ハム・サーペンス(中編ホラー)

1 素敵なアイディア

 木曜の午後、竹早公園で遊んでいた子供たちの誰かが素敵なアイディアを思いついた。

 それはとてもユニークで、斬新で、途方もないアイディアだった。その場にいた全員がそのアイディアに夢中になった。

 発案者の名前は直ぐに忘れ去られてしまい、アイディアは全員の共有物になった。 

 その一見実現不可能に思えるアイディアを理論化し、現実のものとして形にしたのはグループの中で一番年下の少女だった。

 少女の名を桜と言った。

 背が小さく、引っ込み思案で、何時もぼうっとして時折訳の分からないことを言う子だったため、学校の先生や他のクラスメイトからは敬遠されていたが、数少ない彼女の友人達はよくわかっていた。

 どれだけ夢みたいな話でも、桜に任せておけば大丈夫だ―と。

 彼女は友人たちに次々と指示を出した。

「さあ、誰か家からCDを持ってきて!」

「CDって何?」

「虹色に光る円盤よ!それからホースも!」

「使わなくなったガラケーが家にある人がいるなら持ってきて!」

 スイッチの入った彼女は光よりも速く思考し、風よりも早く行動する。

 彼女は小さな体に宿る巨大なエネルギーを使って、三日とかからずそれを実現させた。


2 ハム・サーペンス

 

 休日の昼下がり、多田陽介は車を洗っていた。

 三か月前に購入したばかりのN―BOXは、殆ど使われてないはずなのに汚れが目立ち、何度洗っても直ぐ白っぽい跡がつく。

 陽介は重たいため息をついた。

 N―BOXを買ったのは彼の判断だった。

「文京区は交通の便が良いから車なんて要らないわよ。通勤にも必要ないわ」

 妻の葵は陽介が車の購入を提案するとそう言った。その言葉に陽介は思わずむっとして答えた。

「子育てに車は絶対必要だろ。桜も休みは車でピクニックに行きたいよな?」

「うん!」

 娘は目を輝かせて頷いた。

 しかし、車を購入して直ぐに娘が酷く車酔いする体質であることが分かった。休日に車でどこかへ行こうとしても、走り出して五分と経たずに桜が激しい頭痛を訴え、車を降りることになる。

 腹立たしいのは娘の乗り物酔いは車に限定されている事だった。電車などは全く酔わないのだ。どうやら娘の車酔いは三半規管の問題ではなく、あのガソリン独特の匂いのせいらしかった。

「だから言ったのに」口には出さなくても妻がそう考えてることは明白だった。それはそうだろう。他でもない陽介自身もそう思っているのだから。

 カラーを黒にしたのも失敗だった。黒の方が汚れが目立たないと考えたが、浅い考えだったと知った。埃や水垢など白っぽい汚れは黒の方が目立つのだ。

 結果として、雨が降ったり流砂が飛んできたりするたびに、彼は使ってない車を洗車する事になった。

 きちんと洗って雑巾拭きもしたはずなのに、よくよく見ると後部座席のドアの下に白い汚れを発見した。「これで本当に掃除したの?」と嫌味を言う妻を想像してもう一度盛大なため息をつくと、隣の塀の上から声がした。

「やあ!」

 声の方を見ると、隣の家の松の木の上に頭の禿げあがった男がいて、こちらに手を振っていた。

 庭の剪定の最中らしく、梯子に片足を載せて頭には鉢巻を巻いている。

「ため息をつくと幸せが逃げるぞ、陽介君」

「逃げるほどの幸せなんて残ってませんよ、相馬さん」

 相馬は皮肉じみた返事を返されても嫌そうな顔一つしない。まん丸の顔ににこにこ笑顔を浮かべている。

「またまた~、美人の奥さんに可愛い娘がいて幸せでない訳があるかい。贅沢も大概にしたまえ」

 相馬は大げさな身振りで空を指さす。

「おまけにどうだい、この青い空。青は幸せの色さ!まさに幸福とはこういう事じゃないか」

 そうだ。確かにそう。

 家持ちで妻がいて子宝にも恵まれ、職もある。このご時世、これだけで相当恵まれた部類と言うのは自分でも分かっている。

 おまけに青天の休日。

 ちょっと前なら陽介もこの生活に望外の幸せを感じていただろう。

 だが、今は何を見ても気が重い。心の足に鉄球が繋がってるような感じだ。

「何だい辛気臭い面だなあ。そうだ、陽介君。この後うちの庭でバーベキューをやるんだがー」

「ちょっとあんた!」

 塀の向こうで隣の奥さんの甲高い声が聞こえる。

「庭いじりに何時までも時間をかけてるの。こっちきて洗濯物を手伝ってよ!」

「はいはーい。ただいま参りますよ、プリンセス」

 相馬はにこにこ笑顔を崩さず言った。

「じゃ、うちのプリンセスが怒ってるみたいなんでここらで失礼!バーベキューはまた今度ね!」

 そう言って敬礼すると、相馬は梯子を下りていった。

 隣の相馬家の奥さんは旦那より10歳ほど若いが、既に50は越えていて若い頃は美人だったのだろう、整った顔立ちはしているがとにかく癇癪持ちでしょっちゅう夫を怒鳴っている。

 にもかかわらず相馬雄一は何時も幸せそうで不平一つ零さない。

 隣を見ていると幸せとは何かと考えさせられる。

 そう、自分は幸せなのだろう。大事なのは幸せと感じる事なのだ。

 そうは思うのだが。

「パパ―!」

 娘が帰って来て早々陽介の足に飛びついてきた。

「ねえねえ、ハム・サーペンスって何?」 

 突然聞きなじみのない単語を聴かされて陽介は聞き返す。

「ハンサムペンペン?」

 娘は怒ったように繰り返した。

「ハム・サーペンス!」

 思わずげんなりした顔をしてしまう。

 娘から知らない知識について聴かれる父親の苦悩と恥辱たるや!

