海の間を泳いでいる・・・それは、人間界ではなく、死の世界へ誘うダンスのような遊泳だった。
モンが僕を死の世界に誘うなんてあり得ない。でも、もしそんなことになれば・・・今の僕ならば、モンと共に死ねるかもしれない。
モンとの旅行当日。僕は荷物とモンの入ったケージを持って、レンタカーショップへ車を借りに行った。
そして荷物を後部座席に置き、ケージを助手席に配置して出発した。
海岸線を数時間走って、島へ渡る連絡橋を通過した。
そこは、僕が学生時代に、何度も部活で合宿した素朴な島、釣りや海水浴で人気のある島だった。全然知らない場所ではなく、自分のヒストリーを感じる場所へ、モンを連れて行きたかった。
島に着いてから、左に海を眺めて、何度も曲がりながらコテージのある目的地へ向かった。
―――
コテージはウッディーなつくりで、豪華ではなかったが、リゾートの気分を高めてくれた。微かにヒノキのような香りがした。
部屋に入ったので、ケージからモンを解放した。モンはひと声にゃあ、と鳴いたあと、しっぽを立てていそいそと中を探索していたが、洗面スペースからつながる浴室の前で、ドアを前足で引っ掻いて、もう一度にゃあ、と鳴いた。
「―――もう、シャワーを浴びるのか、モン?」
近付いた僕の足に、モンは頭を擦りつけた。
モンは乾くたび何度もシャワーを浴びて、ずっと人間の姿で過ごした。
日暮れ近くなり、モンはバルコニーに立って、柔らかな黒髪を靡かせつつ、飽きずに海を見ていた。
僕はモンの背後に行って、後ろから抱き締めた。
「―――夜になったら、人がいなくなるから、砂浜まで行こう」
僕が言うと、聞いたか聞かずか、モンはバルコニーの柵に両手を伸ばして手を置いたまま、
「風が気持ち良いわね・・・
潮の匂いがする。
空も広いし、来て良かった・・・」とつぶやいた。
晴れていたので、その日の夜空は満天の星が煌めいていた。空気は心地良く冷やされて、スパークリングワインを飲んだあとのふたりには、最高のコンディションだった。
月までも、お誂え向きの満月だった。神様が、僕たちのためにこの夜を用意してくれたみたいだ。
この日に合わせて、僕が選んで買ってきた生成り色のキャミソールワンピースを、モンは着ていた。僕は麻の白いシャツに、履き慣れたジーンズだった。
白が基調の服には、記念すべき僕たちの旅行の祝福の意味を託した。
砂浜に足を取られるので、ふたりで手をつないで、慎重に波打ち際まで歩いた。あちらこちらに、ハマナスの花が少し早く咲いた様子があった。
海はたっぷりと満ちていて、絶えることなくざざ、ざざと波音を繰り返し奏でていた。
―――永遠に変わらない地球の営み。
この営みの中で、モンと僕の不思議な関係は、どんな位置づけになっているのだろう?
「ヒロキ・・・」
「―――うん?」
「私ね、感謝してるの」
「・・・・・」
「赤ちゃんの頃から、ここまで育ててくれて。拾わずに置いて行っても良かったのに・・・
こんなヘンシンする猫、家から追い出しても良かったのに、ね。
私・・・いつまで、今の姿でいられるか、分からないし。それでも、優しくしてくれて、一緒にいてくれて、ありがとう」
「・・・・・」
僕は心の底から出たモンの言葉に胸を打たれ、何も言えなかった。
ただ、モンの手を強く握った。
モンはそんな僕を見て、慈しむように微笑んだ。立ち止まって、僕の両手をそっと引き寄せた。
「ヒロキ。もし、私が居なくなっても、ずっと、忘れないでね。
また、生まれ変わる。何度でも・・・」
モンの鳶色の瞳は、月と星の影を映して、少し潤んだ涙の上できらきらと光っていた。
【 continue 】
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