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【エッセイ】謎の向上心から人生修行モードになりやすい私はスポンジより人間になることを決意した

人間になりたい。

・・・


私は“ただ楽しむ”ことが下手らしい。


少し前、夫婦揃って「ないもの探し」に躍起になっていた時期がある。

あれもない!これもない!と数えては不安定になり、ただの事実を大きな問題に仕立て上げてはふたりで大騒ぎした。お互いが相手のせいにしてののしり合い、それに飽きたら今度は「自分のせいで相手が辛いのだ」という自己否定に走り、解決策を話し合うわけでもなくただ謝罪し合った。なんとも不毛な時間を過ごしていた。


 そんな時期に浮上した問題は、趣味の不一致だった。

夫は音楽を大音量で聞くのが好きなのに対し、私は静かに読書をするのが好きだ。

これまで、共有することはないなりにお互いの趣味を尊重し合えていると思ってきたのだけれど、突然夫に言われた。


「音楽を一緒に楽しめないのが悲しい」


 え、そうなの?でも、でもなあ…。

夫が好きな曲のmusic videoを何十回も一緒にみる時間は、私にとっては楽しいよりも、もったいないという気持ちのほうが強い。集中して見てはいなくても、何年も共に暮らしている相手が同じ部屋で繰り返し流しているものは嫌でも目や耳に入ってくるわけで、私としてはもう十分飽きるほどには聞いているつもりなのだけれど…。
読書中にmusic videoの好きなシーンでいちいち「見て!このシーン見て!」と中断させられるのも小さなストレスなんだよなぁ。


 趣味ってそもそも押しつけるものではないのでは?

私がおすすめの本があるって言っても絶対読まないよね?

おすすめの本あるよ。今のあなたに「たまごのはなし」って本、ぴったりだと思うよ。押しつけはよくないかもなって思えるんじゃないかなあ。


 私「音楽好きじゃなくてごめん」
夫「一緒に音楽楽しめないことを悲しいなんて思ってごめん」


 こんな訳のわからない謝罪をし合いながら変に気をつかう日々が続いて、なんかこの状況にも考えることにも疲れてしまった。


・・・ 


最近パート先に新しい人Tさんが入ってきた。

そのTさんに、休憩中「お休みの日は何してるんですか?推しとか趣味とかありますか?」と聞かれた。こういう質問久しぶりにされたなあと思いながら、いつも通り読書と答えようと口を開きかけたところで何かが引っかかった。


休みの日に何をしているかと聞かれたら読書だけれど…果たして私は純粋に読書を楽しんでいるのだろうか?


その会話は私の読書という返事に対し、Tさんが最近読んで面白かったという本を紹介してくれて終わったのだけれど(そのコミュニケーション力にとても感動した)、その後も漂流物のように私の心にぷかぷかと違和感が浮かび続けた。


 そもそも私が本をたくさん読むようになったきっかけは、「自分を変えよう」と思ったからだ。自分を変えるためには新しい考え方が必要で、けれど身近には私に新しい風を吹かせてくれる人はいないように思ったから、本を通して出合おうと考えたのだ。


0か100かの極端な考え方が基本装備なもんだから「もっとたくさん読まなくちゃ」「もっと新しい知識や考え方を知らなければ」と必死になっていた気がする。

思い返せば、同じ本を読む時間があるならばまだ読んだことのない本を読みたい。もしかしたら、心震える出合いがあるかもしれない。読んでみたい本は無数にあるし、時間がない。と常々思っている。

だから、さほど興味のない音楽に貴重な時間を費やすのはもったいなく感じて、夫に一緒に楽しもうと言われてもその時間に価値を見い出せない。

 いや、興味のない音楽どころか自分が好きな曲だって移動時間にしか聴かない。music videoを観ながら“音楽を聴くだけの時間”はもう何年も過ごしていない。


 ああ、そっか。
私は「ただ楽しむ」という楽しみ方をすっかり忘れてしまったのだ。


「変わりたい」「変わらなきゃ」と思いすぎて、見るもの・聞くもの・するもの全てに何かしらの意味づけを求めていた。何かしらを吸収しなければという強迫観念は、やはり自分の中にある「私は足りない人間だ」という焦りからくるのだろう。


 夫が好きな曲のmusic videoを何百回と観ている姿を見ていつも不思議だった。この人はなぜこんなにも同じことの繰り返しに時間を使えるのか。その時間を何か新しい知識や気づきを得るために使ったほうがいいのではないか、なんて。


…私はいったい何を目指しているのでしょうか?


 夫はあの時間を純粋に楽しんでいたのだな。その楽しんでいる人の隣で私は本を読むという修行をしていたのだな。同じ時の流れにいなかったのだからすれ違っても仕方ない。


 「今の自分でもいいよね」と昔よりは確実に思えてきているのだけれど、「今の自分よりももっとよい自分になりたい」という向上心がいつも心の真ん中で太陽のごとく輝いている。
その太陽は、私の中にある「リラックス」「のんびり」「ゆったり」といった概念を次々と燃えカスにしては修行モードへと導くのだった。


ああ、めんどくさい。
こんな自分がめんどくさい。


めんどくさすぎてどうでもよくなって、ただ楽しんでやろうともう何回も観たことがある「実写版 アラジン」を観ることにした。


前半は集中しきれずにソワソワ、何かもっと意味のあることしなければと落ち着かなかったけれど、アラジンがアリ王子としてジャスミンのお城に向かうパレードのシーンでものすごく楽しい気分になって、ゾウくらいの大きさだったソワソワがアブー(サル)くらいまでしぼんだ気がする。


 
楽しかった。
すごく楽しかった。
ただ楽しんでいいんだった。

いちいち意味を持たせようとしなくても、私は私なんだった。
それでいいんだった。
大丈夫なんだった。


 


スポンジになろうとするのはもうやめよう。
私は人間として生きていこうと思う。



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