 せめて年相応に「どうしてお空は青いの?」などと聞いてくれれば可愛いものを、今年8歳になったばかりの娘は「何で観測しただけで実験結果が変わるの?」なんて聞いてきたりする。

 ダブルスリット実験なんて聞いたことすらなかった陽介はその質問を聞いた時、娘が狂ったのかと思ったものだ。

「パパは聞いたことないなあ、誰が言っていたんだい」

「えーとね」ちょっと迷った後、笑顔で娘は言う。

「宇宙人!」

 陽介は頬が硬直するのを感じた。自身が癇癪を起す寸前なのが分かる。

 何とか気持ちを落ち着けて、娘の両の肩に手をかける。

「あのね、パパと約束したよね。そう言う変な子だな、って思われちゃうことは言わないって」

「でもね、大丈夫!その宇宙人は、正義の宇宙人なんだよ」

 桜がにっこり笑った。

 そして日曜の昼下がり、陽介の癇癪が破裂した。


 その夜、多田家のリビングで夫婦会議が行われた。これは陽介が桜に癇癪を起すと必ず行われるもので、不定期の筈が週に一度は行われた。

 テーブルの向かい側に座っている葵は陽介を睨みつけていた。

「ねえ、感情的になって娘を怒ったりしない。そういう教育をするって約束したのは一週間前だったわよね」

「まあね」

 そう口では認めつつも陽介は憮然としていた。僕が何か悪いことしたかい?とでも言いたげにテーブルに肘をついて、そっぽを向いて手を頬に当てている。

「あの子の特性を認めてあげなくちゃいけなかったんだな」

「そんな言い方はしないで!」

「君こそ怒ってるじゃないか」

「悪かったわ、でも止めて。特性なんて上品な言い方してるけど、それ結局障害って事でしょう。あの精神科の先生も前の学校の先生も間違ってるわ。あの子は賢すぎるの。だから普通の人達には質問が突拍子もなく聞こえるけど、どれもちゃんと理由があるのよ」

「だが、幾らなんでも今回は突拍子もなさすぎだ。ハム・サーペンスなんてスマホで検索しても出てこないぞ。掠りもしないんだ」

「私達には分からない理由がきっとあるはずよ」

 妻の娘に対する揺るがぬ信頼をみてまた陽介はため息をつく。

 妻の怒りに火を注ぐだけなので言わなかったが、彼はメンサのテストなんて受けたのがそもそもの間違いだと思っていた。

 

3 ギフテッド

「ね、桜にIQテスト受けさせてみない」

 最初、葵にそういわれた時、陽介は酷いしかめっ面をしたものだった。

「IQテストぉ?」

「そ、ただのIQテストじゃないわよ。高IQテスト。メンサの入会テストが今年から15歳以下でも受けられるようになったらしいのよ。で、吉田さんの娘さんも受けるから一緒に受けないかって誘われたの」

 メンサとは、全人口の上位2パーセントの高IQの持ち主しか入れない国際グループだ。

 だが、IQテストと聞いて陽介の頭に最初に浮かんだのは、所長のすましたにやけ顔だった。

 仕事が出来ない癖に人に指図するのは一丁前の男。一回り以上も年下なのに、大学出と言うだけで陽介より早く出世し、偉そうにため口で指図してくるその高橋と言う男が陽介は大嫌いだった。

「IQ130以上だとメンサの会員になれるのよ。私も桜ならなれると思う。だってあの子1歳半で読み書きが出来たのよ?」

「くっだらない。辞めろ辞めろ。メンサだかメンスだか知らないが、そんなものは社会で生きていく力とは何の関係もないんだからな!」

 陽介は思わず声を荒げてしまう。

 所長の高橋もメンサの会員だった。高橋のIQは確か132だ。高橋は酔うと何度もその話をするので覚えてしまった。脳の無駄遣いなので早くデリートしたい情報だが、そういう覚えたくない情報に限って忘れないのだから自分が嫌になる。

 葵は憮然として言う。

「何で怒鳴るのよ」

 女には理解できないさ。陽介は内心で呟いた。

 仕事も出来ない礼儀もろくに知らない若造に偉そうに指図される毎日がどれだけ惨めで辛いかは実際にそんな立場に置かれてみないと分からない。

「とにかく僕は反対だね」

 そうはっきり言ったものの、結局妻に押し切られる形になった。理は彼女にあったし、政府の助成金もあってタダだと言われれば反対するのも難しい。

 それでも陽介は何時までもぶつぶつ文句を言っていた。

「大体130やそこらIQがあったって何だってんだよ」

「桜のこれからを考える上で重要な材料なのよ。どの小学校が彼女に相応しいか」

「近くの公立で十分だろう。ちょっとくらい賢くたって社会を生きる上で何の影響があるんだよ」

 二人とも、テストは何処かの会場でやるのかと思ったが、近所の精神科で臨床心理士付き添いの元、会議室のような場所で他の児童たち十数名と行った。テストは2時間ほどで終わり、その日は帰された。郵送で結果は通知されるとのことだったが、それから一月ほどして、多田夫妻はその精神科に再度呼び出された。

 一番奥の狭い部屋に座らされると、暫く待たされた。

 10分ほど経って入って来た内科医は、「お待たせしました」と言って入ってくると、マホガニーの机に座り、神妙な顔をして長く白い髭を撫でた。

「あの、何か問題があったんでしょうか」

 不安でたまらず聞いた葵に、そのサンタクロースそっくりの内科医(宮本直和とプレートに書いてある)は、もう少し勿体つけたような態度を続けようとしたものの、結局笑みと言葉がついて出た。

「お子さんは入会テストに合格しました」

 心療内科に入って以来ずっと曇っていた葵の顔が花開くように明るく輝いた。

「やった!やったわ、あなた」

 葵は両手を広げて陽介の前に出した。

「分かった分かった。そうはしゃぐなよ」

 葵にハイタッチする陽介の顔も綻んでいた。IQなんて社会を生きる上で関係ない、などと思っていても、やはりいざ娘が高IQと分かると嬉しい気持ちが大きかった。

「ご存じの通り今年から日本でも15歳以下がメンサの入会テストを受けられるようになりましたが、実際に会員となった小学生はお子さんが一番乗りです」

「日本で初めてメンサ会員になった小学生って事ですか?」

 葵がそう聞くと宮本は首を振った。

「いいえ、以前から例外的にメンサ会員となった小学生はいたのです。ただ、今年に入ってからは全国であなたのお子さんが初めてです」

 全国で初めて。何と誇らしい言葉だろうか。

「で、具体的には娘のIQは幾つなんですか」

 葵が聞くと、医師は一枚の紙を差し出した。

「こちらが検査結果になります」

 グラフと数字と聞いたこともない単語ばかりで、二人とも何を見ればいいも分からなかった。陽介は紙を返して言った。

「先生、僕らみたいに学のない人間にはこれじゃ分かりません。勿体つけず端的に結論だけを言ってくださいよ」

 ふむ、と髭を撫でて宮本医師は言った。

「お子さんのIQは162です」

 陽介にはその数値が高いのか低いのかも変わらなかった。あれだけ偉そうにしてる所長が自分の娘よりIQが低いというのはスカッとする事実ではあった。

「へぇ、それって高いんですか」

 隣の妻を見たが、彼女もピンと来てない顔をしていた。

「分かりやすい例をあげましょう」

 宮本医師は人差し指を立てて見せる。

「アインシュタインのIQが160です」

 夫婦は目を丸くしてお互いを見た。

 自分たちの娘がアインシュタイン以上知能を持っていると言う事か?

