見出し画像

夢辿想起(むてんそうき)

 1

 真っ暗の視界の中、確かに感じるのは自分の意識だけだった。
 肌を包み込む冷たい感覚。無音の静寂があたりを包み込む。
 もう何度も見てきた光景を僕は今日も目の当たりにする。

 明晰夢。『自分は夢の中にいる』と自覚できる夢を指すらしい。
 僕はある日を境に寝るたびに明晰夢を見る。それも内容がいつも同じ明晰夢だ。
 閑散とした暗闇の中、まるで宇宙にいるかのように体が浮ついている。
 
 この暗闇が一時的に続く。最初のうちは酷く困惑し、恐怖していたが、最近は時間に任せるように体を脱力させ、宙に浮いていた。
 何をしても暗闇からは抜け出せない。そんな諦めが僕をこの行動へと導いた。

 やがて時が経つと、視界の上の方から一筋の手が見え始める。きめ細やかな美しい白い肌。手のひらをこちらへ向け、まるで「捕まって!」とでも言うかのように手招きを僕に見せる。不意に見える爪は等しく綺麗に切られていた。

 僕は目の前に映る手に魅了され、体を動かす。無意識による反応で意識を働かせても止めることはできない。まるで操り人形になったかのようにこの時の僕は自分が自分でなくなっていた。

 差し伸べられる手を掴もうとする。
 刹那、差し伸べられた手は急激に遠ざかっていく。僕は空を切るように手を振るった。手は徐々に小さくなっていき、やがて彼方へと消え去っていく。そこで背後から白色の光に当てられる。

 見る見るうちに黒色が白色へと変わっていく。
 全てが白色となった世界。そこで僕の意識はゆっくりと消え去っていった。

 ****
 
 目蓋を開くと視界は薄白く広がっていた。先ほどの真っ白な世界とは違い、触ったらざらざらしそうな触感が漂う模様を示している。
 視界に見えるのは天井だ。詳細を言えば、一枚のフィルターを通して見えている天井だ。

「目が覚めたみたいね。おはよう、鳴海くん。気分はどう?」

 ぼやけた意識の中、女性の声が聞こえる。おっとりとしつつも、はっきりとした言葉で聞いていて心地が良い。僕はゆっくりと体を起こすと頭につけられていた装置を取った。

「おはよう。神薙先生」

 目の前にいる彼女に挨拶する。黒色の髪を肩までおろしている。キリッとした目つきに黄色の瞳が輝いている。外科医らしく白衣を綺麗に着飾っていた。

「今日は早くから用意しているんだね」
「もうすぐ勤務が始まるからね」

 先生の言葉につられ、時計を見る。時刻はまもなく9時を指そうとしていた。

「やばっ! 学校!」
 
 僕は思わず、ベッドから飛び上がる。だが、すぐそこでハッと気づいた。

「そういえば、今日は休みだった」
「ふふ。早とちりは禁物よ。それに今日は休みでもカウンセリングがあるから用意はしておいてね。10時から始める予定よ」
「はーい」

 僕の返事を聞くと先生は部屋を出ていく。部屋は個室となっており、ベッドは4つ。今は僕だけが使っている。ここはあくまで寝るだけの場所であり、着替えや洗面用具など簡易なものしかない。

 カウンセリングまで特にやることはないため、僕はゆっくりと支度を始めることとした。

 ****

『夢辿想起(むてんそうき)』システム。先ほど僕がつけていた装置の名前だ。ヘルメットの内部には脳の内部を観察できるように施されており、眠りやすいように目には遮断機がついている。

 名前の通り、夢を辿り記憶を想起させるシステムである。
 脳内に溜まった過去の記憶や直近の記憶が結びつき、それらが睡眠時に処理され、ストーリーとなって映像化されたものを『夢』として僕らは見ている。

 夢は無数の記憶の組み合わせで作られている。つまりは、本人が見る夢を解析することでその人が記憶しているものを解明することができるのだ。
 これはとある人々に大いに役に立つ。

 頭を強打するなどで脳に大きな損傷を起こし、記憶の一部を失ってしまった人だ。いわゆる記憶障害を発症した人だ。
 僕もまたその一人である。小学生の頃にキャンプで川に流され、一ヶ月間意識不明の重体に陥っていた。幸い命は助かったが、その際に記憶を失った。

