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エッセイ:知とは何のために必要なのか?

友人で、60歳を過ぎて某有名最難関私立大学受験にチャレンジしている女性がいる。その事実だけでも尊敬なのだが、去年チャレンジして不合格だったからと、現在再チャレンジ中だ。合格するまで毎年やるという。すごい。
人として何歳になっても、チャレンジできるものがあるっていうのは素敵だ。別に難しいチャレンジでなくてもいい。これに挑戦したいからやるっ!という意気込みが大事。

さて、くだんの彼女が受けた「小論文」が、すごく難しかったとボヤいていた。年を取ると、まず集中するっていうのがしんどくなる。で、これがわからないとなったとき、頭の中がその「?」となったところでループしてしまい、先へ進めない。そのままの状態でタイムアウトとなってしまったらしい。
この状況、現役10代受験生だったらまずやらないよね。なんでもいいから1行でもいいから書いとけっていうの、鉄則だと思うけど、年を取ると痛いほどわかっていても、どうしてもできないっていうのがある。で、わかっているのにできなかったことを、本番が終わってからめちゃくちゃ後悔するのだ。なんであの時・・・と。
私なんかは、この「わかってるのに脱却できない無限ループ」が恐ろしすぎて、そんなチャレンジできないと尻込みするタイプだ。その殻を破りたいと考える彼女は本当に素晴らしい。

話がそれた。くだんの小論文の問いについて。提示されたいくつかの資料に言及して「学びにおいて重要なものは何か」を論じ、さらに、社会おける「知」として最も重要な要素や役割とは何で、それが、どのように生かされているか(生かされていないか)を論じるというものだったのだそうな。

SNS上でのとある50代以上の人たちが集まるコミュニティでの投稿だったのだけど、そこから広がる「社会における『知』とは何か」論。
「社会に還元するために修得する知」
「異分野における『知』の融合」
「専門性の深堀りではない知」
「様々な分野からの視点の融合によって課題解決していくための知」

答えるのは、酸いも甘いも知る世代だ。こういうことが割とすぐに出てくるのは、年を取っているからだ。年齢を重ねるってだけで、社会における「知」になってるんじゃないかとすら思う。
しかし、これを18歳とか19歳とかの年頃の若者が、論文に落とし込んで答えるのかー。最適解を書ける若者が集まって学ぶ大学があるのかー。嫌味だしうんざりだな。友達になれるだろうか、と考えると、こういうことをすらすらと論文に書ける10代より、「うっせー、バーロー、知るかそんなこと!」と叫んで受験会場を飛び出る浪人生の方が友達になりたい。

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