 考えもしなかった。確かに年の割にませていて、保育園の頃からライトノベルズを読んでいたし、最近では宇宙物理学の本(勿論一般向けだが)を読んでいる。しかし、ちょっと背伸びしているだけだと陽介は思っていた。

「娘さんはギフテッドです。神からの贈り物を貰って生まれたんです。しかも、天才と言う言葉では控えめすぎるほどの贈り物だ」

 葵は顔の前で両手を組み合わせて言った。

「つまり、娘はゆくゆくは東大に行けると言う事ですか」

 サンタクロースは首を振った。

「私が桜さんの親であれば、もっと高い目標を持つでしょうね」

 東大の上なんて二人とも想像も出来なかった。

「娘さんは世界を変えるかもしれませんよ」

 医師は冗談めいた笑顔を浮かべウィンクをした。

 ただ、ジョークを口にしながらも、その瞳には冗談と呼ぶには強すぎる確信が光っていた。

 或いは本当に――この娘は世界を変えるかも。

 そして、世界はともかく、この事をきっかけに多田夫婦の人生は大きく変わった。

4 2E

 陽介は学歴社会なんて糞くらえなんて思ってるし、頭の良い人間はすべからく仕事ができないと思ってる。日本がいつまでも不景気なのも税金が上がるのも物価が上がるのも日本の政治家の議員報酬が世界三位なのも、頭が良いだけの役立たずが日本のトップにいるせいだと思っていた。

 学歴は高卒で十分すぎるほどで、人の価値は最終学歴ではなく、社会に出て何をなしたかだと思っていた。

 だから娘が賢いと言う事は以前から気付いていたものの無視していた。

 他の子供が絵本に夢中になるときに物理の専門書を読んだり、携帯ゲームを簡単すぎると放り投げ、難解な数字だらけのパズルを解いていてもいら立ちしか感じなかった。

 娘には賢いだけの人間になって欲しくなかった。

 しかし、アインシュタインになれるかもしれないとなれば話が違ってくる。

 どれだけ違うのか見当もつかないほどに。

―娘さんは世界を変えるかもしれませんよー

 あの時の医師の言葉はあまりに強烈な魔力を持っていた。

 自分たちの娘が世界を変えるかもしれない。

 その時、夫婦はその途方もない夢に浮かされていた。

 小学校は、文京区にある、都内でも有名な公立小学校にする事にした。そこは国際理解教育に力を入れている学校だった。多田夫妻はゆくゆくは娘を海外の大学に入れるつもりだった。

 滑り止めなどは一切受けなかった。娘が落ちる事など考えられなかった。

 未来のアインシュタインを落とす学校があるならこっちから願い下げだ。そう考えていた。

 丁度その時、知り合いの不動産の薦めで文京区の駅近くで格安の物件を見つけた。

 土地が安くちょっと無理すればマイホームも建てられそうだ。

 支払いが負担にはなるだろうが、将来わが子がアインシュタインになるのならばなんてことがあろうか。

 会社の通勤時間も増えるには増えるが元々近かったわけではないし、これも我が家のアインシュタインを育てるためならばなんてことはない。

 夫妻の決断は早く、入試を受ける前に娘が生まれる前から住んでいた台東区のアパートを引き払い、文京区に引っ越した。

 新居に着くや否や、娘は家の前の建物に目を輝かせた。

「わー!目の前に図書館があるー!」

 これも助かった。何せ多田家は今後40年続くローンを抱えてるのだ。 この上娘の教育の為に高い専門書籍など買えるわけがない。

 ライトノベルズを欲しがってた頃が早くも懐かしい。桜が欲しがる書籍は専門性の高い、多田夫婦にとって何のことだが良く分からない本に変わっており、それらは一冊でライトノベルズ100冊分の値段がした。

 図書館の隣は公園になっており、昔小学校があったが空襲により大破したという。

 安心安全なまちづくりの施策として、青色回転灯を装備した車両による防犯パトロールや客引き行為防止対策など、治安対策が万全で交通の便も良い。駅もすぐ近くだ。

 歴史的建造物も多く文化的教育にも最適だ。

 家の目の前の図書館の横は公園である。

 公園で遊ぶ子供の声をうるさいと思う人間も多いらしいが、多田夫妻は子供が出す音に不快感を持たないタイプの人間だった。

 歩いて直ぐの所には学問の神様として有名な菅原道真を祀る湯島天満宮がある。

 子供を育てるには理想的な環境であり、知り合いの不動産屋のつてでそんな場所にマイホームを建てられた自分は世界一好運な父親であると思った。

 桜が当然のように一番の成績で小学校に受かってからはその確信はますます深まった。


 が、入学して直ぐに問題が発生した。

 娘が同年代の友達が出来ず、クラスメイトと全く仲良くなれないのだ。

 ついには、学校へ行きたくないと言い出した。

 色々宥めすかして何とか毎朝二人で彼女を学校に届ける。そんな毎日が続いた。

 そして、入学して二か月。多田夫婦は学校から呼び出しを受けた。

 理事長と会ったのは入学試験時の面接以来だった。

 多田夫妻よりは幾分年上だが伝統ある名門小学校の理事長としては大分若い印象の夫人だ。42歳らしいが、ぱっと見は30代半ばくらいに見える。

 面接時には威圧的にすら見える確信に満ちた笑顔を浮かべていた理事長だが、その時の彼女は大分疲れて見えた。

 他方、面接時は自信に満ちていた多田夫妻も、今回は縮こまっていた。小会議室の真ん中の椅子に娘を挟むようにして座っているその顔は落ち着かぬ様子であった。

 それもそのはず、呼びだされた小会議室は問題のある生徒が親と一緒に連れてこられる場所で、ここに呼び出されると言う事は既にイエローカードを手渡されているに等しかった。