 とは言っても、失ったのはエピソード記憶であり、手続き記憶に関しては問題なかった。そのため、日々の生活で苦労することはない。
 しかし、僕が夢辿想起システムを使うことになったのは、失ったエピソード記憶が僕に取っては掛け替えのないものだと感じたからだ。

 理由はわからない。でも、とても大切な何かを僕は忘れてしまったと思った。

「では、次これ」

 神薙先生はスクリーンに画像を映し出す。画像はどんどん切り替わり、僕はただ出てくる画像をボーッと見つめる。
 夢辿想起システムにより夢を見ていた時の僕の脳の働きと画像を見た際の僕の脳の働きを照らし合わせる。

 その二つが同じ働きを見せた時、僕の記憶に画像のものが大きく関わっていることになるのだ。とはいえ、夢には無数の記憶が組み合わさっている。画像が重なったとしても、昨日たまたま見たものが記憶されており、それを見ている可能性だってありうる。

「見せた100枚の画像の中で夢で見た内容と重なったのは掲示した5枚の画像よ。この中に何かヒントとなるものは思い出せるかしら」

 先生は画像に5枚の画像を掲示する。川、石、車、靴、帽子。
 画像を見て、必死に思考を巡らす。だが、引っかかるものはない。川から何か導き出せないかと思ったが、そんなことはなかった。

「特には」
「了解」
「すみません」
「謝る必要はないわ。これはとても地道な作業なのだから」

 普段から無数の事柄に対して記憶処理が働く。その中から、自分の目当ての記憶、それも失った記憶を掘り起こさなければならないのだ。何を見つけたらいいのかわからない『宝探し』をやっているのと何ら変わらない。これほどまでに難易度の高いことがあろうか。

 無事見つけられるか、僕が仕方なく諦めるか、選択肢は二つしかない。
 もうかれこれ一年以上、神薙先生にはお世話になっている。僕だけじゃない。先生のためにも絶対に記憶を掘り起こしたい。それが今の僕の願いだ。

「じゃあ、今日もこれをつけて街を歩いてね」

 そう言って、先生は帽子を僕へとくれた。夢辿想起システムと同じように帽子の中には脳の内部を解析する装置が組み込まれている。
 何も見つけるのは画像から出なくてもいい。日常生活で見たものから探ることだってできる。

「ありがとう、先生」

 僕は帽子を受け取るとすぐに頭にかぶる。最初は装置の違和感にかられたが、一年間毎日かぶっていたらすっかり慣れてしまった。むしろこれがないと逆に違和感に駆られるほどだ。

 そして、今日もまた僕はこの帽子と一緒に過ごすこととなった。

 2

 病院を出た僕は河川敷を散歩していた。
 ずっと家に居続けるよりも外に出て、色々なものを見た方が記憶を呼び起こすためのヒントを掴みやすいのだ。

 強い日差しが地面を照りつける。
 ほんの少し前まで薄い上着が欲しかった程度の暑さだったが、すっかり夏本番となっていた。

 帽子があって良かったと思いつつも、頭を押し付ける装置によって、頭皮がむしゃくしゃする。しかし、装置を外すことはできない。せっかくの記憶を呼び起こすための散歩なのに、暑さで取ってしまっては本末転倒なのだから。

 河川敷は普段からよく散歩する場所だ。
 やはり川の近くにあるもの、川の近くで起こることが僕が忘れていた記憶を呼び起こす一番のヒントになるとそう思った。

 とはいえ、一年も川の近くを歩き続けて何も思い出せていないので、きっとそんなことはないのだろう。今は「思い出せたらいいな」の願望程度に川の近くを歩いている。

 河川敷では多くの家族の姿が見られた。フリスビーを使って愛犬と遊ぶもの。親と子でキャッチボールを楽しむもの。川に対して、石を投げて水切りをしているものと多種多様だ。

 子供たちは元気よく遊んでいる。それにつられ、父や母も笑顔になっていた。たまに父親が調子に乗ってボールを川に落とすハプニングも起きていた。
 僕は彼らの様子を楽しみながら散歩する。

 散歩をしているとある人物が目に止まった。川にいる魚を釣ろうと竿を手に釣りを嗜んでいるカップルだ。竿を持っているのは男性で、女性の方は彼の姿を眺めながらも川の景色に目をやっていた。

