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黃熙『強尼·凱克』(台湾、2017)(邦題『台北暮色』)

 以前、クローズドなSNSに書いた感想を発掘したので転載。上田の古い映画館で観たなぁ。

【ネタバレあります】


 三人の男女を中心に、台北を舞台に撮られた映画。

 映画の冒頭、男(フォン)の乗る車が路上でエンストをするところから始まる。彼には約束があり、地下鉄で移動することになる。地下鉄には箱を持った女性シューが乗っている。彼女に、その箱には鳥が入っているだろうと語りかけるリーという少年がいる。三人は同じ駅で降りる。リーはシューの後ろを歩いているが、やがて一軒の集合住宅の戸をリーが明けると、二人は中に入ろうとする。そこでフォンがシューに道を尋ね、シューは道を教える。リーとシューは同じ集合住宅の別の階に暮らしているご近所さんで、リーは母親との二人暮らしで、シューは一人暮らしで鳥を飼っている。

 上記はいささか時間をかけて映し出される冒頭十数分の説明である。しかし、直接的な説明はない。ただ、映像からそれが読み取れるというだけだ。三人の関係は終始説明されない。フォンとリーは知り合いらしいのだが、どういう知り合いかはよくわからない。断片的なエピソード・シーンの映像が映し出され、それらがどのように結びつくのか、つまり物語と、それによってこれらのシーンがどのように意味付けられるのかが、不明なまま、台北が流れていく。

 物語や意味を探している限り、それらはいささか退屈ですらある。意味を欠いた、あるいは意味の到来を待つ間の映像の頼りなさ、もしくは過剰。しかし、他方で、蹂躙される水たまりの波紋や、鳥たちの予測不可能な動き、そしてシュー役のリマ・ジタンの美しい表情・身体には引き付けられる。

 終盤、愛人(かもしれないが、関係性は説明がなく不明)と喧嘩をしたシューが、路上に駐車されていたフォンの車の助手席に乗り込んでからの一連の流れは、ある程度物語的ではある。二人でフォンの知人宅の老人の誕生日会に行き、そこで親子の確執を目にし、コンビニの前で酒を飲みながらお互いの人生を語るシーン。ここにきて、初めてフォンとシューの来歴が明らかになる。そして、二人で橋を駆ける場面の疾走感と、座り込んで笑う二人には引き付けられる。しかし、それがこの映画の物語あるいは意味の到来、すなわち恋愛的なものの到来による、意味の不在ないしは欠乏の回復への期待だとするならば、結局それは繰り延べられるだろう。

 映画はシューを乗せたフォンの車が、再びエンストする場面で終わるのだが、その一つ前のシーンで、家の柵にペンキを塗るリーが、フォンに「飛んでいる鳥は止まっているのか?」と尋ねる。瞬間には止まっているだろうというフォンに、では次の瞬間は? とリーは再度問う。停止と停止しかないのであれば、停止は永遠と同じ状態を反復するだけだろう。停止と停止の間にあるもの、運動と時間が、ある停止と次の停止の間に差異をもたらす。冒頭のエンストとラストのエンストの間で、フォンの車には確かに変化が生じているように。

 この停止と停止の反復と差異は、運動と時間へと開かれる。ただし、それは物語的な、意味的な、すべての映像の統合ではなく、むしろそれらが統合不可能な断片であることを肯定するだけのように思われる。停止と次の停止の間に必然性はなく、その間に起こった出来事たちは、むしろその反復の発見によって、はじめて見出される。その出来事たち=映像たちはすべてではない。ただし、全体に対して欠如しているという意味ではなく、世界あるいは全体とは、二つの停止=切断の間において生起するものであり、欠如という引き算ではなく、むしろすべてが生成として足し算的なものとして初めて再来するのではないだろうか。

 だから、エンディングにおいて、私の目の前には、映画前半にいまだつながりを欠いたままの三人がインコを探すシーンにおける、カラフルな屋根の色彩そのものが、ただしそれは物語的意味においては宙づりのままであるものが、到来して、そのまま頭を離れずにいる。

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