 理事長の杉本加奈は酷く低い声で話し始めた。

「お子さんは給食を食べようとしないんです。頑固で、協調性もありません。誰とも仲良くなろうとしない」

 葵は隣にいる娘に尋ねる。

「どうして給食を食べないの?」

 桜は真っすぐとした眼差しを母親に向ける。

「お肉を食べると温暖化が進むんだよ、ママ」

 陽介は顔をしかめた。

 なるほど、こりゃあ質が悪い。ただの好き嫌いの方が遥かにマシだ。先生達もさぞやりづらかろう。

「一人で生きているなら、それでも良いでしょう。どうぞお好きなようになさって結構。しかし、学校と言うのは協調性を学ぶ場です。それが出来ない生徒は、学習意欲がないと私どもは判断します」

「給食で好き嫌いするくらいで、それは少し横暴じゃないですかね」

 陽介がそう言うと、杉本理事長は柔和な、疲れた笑みを浮かべて告げる。

「勿論、それだけではありません。桜さんはクラスメイトの全員の児童証を盗み、破壊しました」

 陽介は驚いて娘を見た。彼女はそっぽを向いて口を尖らせている。これは桜が悪い事をしてとぼけてるときのサインだ。

 陽介は桜と杉本の両方を見ながら、言った。

「一体、何だってそんな事を?」

 杉本はそれには答えず、すくっと立ち上がって重々しい口調でこう言った。

「これを見てもらえませんか」


 会議テーブルの上に奇怪なものが載っていた。

 それはぱっと見では花のようだった。

機械でできたグロテスクな花。

 黒いプラスチック製の容器(スマホに似た何かでありますようにと夫婦は祈った)から用途不明の細かいパーツがでたらめに組み合わさっていて天に向かっていて、その天辺では半導体が花びらのように円状に繋がっている。陽介は前衛芸術家が文明批判をテーマにしてこんな作品を作ってそうだなと思った。

「これは桜さんが一人で作ったそうです。クラスメイトの児童証からチップを取り出して繋ぎ合わせて」

 葵が何か言おうとする前に理事長は話を続けた。 

「ちなみに土台に使われているPixel6aは私の物です」

「すいません!」

 夫婦は頭を下げた。これは謝るしかない話だと陽介は思ったが、直ぐ疑問がわく。果たして謝って済む問題だろうか。

「桜、何でこんな事したの?」

 狼狽する母親に桜はこう答えた。

「宇宙人と交信しようと思ったの」

 しばらくの沈黙の後、最初に口を開いたのは陽介だった。

「で、宇宙人とは交信できたのか」

「ううん」

 桜は首を振った。

「宇宙人はいなかったの」

「いない?」

 陽介が聞き返すと、桜は暗い顔をして言った。

「宇宙の何処にも私たち以外の宇宙人はいなかったの。私たちの宇宙は死んでいるの」


 弁償すると言う夫婦に対して、理事長は代わりに検査を受けるよう提案した。そうすれば他は一切不問にすると理事長は約束した。

「知能検査なら、既に受けていますが」

 葵がそう言うと、理事長は首を振った。

「それは高IQ検査ですね。それとは違います。桜さんが受けてもらうのはWISCと呼ばれる発達検査です」

「それって・・・」

 葵の眉間に皺が寄った。

「お子さんは障害を抱えている可能性があります」


 そして桜はテストを受けた。メンサではない。通常のIQテスト。そこでも驚異的な高得点を取ったが、医師によれば問題はその点の高さではなく歪みだと言う。

 処理能力や数的能力などは非常に高い一方、相手の言葉を受け取る能力は著しく欠けていた。

 学校の紹介で受けた精神科の医師はこう断言した。

「お子さんは発達障害の疑いがあります。中度の自閉症かと」

 葵は認めなかった。

「嘘よ」

 震える葵の肩に陽介は手をかけようとしたが、彼女はそれを振り払った。

「高IQの中でも稀にいるのです。障害と才能を併せ持つ人間が。彼らはギフテッド2Eと呼ばれます」

「大体、娘が発達障害だっていう客観的な証拠はあるの?聞き取り調査だけでしょう」

 聞き取りは理事長をはじめとする学校の先生達に対して行われた。

「多数決で障害かどうか決めるの?そんなの科学的なんて言えないわ」

「葵」

 陽介が呼びかけたは彼女の耳に入らなかった。

「奥さん」

 若い医師が宥めるように言う。

「確かに発達障害を客観的に判断する手段はまだ解明されていません。だから、他者からお宅の娘さんがどう見えるか。それをもって客観的な証拠とするほかないんです」

 葵は立ち上がって叫んだ。

「そんなの魔女狩りと同じじゃない!フェアじゃないわ」

 そしてわっと泣いた。

 陽介は葵を抱き寄せ宥めたが、彼自身も混乱の渦の中にあった。

 わが子がちょっと変わった子から、アインシュタインになり、今度は障害者として認定されたのだ。

 どう受け取ったら良いか彼自身も分からなかった。

 狂っているのは世の中と自分たち家族のどちらなのだろう。

 人生とはかくも奇怪なものなのか。


 結局夫婦は別の小学校に編入した。杉本理事長は、障害があってもしかるべき講習を受けさえすれば学校にはいられると言ったが、葵はどうしてもわが娘が発達障害であると言う事を受け入れられなかったし、娘を障害者認定したその小学校を決して許さなかった。

 幸い編入先は近くにあった。

 前の格式高く窮屈な学校と違い、とても優しくおおらかな校風で、給食に出てくる肉を食べない事にも寛容だった。

「お子さんの特性を理解してあげることが大事です」

 担任の教師にそう言われて、葵は癇癪を起した。

「特性」などと言う言葉は決して使わないでくれと彼女は言い、教師はそれを忠実に守った。

 だが陽介はその決まり事を度々破った。

 娘が脳に障害を持っているという考えは、彼の心にすとんと落ちた。

 娘がアインシュタイン以上と言わるよりも遥かに理解しやすい話だった。

 一方で葵はその考えを決して認めず、そこから夫婦間に溝が出来た。

 その溝は修復不可能な、深い暗黒へと続いていた。


5 あと三日

 陽介にとってその日は最悪の一日となった。

 桜だけでなく、葵も肉を食べないと言い出したのだ。

「何で?」

 彼が尋ねると葵は言い訳するように言った。

「ほら、最近物価高でお肉も高いし。ちょうどいいと思ったのよ」

「野菜はもっと高いけど?」

「野菜を食べても環境は破壊しないもの」

 妻までビーガンになってしまったとは。

「あなたは食べても良いのよ。ただ私と桜は食べないわ」

 その日の朝は豚肉のソテーだったが陽介の前にしかその皿はなかった。朝食は酷く不味かった。ポークソテーからは孤独の苦い味がした。三人で食べているのにたった一人で食べているかのようだった。