 僕が気になったのは、女性の容姿だった。白色のワンピースを着飾り、サンダルを履き、頭には麦わら帽子をかぶっている。麦わら帽子にはひまわりの造花がつけられており、夏の季節を感じさせるものとなっていた。

 何が気になったのかは分からない。ただ、あの女性に対して自分が何かを思ったのは確かだ。ワンピースかサンダルか麦わら帽子か、彼女の容貌だという可能性もありうる。
 いつものパターンだ。何に引っかかったのかが分からないため、画像の時と同じく記憶を思い出す手がかりにはならない。

 女性をずっと眺めてるが、時間のみが経過していくだけで何も思い出すことはできなかった。このまま見続ければ、怪しい人がいると警察に通報されるかもしれない。それだけは避けたい。

 僕はため息をつき、散歩を再開しようと思った。
 その時、突発的に向かい風が吹いた。風の勢いは強く前に出そうとした足が止まる。

「キャーーー」

 すると、後ろから女性の叫び声が聞こえる。見ると彼女の被っていた麦わら帽子が空高く飛び上がっていた。麦わら帽子はまるでパラシュートを開いたかのようにふらふらと左右に揺れながら地面へと落ちていく。

 女性は必死に帽子を取ろうと歩くが、明らかに帽子は川へと落ちる位置にいた。
 その光景を見て、僕は目を見開いた。しっかりと麦わら帽子が川に落ちる様子を観察する。帽子は川に落ちると沈むことなくかぶる部分を下にして綺麗に浮かび上がっていた。

「わかった……」

 僕は誰に聞こえるわけでもない声で静かに呟いた。
 脳が疼くのを確かに感じた。僕が違和感に駆られたのは麦わら帽子だ。いや、それだけじゃない。

 いてもたってもいられなくなった僕は行こうとした方向とは逆方向に足先を切り替え、全速力で駆けていった。強い向かい風は強い追い風へと変わった。
 
 ****

「先生っ!」

 勢いよく扉を開けると先生を呼ぶ。先生は椅子に座りながら、口に電子タバコを口にくわえていた。

「どうしたの? そんなに焦って」

 先生の呆けた姿を見ながら僕は息を整える。夏場に全力で走ったことで体力の消耗が激しい。大量の汗が体から湧いてくるのが分かった。
 手を胸に当て、呼吸を整えるのに集中する。少しの間、沈黙が起こる。先生は特に何も言うことなく、僕を待ってくれた。

「先生、分かったかもしれないです。僕が失った記憶に関して」

 先生は眉をあげた。加えていた電子タバコがぽとんと地面に落ちる。本当のタバコじゃなくて良かったと安堵した。先生もそれは同じようで瞬間的にタバコを拾おうとして、手が止まる。

 それから何もなかったかのようにゆっくりしまうと僕の方へと目を向けた。

「本当なの?」
「はい。今からカウンセリングしていただいてもよろしいでしょうか」
「分かったわ。ここに座って」

 先生はそう言うと自分は席から立ち上がり、用意を始める。

「何を見て気がついたの?」

 用意しながらも先生は僕へと質問した。

「いつも通り川辺へ行っていたんですが、そこに白いワンピースを着た女性がいたんです。彼女は麦わら帽子を被っていて、それが風で飛ばされて川へと落ちたんです。その時にハッと自分の中で引っかかったように感じました」
「なるほど。麦わら帽子か。今日の画像で見せた帽子は鳴海くんが持っている帽子と同じキャップだったから感じはしたものの確信には至れなかったのね」

 先生は準備を終えると僕へと手を差し伸べる。帽子を貸して欲しいと言うことだろう。僕は手に持った帽子を先生へと渡した。帽子の中にある装置を取り出すと器具へとつける。スクリーンには二つの脳の動きを表す画像が出てきた。

 右側が僕が夢を見ている時の脳のメカニズム、左側が僕が散歩しているときに見た景色に対する脳のメカニズムを表したものだ。

「確かに一緒の働きをしている箇所がいくらか見て取れるわね」
「不思議ですね。麦わら帽子なんて夢に出てきた記憶はないのですけど」
「不思議なことはないわ。睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠と言うものがあって、どちらでも夢を見ているの。ただ、記憶に残るのはレム睡眠の時に見ていた夢のため、もし麦わら帽子がノンレム睡眠時に見ていたものであるならば、鳴海くんの記憶には残っていない」

