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待たせてごめんね


改札を通り抜けるとすぐに海が目に入った。流れは穏やかで、船もゆっくりと行き交う。向かいの島は泳いでも渡れそうなくらいに近い。工場のクレーンがぐるりと旋回しているのがはっきり見えた。

歩く間、海はずっと視界から消えることはない。映画館が最近できた。駅前の便利な所にあり人の出入りも多い。
横目に見ながら急いで歩く。海沿いの道の突き当たりに波止場がある。
約束の時間に間に合ったぼくはベンチに座り乱れた息を整えた。しぶきが飛んできたので見下ろすと、太陽がギラギラと揺れて砕けていた。

本を開く。待ち人が来るまでの時間つぶしなのだが今日はとても天気がよく、眩しくなりすぐに閉じてしまった。



最初に声をかけたのは彼女だった。

「これ落としましたよ」ちょっと遠慮がちな小さい声。振り向くと彼女がいて。手に持っていたのは僕の本だった。

「ありがとう」そう言う僕に本を渡しながら、「面白いですか。これ」と小さな声で聞く。

「どうでしょう。読んでみますか」本をうけとり小さな声でありがとうと言う彼女の長い黒髪がさらさらと風に揺れて一瞬目を奪われた。

落とし物がきっかけだなんて、なんだか安い小説にでも出てきそうな話で、今でも本当に偶然だったのだろうかと思うことがある。でもそんなことはもうどうだっていい。
彼女との出会いや穏やかなこの町の空気が合っていたのだろう。心の中の澱も少しずつなくなっていった。

ぼくらは海が見えるこの場所でたくさんたくさん話をした。話題は尽きることはなく、時間はいつもあっという間に過ぎていく。

彼女はいつも時間通りにくることはないのだけど気にはならない。本を読みながらのんびりと待つ。そのうちやってきてすまなさそうにこう言う「ごめんね。待った?」本当は結構長い時間待っているのだけど、いつも「今来たばかり」と答えることにしている。


これからもこの町で生きていくことにした。
もうすぐ一人でなくなるから。
だから今日は彼女に大事な話をしようと決めた。うまく言えるだろうか。

それにしても今日は特に遅い。服を選ぶのに時間がかかっているのだろうか。だけど時間はある。いつものようにゆっくりと待つことにする。さっき閉じたばかりの本のページをめくる。
途端に眠くなってきた。最近仕事が忙しかったから、こんなにゆっくりするのは久しぶりだ。僕はゆっくりと目をつぶった。


遠くから声が聞こえてくる。少し眠ってしまったようだ。
僕は目をあけて彼女を探した。なぜだろう、随分長い間待っていたような気がして、その声もとても懐かしく感じる。

声のする方を見ると、彼女が笑いながらこちらに向かって歩いてくる。そしていつものようにこう言う。「ごめんね。待った?」 

僕はいつもと同じようににっこりと笑う。そして用意していた言葉を続けた。
「今来たばかり。あのね、今日はとても大事な話があるんだ。聞いてくれる?」
「もちろんよ。でも私も話したいことがあるの。聞いてくれる?」



「本当に信じているの?」 
「信じるも何も、遺言みたいなものだから。できれば叶えてあげたいとは思う」
改札を通り抜けた二人は、随分前に閉館した古い映画館を横目に海沿いの道を歩く。やがて突き当たりの波止場にたどり着いた。

「姉ちゃん、初めて来たけどここはなんだか懐かしい気がするね」  
「お父さんがここで亡くなったとき、私たちは母さんのおなかのなかにいたからね。不思議ではないかも」

「あそこじゃない?」弟が指差す方向に古いベンチが見える。
『お父さんはまだあそこで私を待っているから。お父さんは自分が亡くなったことに気が付いてないの』
「母さん、よく言ってた」姉がベンチに近づきながら言う。
「姉ちゃん覚えている?お父さん、ベンチに座ったまま亡くなっていたって。目をつぶってまるでちょっと居眠りをしているみたいだったって」
「結婚指輪を手に持ったままね」

「お父さんに会いに行きたかったんだろうね。母さん」
「私たちがいることも伝えたかったのよ。きっと」

姉弟はベンチの上に母親の黒髪と父の本をそっと隣同士に並べる。
一瞬黒髪が風に揺れた。
                            終わり

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