 その後もろくな事がなかった。取引先で部下の不始末に頭を下げ、会社に帰れば所長がプロジェクトの失敗を陽介に責任転嫁し、狭い社長室で一時間ほどねちねちと責められた。


 家に帰って陽介がくたくたに疲れて居間のソファでビールを飲んでいると、桜がやってきて言った。

「ねぇ、お父さんあと三日だって」

「何の話だ」

 思わず声が大きくなる。苛々が限界に達しそうになったのを感じて陽介は深呼吸した。

(この子は脳に障害があるから変な事を言っても仕方ないんだ)

 ある時から、陽介はそう考えるだけで娘がおかしな事を言っても許せる自分に気づいた。

 子供に変な期待をしなければ良いのだ。

 彼はひきつった笑みを娘に向けると、おどけた調子で言った。

「またハムハム君が何か言ってきたのか?」

「ハム・サーペンスだってば」

 何度も間違う父に桜は呆れたような顔をした。

「そもそもパパは間違ってるわ。ハム・サーペンスは地球を侵略する悪い宇宙人なんだから」

「この間とは逆の事言ってるぞ」

「言ってないよ」

 陽介は頭を掻いた。

「分かった分かった。で、三日後に来るのはなんだって?」

「正義の宇宙人。地球を侵略するハム・サーペンスをやっつけに来るの」

「そりゃあ、随分急な話だね」

 

「ねぇ、あの子。まだあの話してるわね。宇宙人の話」

 ベッドに入ると、葵が思いつめたような声で言った。陽介は妻から背をむけたままで答える。

「大丈夫、怒ったりなんてしてないよ」

「ううん、そういう心配じゃないの」

 陽介は身を捩って妻の方を振り返った。暗闇で彼女の顔は良く見えない。

「ひょっとしたら本当かもって思ってるんじゃないだろうな」

返事はなかった。陽介は、ベッドの上のスタンドライトを点けて妻の顔を見た。ライトで照らされた彼女の顔には不安そうな表情が浮かんでいる。

「おいおい、ビーガンの次はオカルトに嵌るのか。大概にしてくれよ。宇宙人の襲来を信じるなんて」

「あなたに言うべきかどうか迷ってたんだけど」

「何だい。勿体ぶるなよ」

「午後に家の前の公園で桜がいじめられていたの」

「やっぱりか」

 それはだいぶ前から陽介が危惧していたことだった。桜のように協調性のない子供は必ずいじめのターゲットになるものだ。葵は首を振った。

「そうじゃないわ。いじめられてたこと自体が問題じゃないの。私がいじめていた上級生の男の子を怒ると、桜が真顔でこう言ったのよ。

『あと三日だから大丈夫』だって」

 流石に陽介も背筋が寒くなった。

「『あと三日で宇宙人がやってきて悪い宇宙人と一緒に陽介君たちもやっつけてくれる』って言うのよ」

「だからなんだよ。子供の空想話だろ」

「そうかしら」

「そうに決まってるだろ。大体、あの子の話は荒唐無稽だぞ。前はハム・サーペンスが正義の宇宙人だって言ってたのに、今日は悪の宇宙人だとか言ってるんだからな」

「本当?」

「そうだ、だから子供の空想話なんかに振り回されないでくれよ」

 葵は手を伸ばすとスタンドライトを消して言った。

「分かったわ。それを聞いて安心した」

 そう笑いながらも葵の声はまだ少し震えていた。

陽介も暗闇の中で寝室の白い壁を見つめている内に不安な気持ちになってきた。

 まさかな。


6 あと二日

 喉の奥から悲鳴が押しあがって来るのを感じて陽介は目を覚ました。枕もとのデジタル時計は4時12分を指している。

 身体を起こすと、スタンドライトの明かりが点いた。

 葵が心配そうな顔でこちらを見ている。

「大丈夫?」

「大丈夫だ」

 即座にそう答えたが、ちっとも大丈夫ではなかった。最悪の目覚めだった。

「何か悪い夢でも見たの?」

 放っておけ!と怒鳴り散らしてやりたくなったが、平静を装って言う。

「最近、仕事で上手く行かなくてね、所長に怒鳴られる夢を見ていたのさ」

 嘘だった。

 だが、いい歳して宇宙人が襲ってくる夢を見たなんて言えば、今以上に心配されるだろう。

 ベッドから降りて台所で無調整の牛乳を飲む。げっぷが出て、牛糞みたいな匂いが口からするのが分かった。

 全く眠った気がしなかった。桜の子供じみた荒唐無稽な話のせいで、まんじりともしない一夜を過ごした後では、疲れなんて取れやしない。

 その後、シャワーを浴びると少しはすっきりしたが、その気分もほんの1時間ほどで消えた。寧ろ、くさくさした気持ちはその後にどんどん大きくなり、朝食時に爆発した。

 その日の朝は、大根とほうれん草の味噌汁と、赤飯と、鶏肉とほうれん草の梅マヨ和えだったが、鶏肉があったのは自分の席の前だけだった。娘も妻も自分だけが肉を食べることには何も言わないし、一切強制する事はなかったが、それが陽介には妻たちの自分に対する当てつけのように感じていた。

「ねえ、あなた」

「何だい」

「疲れてる所申し訳ないんだけど、ごみの分別をちゃんとして欲しいの。またペットボトルが洗わずにごみ箱に捨ててあったわ。ちゃんと洗って冷蔵庫の横のごみ箱に捨ててほしいの」

「分かったよ」

 思わず不機嫌そうな声を出してしまう。

「それと、再生紙も、もうちょっと・・」

 陽介はガチャっと音を立てて箸を置いた。

「おい、朝っぱらからそんな話聞きたくない」

「あなた忙しいんだもの、朝しか話す時間ないでしょ」

 葵も語気を強める。

 二人の会話が段々喧嘩腰になってくる。これは良くない兆候だと夫婦は同時に感じた。大概この後は大喧嘩だ。だが分かっていても止まらない。

 一旦怒りの感情が走り出すと、もう止まらない。それは暴走列車のように、一旦勢いがつくと大惨事まで止まりはしない。

「大体、肉を食べない事で地球が助かるってのはどう言う原理だよ」

 陽介は誰に言うでもなく呟いたが、言ってから不味ったなと思った。

 夫婦生活も10年以上続けば、喧嘩を回避する方法も分かるようにはなるが、一方で手遅れのタイミングも分かる。

 今がそうだ。

「畜産業は環境負荷が大きいの」

 桜が口を開いた。こちらを見ないままで。

「例えば、牛肉一㎏を生産するには、水が約二万リットル必要なの。一方で大豆を一キロ生産するのに必要な水は約二千リットル。単純計算で十倍の水が必要になるって事。他にも牛が出すメタンガスは二酸化炭素の25倍もの温室効果があってね・・」