「そう言うことだったんですね。なら、先生。川に飛び込む映像とかってあったりしますか?」
「川に飛び込む映像。ちょっと待っててね」

 先生はパソコンを操作し、ネットから僕が言った光景のある動画をあさり始める。

「あったわ。では、装置を被ってもらっていい?」
「はい」

 先ほど取り出した装置のみをはめ、先生が探してくれた動画を目にする。動画は何回も繰り返され、先生は僕が見ている間、しばらく脳の様子を観察していた。

「確かに。川に飛び込む際の脳の動きと同じ動きをしている箇所が寝ているときの脳の動きにも見当たるわ」
「やっぱり、そうだったんですね」

 あのきめ細やかな肌の持ち主は女性に違いない。麦わら帽子を被っていた女性。記憶を懸命に掘り起こし、思い出そうとする。ヒントとなるものはたくさんあるのに、何故思い出せないのだろうか。

「その様子だと、はっきりとは思い出せてはいないみたいね」
「ですね。どうしたものでしょう?」
「一度、ご両親に相談してみましょう。確か家族でキャンプをしている時に川に流されたんだよね?」

「はい」
「なら、麦わら帽子や女性に見覚えはないか聞いてみるのもありかもしれないわね」
「それもそうですね。一緒にいたはずですから何かしらのことは知っているかもしれないです。ありがとうございます、先生」
「どうってことないわ。ようやくゴールが見えてきたね」

 先生は僕にはにかんだ。先生の笑顔が見れて僕は心が躍るのが分かった。二年間がんばってきて良かったと思えた。
 僕はその日、家に帰り、父と母に今日の出来事を話すことにした。

 3

 翌日、僕は母に連れられ、車に乗った。
 家に帰り、母親に麦わら帽子を被った女性について尋ねてみた。僕の言葉を聞いた母は神妙な表情をすると「明日お出かけしよう」と一言だけ返し、それ以降は触れてくれなかった。

 移り移りする景色をボーッと眺める。車内にはポップな曲が流れている。高速道路に乗り、もう結構な距離を走っていた。画面に映ったマップを見ると隣接する県にポインターが映っている。一体どこまで行くのだろうか。

「お手洗いは大丈夫?」

 不意に隣にいる母親から声が聞こえてきた。もうすぐサービスエリアに到着するため聞いたのだろう。

「後どれくらいかかりそう?」
「30分くらいかな」
「なら我慢できると思う」

 僕の言葉を聞いた母はサービスエリアに入ることはせず、そのまま直線を走った。
 無言の静寂が再び訪れる。とはいえ、母と乗る時はいつもこんな感じなので、特に気にすることはなかった。

 10分ほど経過したところで高速道路を降り、一般道へと入る。降りた場所は全く知らない地域だった。記憶をなくしたキャンプ場とは距離がある地域だ。
 見たことない景色に魅了され、僕は遠くの方へと目をやった。知らない場所というのはなぜこうも心を踊らせてくれるのだろうか。

 眺めていると少し遠くの方に大きな建物があるのが見えた。車はその建物に吸い寄せられるようにどんどん距離を詰めていく。どうやら、あそこが目的地のようだ。マップを覗き、大きな建物の正体を探ることにした。

「病院……」

 小さくそう呟く。それが母に聞こえたかはわからないが、特に何も言わなかった。
 車は思った通り、建物の立つ駐車場へと入っていく。県の名前が入った病院。建物の大きさから分かる通り、県屈指の大きな病院のようだ。

 ここに一体何の用があるのだろうか。

 駐車場に車を止め、建物へと歩いていく。
 僕は久々に見る雰囲気に顔を右往左往させた。こことは違うが、川に流され意識を失った際は僕もこうした大きな病院のお世話になった。

 母はスマホを取り出すと何やらメッセージを打つ。
 それからすぐにバッグにしまい、エレベータの方へと歩いていった。僕はただただ母に着いていく。

 エレベーターに入ると8階のボタンを押す。8階の案内表を見ると、病室と記述されていた。エレベータの表示板に記載された数字は見る見るうちに上がっていく。やがて、8の数値を示し、ドアが開く。

 階に入ると目の前には一人の見知らぬ女性がいた。彼女は明らかに僕たちを見ており、母に向けて一礼をした。母もまた彼女に一礼をする。

「こんにちは」

 女性は僕の方を見ると、笑顔を見せて挨拶してくれた。
 僕は照れ臭く挨拶をした。最近は初対面の人に対して、ぎこちない挨拶をしてしまう。女性は僕の反応に嫌悪感を覚えることはなく、笑顔のままだった。

