『母、アンナ』暗殺されたジャーナリストの娘が語るアンナ・ポリトコフスカヤとそれからのロシア
アンナ・ポリトコフスカヤとは誰か?
熱心に読むわけではないけれども、その名を見るとつい本屋で手にとってしまう人物がいる。アンナ・ポリトコフスカヤ、主にチェチェン紛争での取材報道で知られるジャーナリストだ。
欧米では危険を顧みずチェチェンに出向き、真っ向からプーチン政権を批判するその行動を讃えられている。
現在ロシア国内で発行停止となっている新聞社ノーヴァヤ・ガゼータに所属し、2006年に殺害された。彼女が殺された日はウラジミール・プーチン大統領の誕生日だった。
本書は彼女の娘であるヴェーラが綴ったアンナ・ポリトコフスカヤの伝記でもあり、ウクライナ戦争が始まってから彼女がロシアを出るまでの記録をまとめた本である。
アンナ・ポリトコフスカヤの素顔
この本の著者はどこまでも冷静だ。ここまで有名な母を持つ苦労を隠しもせず、でも過剰に英雄視もせず美談まみれにもしない。あくまでも淡々とした語り口でアンナ・ポリトコフスカヤの人生を描いてみせる。
仕事の鬼で、厳格に正義を求めるあまりにそばにいる人をいたたまれなくさせると始まる下りが印象的だ。
家族らしい距離感だと想う。温かくてそれでいて、ちょっと鬱陶しいという思い。正義感に溢れる一方で、その理想を追うエネルギーゆえに実際には人をたじろがせてしまうであろう、アンナ・ポリトコフスカヤの素の性格が伺える。
家庭と仕事をどうやってバランスを取っていたのか、あるいは取れなかったのかが分かって興味深い。
しかし一番この本で印象に残るのは著者ヴェーラが語る彼女の育った環境だろう。幼い頃から家族の誰かが、あるいは一家全員の殺害予告や脅迫が来るのが日常だったというから凄まじい。
万が一のために、子どもたちに「大事な書類はここ」とか「お金はどこに隠してある」と伝えるアンナ・ポリトコフスカヤの回想にギョッとするどころか、あまりに異質すぎて理解が及ばない。
本書の中にある「わたしの国においては、自由は少数の人にしか許されない贅沢品なのだ。」という言葉が全てを語っている。
ウクライナ戦争とポリトコフスカヤ
この本は上記のようなアンナ・ポリトコフスカヤの伝記で成り立ってはおらず、約半分をヴェーラがウクライナ戦争後にロシアを出国するまでの記録にもなっている。
母、アンナと同じくジャーナリストであるヴェーラがロシアを脱出することになったのは娘のためである。
奇しくも祖母と同じ名前を持つ著者の娘はウクライナ戦争が始まってから、その姓名からイジメの対象となってしまう。加えて現在のロシアでは戦争反対のデモに参加するだけでも、社会的地位を失いかねない。
そんな危険の中で子どもの身の安全を守れるか?と考えて著者はロシアを脱出する。この結論に行き着くまでの息が詰まるような、読んでて息を潜めてしまう下りはもう圧巻。
ロシアに対して国際社会が下した判断を受け止め、現状をこうまとめている。
それでも読んでおく理由
日本ではアンナ・ポリトコフスカヤの本は3冊翻訳されている。全て絶版だから図書館で読むしかない。しかも、内容はどれもチェチェンやロシアの鬱々とした現実を克明に綴ったもので読むと疲れる。
日々の生活が忙しくて、疲れているところに読みたい本ではない。そういう意味ではこの本もそうだ。はっきり言って気が沈む。
ウクライナ、パレスチナの戦争は終わらないし、新年早々に地震があって、飛行機事故があって。世の中には希望がないというか、何もかもが見通しが効かない気がする。
この本は容赦ない現実を突きつけるだけで解決策など提示しない。では、なんで私はこの本を読むのだろう。うんざりすると分かっていながら、どうしてアンナ・ポリトコフスカヤの著作を読んだのだろう。
それは、知ることでしか得られない力があるから。読むしかできない自分なんてという言葉を無視して、世の中にはこういう一面があると知っておく。その事自体に意味はある。
今じゃなくても、いつか。忘れないために、自分の小ささを忘れないために読むのかもしれない。まとまりのない文章だけども、この先もアンナ・ポリトコフスカヤの名前と、彼女が報道したものを忘れないために、この先も読んでいきたいと思う。
最後に著者ヴェーラが引用した、アンナ・ポリトコフスカヤの言葉を紹介してこの記事を終わりにする。
こちらは去年出たアンナ・ポリトコフスカヤの報道を元に描れたチェチェン紛争についてのグラフィック・ノベル。
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