 陽介は両手を上げて降参のポーズをとる。

「分かった分かった。だから君たちは肉を食べないってんだな」

 陽介の顔が紅潮するのを見て、葵は彼の癇癪の予兆を感じ取って宥めるように言った。

「まあ、野菜は食べるんだから良いじゃない。とっても良い事よ」

「肉も食べないと大きくなれないんじゃないか?」

 だが陽介に言い返されると葵も直ぐに怒鳴った。

「肉ばかり食べるより全然いいでしょ!余計なこと言わないで頂戴」

 陽介はそっぽを向いて吐き捨てるように言った。

「私たちがちょっとやったって世界は変わらないよ」

 そこで桜が再び口を開いた。

「ちょっとした積み重ねが未来を作るんだよ、パパ」

 それは子供らしからぬ、静かで、論理的な言葉だったがだからこそ陽介は苛立った。

「親に向かって知った風な口をきくな!」

 食卓に沈黙が下りた。

 葵は冷たい目で彼を見ていた。桜はおびえたように父を見ている。

「不愉快だ!もう僕は会社へ行く」

 冷え切った食卓を後にして、彼は家を出た。


7 あと一日

 

 陽介は朝から葵と一言も口をきかなかった。

 折角の休日だが家の中は地獄より居心地が悪く彼は出かけることにした。

 出かける前に、二階で洗濯物を干してるはずの妻に声をかける。

「ちょっと外に出て行くよ」

 返事は返ってこない。

「お昼前には帰って来るから」

 そう言うと彼は外へ出た。

 特にあてはなく、湯島天満宮のあたりをぶらついていた後、竹早公園に向かった。

 すると途中で娘の後姿を見かけた。

 彼女の周りには数人の子供たちがいた。確か同じクラスの子供たちだ。

 昨日いじめられていると聞いた時には心配したが、どうやら同じ学校の子供たちとは上手く行ってるようだ。

 そりゃそうだろう。あの子たちもまた特性もちなんだから。

声をかけようと近づいて彼は妙な事に気づいた。

 よく見ると、子供たちは針金やCDやらを持っている。

 どれもただのがらくただ。そんなものを集めてどうするのか。

 何だか嫌な予感がした陽介は声をかけるのをやめ、三メートルほどの距離を開けて子供たちの後をつけた。

 子供たちは、ぞろぞろと竹早公園の中に入っていく。陽介も三メートルの間隔を取りながら後をついていく。公園に入ると、子供たちが姿が一瞬見えなくなったが、よく探すとテニスコートの前、木の陰になっている公園の隅の死角に子供たちはいた。

 彼らの中心に、異様なものがあった。

 それは2メートルほどの巨大なオブジェだった。

「おい、君たち」

 陽介が声を変えると、ぎょっとして子供たちがこちらを見た。次の瞬間、子供たちは散り散りになって逃げて行った。

 陽介は子供たちを追おうとはしなかった。ただ呆気に取られて巨大なオブジェを眺めていた。直ぐに彼はそれが前の小学校で桜が作った機械仕掛けの花の進化したものであることに気づいた。

 サイズは違えど、大体作り方は一緒だ。コードやホースなどが滅茶苦茶に繋げられていてその天辺に虹色の花がある。前回はチップで作られた花だったが、今回はCDを繋ぎ合わせて作られていた。

 前回と違って一体元が何なのか見当もつかない部品も色々あるが、これだけ大きいとなんとなく何をする機械なのかは陽介にも分かる。

 アンテナだ。

 と、すると娘は本当に宇宙人を呼ぶ気なのか。

 彼がもっと近くで見ようと近づいた時だった。

 アンテナが一瞬、風景に溶け込むようにして透明になり、やがて消えた。

 目をぱちくりして、彼は更にそのアンテナがあった場所に近づく。

 確かにあった筈だ。巨大な機械が。

 そっと何かがあったその場所に近づき手を伸ばす。

 何かが手を触れた。

 そのまま手を伸ばしていくと、ずずっと妙な音を立てて第二関節から先が消えた。

 反射的に手を引くと手は元に戻っていた。

 怯えたように周りを見渡すとテニスコート越しに子供たちが並んでこちらを見ていて、その中に桜がいた。彼らには表情がなかった。まるで昆虫のような目で自分を見ている。

 ほとんど逃げるようにして陽介はその場を去った。


8 当日

 

 スマホの着信音が陽介を悪夢から叩き起こした。

 昨夜、所長が飲酒運転で捕まったとの連絡だった。

 首都高9号線のパーキングエリアで行われていた飲酒運転の検問を強引に突破したらしく、その際制止しようとした警官に怪我をさせたらしい。今警察で事情聴取を受けているとのことだった。

 陽介は何時もより一時間早い列車に乗り出社する事になった。会社につくと、急遽、陽介が取引先との商談を行うようにと部長から直々に言われた。無茶ぶりも良いところだと誰もが思ったが、実は所長は商談の準備の殆どを陽介に丸投げしていていたので、彼は何もあわてる必要がなかった。

 その日一日は、目の回るような忙しさだったが、自分本来の仕事も含め定時には全てを滞りなく終えた時には、久々に満たされた気持ちになった。

 帰宅時、列車に揺られながら沈む太陽を眺めていると、彼は今日が娘が言っていたXデーであることに気づき、噴き出した。

(何だ、バカバカしい。やはり子供の空想話か)