「こちらです」
 
 女性の案内の元、僕たちは歩き始める。病院の独特な匂いを感じる。館内には点滴を抱えたお年寄りや幼い子供の姿が見られる。そんな中を歩きながら僕たちは個室へと案内された。

 表札を見ると『美影 四葉様』と書かれていた。

 女性の方を覗くと僕に入るよう促す。僕は口の中の唾を飲み込むとゆっくりとドアを開けた。閑散とした空間に唯一聞こえるのは途切れ途切れに聞こえる甲高い機械音。手前には洗面台やトイレのある部屋があり、奥のほうにベッドが見える。

 足を前に出し、近づいていくとベッドで眠る少女の姿が見えてきた。
 僕は彼女を見た瞬間、瞳孔が開いていくのが分かった。綺麗に整えられた黒髪のロングヘア。白いきめ細やかな肌に小さな泣きボクロ。

 この少女を僕はどこかで見たことがある。多分、いやきっと、僕が探していた何かというのがこの少女なのだ。

「陽が記憶をなくした日、あなたはキャンプで川に流された四葉ちゃんを助けようとしたの」

 彼女に目をやっていると後ろから母の声が聞こえた。僕は母の方へは振り向かず、終始『四葉』と呼ばれた少女を見続けた。

「彼女は被っていた麦わら帽子を風で流され、川に落とした。それを取ろうと体を伸ばした時に足を滑らせ、川に落ちたの。その光景をいち早く目の当たりにした陽が彼女を助けようと川へと飛び込んだ。幸い、互いに命に別状はなかったけど、彼女だけ未だに意識を戻さない状態なの」

 そうだったのか。夢で見たあの光景は彼女の腕を掴もうとしたが、川の波に呑まれて取ることができなかった場面だったわけか。

「どうして教えてくれなかったの?」
「彼女はいつ意識が戻るか分からないの。もしかすると、永遠にこのままだってあり得る。そんな状態の彼女を陽に見せるのは流石に酷だと思ったの。陽が彼女の記憶を失くしてしまったのなら、いっそこのままの方が陽にとっては幸せじゃないのかと思って黙ってた」

「でも、じゃあ何で夢辿想起システムで僕が記憶を取り戻すことを許してくれたの。最初に彼女を見せてくれれば思い出せたかもしれなかったのに」
「そうね。ただ、本当は私も陽に思い出して欲しかったんだと思う。陽はキャンプ場で会った四葉ちゃんのことが気になっていたからね。二つの思いがあった末、陽が自分で思い出すことに託そうと思った。そうすれば、この状況を見ても受け入れてくれると思ったから」

 確かに何も知らないまま、これを見せられて思い出した場合、僕は耐えられたかといえば微妙なところだ。今は長年の末、思い出すことができたという歓喜が相まって、受け容れることができていた。

「陽くん。もう少し近くで四葉を見てあげて」

 僕の隣に来た女性が背中へ手を添える。僕は彼女に促され、少女のベッドの横にある椅子へと腰をかけた。改めて見ると、人形のように綺麗な顔をしている。僕が気になるのも仕方のないほど美人だった。

 白雪姫は王子様の口づけで目を覚ました。流石にそんなことはできない。
 今の僕にできるのは、『夢で掴めなかった彼女の手を掴むこと』くらいだろう。
 布団からはみ出した彼女の手をそっと握りしめる。彼女の体温は暖かく、それは彼女がまだ生きていることを示してくれるような暖かさだった。

 意識は戻らないかもしれない。でも、死なずに生きていてくれてよかった。
 彼女の手を強く握りしめる。君を思い出すことができたという強い思いが体に憑依したに違いない。

 すると、僕の思いに答えるかのように彼女もまた握り返した気がした。驚きのあまり開いた口が塞がらなかった。
 嘘じゃないよな。そんなことを思いながら彼女の顔に目を向ける。

「四葉!」「四葉ちゃん!」

 二人の母の声が聞こえる。それに対しても答えるように彼女はゆっくりとまぶたを開いた。呆けた表情を見せると僕の方へとゆっくり顔を向ける。
 僕は彼女の目をしっかりと凝視した。彼女は僕を見るとゆっくり口角をあげた。

「待ってたよ。鳴海くん」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?