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映画『メグレと若い女の死』感想

------この記事には、ネタバレを含む部分があります-------

 「なぜ今、メグレ……?」と疑問符を抱えながら、映画『メグレと若い女の死』の予告編を観た。しかし、ドパルデュー、ルコントと言われたら抗えず、足は映画館に向かっていた。仏文科に入りたての頃、「シムノンは簡潔で読みやすいから皆さんにおすすめです」と言われていたのに、結局原文で読まなかったな……と怠惰だった学生時代を振り返りながら、タイトルバックを眺める。

 ストーリーも推理も、至ってシンプル。もうこの線しかない、という方向にストーリーは展開する。この前に『別れる決心』のスピード感を体験していたせいで、世界観のチューニングに時間がかかった。

 鷹揚さも図抜けている。スリリングなおとり捜査の場面も、かなり離れた場所でゆったりと待つメグレ。現場は高級アパルトマンの3階。階段を上がると息切れする、とはっきり冒頭に漏らしていたわりに、壮年の運転手のほか誰も連れはいない。確かめられなかったが、たぶん手ぶらではなかっただろうか。これが『別れる決心』であれば、屈強な若手刑事が建物の脇にピタっと張りつき、銃を構えているところだ。何か起こってからでは……、とハラハラさせられる。

 しかしそれもこれも、ルコント・マナーにおいては本筋ではないところだ。この映画は、《Maigret》と原題が示すように、ただメグレその人を観ることがテーマなのかもしれない。パイプへの妙なこだわりと死者への執着。老いをまえにしての心身の不調。誰かを見送ったあとの哀愁。

 そんなメグレに寄り添う女たちもまた、暗い影を抱えている。わずかな希望すら断ち切られる若い女、死者に近すぎる夫と老境を迎える妻……。それぞれの多くは語られない過去に、パリという都市の抱える深刻な闇も重なって、いっそう暗さをましている。

 それだけに、晴れた朝にメグレが微笑を漏らすシーンにはしみじみと感動した。鏡に向かって髭を剃る彼が、協力者となる若い娘と妻が談笑するのを聞いて、ふふ、と顔をほころばせる。会話が朝の光に揺らぐような映像と音響の美しさは、学生時代にルコント作品を観て感動したときとまったく変わらない。

 劇場を出ると、原作の文庫本が置いてある。刊行されたばかりの新訳版だ。遅ればせながら、原文で読んでみようか?もう一度メグレその人を追いかけてみたい。

■ジョルジュ・シムノン著 ; 平岡敦訳『メグレと若い女の死〔新訳版〕』早川書房,2023
■GEORGES SIMENON,  MAIGRET ET LA JEUNE MORTE


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