 隣のOLらしき若い女性がこちらを不審な目で見ていた。


 夕食を終えると、チャイムが鳴った。

 今日は町内会で行っている防犯パトロールの当番の日で、相馬が迎えに来たのだ。

 玄関へ出ようとすると、桜が陽介の袖を引っ張った。

「パパ、今日は外に行っちゃダメだよ。宇宙人が来るんだから」

 陽介は驚いた。

「今夜だったのか」

 桜は無言で頷いた。

「なるほどね。で、何時ごろなんだ」

「8時22分」

「随分具体的だな」

 玄関のデジタル時計は7時10分を指していた。

「桜。前に宇宙人なんていないっていってなかったか」

「うん、私たちの宇宙にはいないわ。だから私は別のディメンス・シャンから呼んだの」

「ディメンス・シャン?」

「ディメンス・シャン」

 桜は大まじめで頷く。

 少し考えた後で陽介は言う。

「ひょっとして、ディメンション(次元)じゃないのか」

 そう指摘すると桜は顔を赤くして俯いた。

「そうかも」

 久々に見た子供らしい態度に陽介はちょっとほっとして娘の頭を撫でた。

「でも、大丈夫さ。宇宙人は悪い宇宙人をやっつけに来るわけだからパパは関係ないだろう?」

 桜は何とも言えない不安そうな顔をしている。

 陽介は苦笑いを浮かべる。

「おいおい。パパが悪い宇宙人だとでも言うのかい」

 やはり黙っている。

「分かった。それまでには帰って来るよ」

 と言うものの、その時の陽介は桜の話を全く本気にしてなかった。

 商談を成功させた自信が、彼から非現実的なものに対する不安を拭い去っていた。

 その為、彼は家を一歩出ると娘との約束を忘れてしまっていた。


 今週のパトロールは小石川植物園周辺だった。ここ数週間、不審者の目撃例が報告されている。植物園は四方を赤い壁に囲まれていて、その壁の5周したらパトロールは終わりだった。

4周目、新福寺の前を差し掛かった時にそれは起こった。

 その時、助手席の相馬は県庁職員だった頃の話(既に五回は聞いている)をしていて、運転席の陽介はおざなりな相槌を打っていた。

 突然、サイレンが鳴った。

 相馬が怯えたような表情で言う。

「何だこの音?」

 よく聴くサイレンと違い、妙に間の抜けた音だった。不安を誘うような音ではないが、それがかえって不安を誘う。

 陽介は車を止め、スマホを取り出して時間を確認する。

 8時22分。

「嘘だろ・・・」

 陽介は呟いた。陽介の手の中でスマホがブーンと言う音を立てた。思わず運転席の下にスマホを落とす。運転席の下からスマホは警報を告げた。

「ミサイル発射警報。ミサイル発射警報。当地域に着弾する恐れがあります。屋内に避難してください」

「奴ら、とうとう来やがった!」

 相馬が叫んだ。

 陽介も同じことを思ったが、陽介が思い浮かべた「奴ら」は相馬と全く別だった。

 スマホが音を立ててから5秒と経たずに空全体に光が走り、一瞬何も見えなくなった。

 相馬が悲鳴を上げて両手で頭を覆う。

 サイレンもJアラートも止んで街に沈黙が下りる。

 恐る恐る相馬が顔を上げて言う。

「おい、何が起きてる?」

「僕にも分かりません」

「あの光は何だったんだ。ミサイルか?」

「だとしたら僕たちはもう木っ端微塵ですよ」

 ワンセグは映らなかった。車の外は何の物音もしなかった。他の車の音すら聞こえない。自分たちが今乗っているNBOXの唸り声と相馬のゼイゼイと言う呼吸音以外何も聞こえなかった。まるで街から自分たちを残して人が消えたようだ。

 ラジオのチューニングは最初、どの局にも合わなかったが、唯一中央エフエムには繋がった。若いアナウンサーの叫び声が聞こえる。かなり狼狽しているようだった。呂律も回ってない。

「皆さん!先ほど特別警報が鳴りましたが、あれはミサイルでも地震でもありません。あの、え、えと」

 突然、ラジオから何か激しい音が聞こえ、音声が割れる。

「え?な、なに?あれ何なんだよ・・・あれ何なんだよ!」

 その後は音割れが大きくて聴き取れない。

 最後に「すっげ・・」と言い残してラジオは途切れた。

 相馬と陽介は顔を見合わせた。

「どうする?」

「取りあえず、直ぐ帰りましょう」

 陽介が車を発進させようとしたとき、空に何かが見えた。ほんの一瞬だが、激しい火の玉のようなものが空から落ちてくるのが見えた。それは小石川植物園に落ちた。隣の相馬がひぃ!と悲鳴を上げた。陽介は身をかがめ、爆風が来るのを覚悟した。

 しかし、何も物音が聴こえない。それがかえって不気味だった。

「ありゃあ、何だったんだ」

「分かりません!でも早くここから逃げなきゃ」

「ありゃあ、なんだ」

 相馬は呆けたような声で同じ言葉を繰り返すと、助手席のドアを開ける。

 陽介はぎょっとして叫んだ。

「ちょっと、相馬さん!」

 相馬は車を降りると、ふらふらとした足取りで植物園の方に向かった。

「ちょっと、何をしてるんです。早くこの場から逃げないと」

 陽介の必至の呼びかけにも答えない。明らかに相馬は正気を失っていた。一瞬、放っておいて帰ってしまおうかと陽介は思った。非常時にパニックになっている人間は見捨てて逃げるのが最適解である。そこで下手に救おうとすると共倒れになるのは映画でも現実でも変わらない。

 陽介は舌打ちをしてレバーをパーキングにした。エンジンはかけたままで。

 助手席のパワーウィンドウを下ろして、相馬に声をかけた。五回声をかけてそれで駄目なら逃げるつもりだった。それだけで今の相馬を止められるとは思ってなかった。あくまで後々良心の呵責に囚われない為だった。

 相馬はぶつぶつと何事かを喋りながら、赤い壁の前で壁からこちらを覗き込むようにして生えている化け物のような巨大な植物を見上げていた。最後の五回目で陽介は相馬の妻の名を読んだ。

「小春さんが待ってますよ」

「小春?」

 相馬がこちらを向いた。その瞳に正気が戻っている。

 よし、このままの調子で呼びかければ。

「そうです、何か異常な事態が起きてるんです。早く帰ってあげないと―」

 その時、壁の向こう側で植物がガサガサと音を立てて蠢いた。

 向こう側から何ががやってきた。巨大な木々より大きな何か。

 再び相馬は壁を見上げた。

 陽介も運転席から身を乗り出し、助手席の窓からそれを見た。

 天然記念物の怪物のような植物を掻き分け現れたのは、正に怪物そのものだった。

 身の丈は3メートルほどで、人の形をしている。だが全身が真っ白で、蛍光色の安っぽいおもちゃの人形のように全体がぼんやりと光っている。顔には目も鼻も、器官と呼べるようなものは一切なくのっぺらぼうになっている。

 怪物が挨拶でもするように右手を上げた。

「俺、夢でも見てんのかな」

 相馬がその言葉を言い終えることはなかった。

 瞬時に怪物の右手が槍のように伸びて、相馬の顔面を貫いた。

 それから何が起こったかは陽介には分からなかった。彼はアクセルを思いっきり踏んで、車を発進させた。後方ではバキバキと何かが折れるぞっとする音がしていた。

 陽介は相馬を助けることはおろか、後方で起こっているその無残な死を確認する事もなかった。きっといつか相馬を助けなかった事を後悔するだろうが、それは今ではない。

 そのいつかが果たして本当に来るのか怪しいこの状況では、この場から逃げる以外の選択肢などあるものか。


 千川通りでは惨憺たる光景が広がっていた。横転するトラックや無残に破壊された軽自動車を見て、彼は一瞬あの化け物がやったのかと思ったが違った。パニックになった人々がそこかしこで事故を起こしていたのだ。

 道路の障害物はあるものの、一応走行可能ではあった。結局、渋滞と言うのは人々がルールを守るから起きる現象なのだと陽介は知った。

 千川通りを制限速度30キロオーバーで走っていると、直ぐに立体交差点にさしかかった。そこでは大型トラクターが玉突き事故を起こしていたが避けて進む分には問題なかった。トラクターに潰された軽自動車の女性はどうやら生きているらしく、前を陽介が通り過ぎる時にこちらに助けを求めるように手を振っていたが、見捨てることには何の躊躇もなく、胸も痛まなかった。

 立体交差点を左に曲がり、播磨坂を下るとモリッツ・グロスマンから何者かがふらふらと出てきて道の真ん中でへたり込んだ。

 彼は急ブレーキをかける。

「おい、あんた!さっさと避けろ―」

 そう叫ぼうとして口をつぐんだ。

 その人影は真っ白だった。

 目も鼻もない、真っ白なおもちゃの人形がボヤッと光っている。

 よろよろと立ち上がると、白い人形が顔をこちらに向けた。

 その顔の真ん中に穴が開いて、そこから歯のようなものが見えた。

 不快な奇声をあげると、それは見る間に大きくなり、あの巨大なのっぺらぼうになった。

 陽介は車をバックさせようとしたが、後ろでも奇声と人々の叫び声が聞こえた。

 目の前の化け物が右手をあげた。

 どうする?などと悩む暇もなかった。選択肢は二つだけだった。アクセルを踏むか、呆けた顔のまま何もせず死ぬか。

「くそったれが!」

 アクセルを強く踏んだ。

 何か考えがあるわけではなかった。

 どうせ死ぬなら少しは奴らにダメージを与えてやろうと思っただけだった。

 化け物にぶつかる寸前、来るはずの衝撃の代わりにふわっという不快な感覚が陽介の全身を走った。

 化け物がまるで霧か何かのように車をすり抜けたのだ。

 驚く暇もなく、陽介の乗ったNBOXは前の電信柱に衝突した。

 エアバックと運転席の隙間から何とか這い出ると、陽介は地面に転がり落ちた。立ち上がろうとすると、化け物が目の前に立っていた。

 化け物はふわふわと実体のない、巨大な影になっていた。それはやがて霧のように飛散して消えた。

 陽介は娘が言っていたことを思い出す。

(確かあの子は別次元から宇宙人を呼んだと言っていたな)

 娘の言うとおりだとすると、奴らは文字通り別の次元の存在なのだろう。何らかの方法でこちらに危害を加えることは可能だが、それらは限定的であり何かの拍子に実体は消えてしまう。

 かと言って、倒せたとは思えなかった。多分、ここから消えたというだけだ。本体は傷一つついてないだろう。

 全て推測だがまあ、本当だろうとそうで無かろうとどうでも良い。とりあえず家に向かわなければ。

 右足を引きずりながら陽介は家へと向かった。


 家は灯りもついておらず、チャイムを鳴らしても誰も出なかった。

 しかし、葵の名を呼ぶと玄関の鍵が開いて、蒼白な顔の妻が現れた。

「ああ、あなた無事でよかった」

 家へ入り玄関の扉を閉めると、葵は彼を抱きしめた。

「ちょっと待ってくれ、痛い」

「あら、ごめんなさい」

「実は言うほど無事じゃないんだ」

 そう言って弱々しく笑う。

「君も無事でよかった」

 辺りを見回して直ぐに陽介は異常に気が付く。

「おい、桜はどうした!」

しーっと葵は言った。

「あのサイレンが鳴る前に、家から飛び出して行ってしまったの。『お母さんも一緒に来て』って言われたんだけど」

「じゃあ、桜はあの化け物ばかりの中に・・・」

 陽介はそっとカーテンを開けた。通りには誰も見えないが叫び声と破壊音は聞こえてくる。身体から力が抜けていくの分かった。陽介はふらふらとその場にへたり込みそうになったが、何とか近くの椅子に腰を掛けた。

「あの子、私のスマホも持って行ってしまったの。だから連絡が取れなくて」

 陽介は目をぎゅっと瞑った。

「ねえ、あなたのスマホで連絡取れない?」

「途中で置いて来ちゃったよ」

 正確には車の下だがとてもじゃないがそこまで戻る気はしなかった。

「とにかく、車で逃げようにも桜がいないんじゃ」

「車は壊れた」

「え?」

 蒼白な葵の顔がもっと白くなり、幽霊のようになる。

「宇宙人を倒すのに使った。もうあれじゃ動かない」

 葵もへたり込むようにして椅子に座る。

 しばらくの沈黙の後、葵が口を開く。

「あれは結局何?」

「分かってるだろ、宇宙人だ」

「あの子のいう事は全部本当だったって事?」

「その通り、君が言っていた通り―いや、君も信じていなかったな。あの子のいう事には何か別の意味があると思っていた。でも、違う。そのままだ。あの子は本当の事を言っていた。別の次元から宇宙人を呼んだんだ」

「何のために?」

「それもあの子が言っていたろう。地球環境を守るためだ。ハム・サーペンスは僕達だ」

「そんな・・・」

「元々あの子は論理能力や数的能力は抜群に優れてるが言語能力は低い。この間もディメンションをディメンス・シャンとか言っていたし、ホモ・サピエンスって単語を間違えて覚えてしまっても無理はない。

 あの宇宙人は遠慮なんてしないぞ。何せ連中にしてみればシロアリを駆除するような感覚なんだから。

 そして、僕らはホモ・サピエンス。肉を喰らい、メタンガスを排出しあらゆる方法で地球環境を破壊し、地球を侵略する悪しき宇宙人なんだからな。おまけに最近じゃ核戦争の準備にせっせと勤しんでいる。取り返しのつかないダメージを地球に与える前にさっさと駆除しようと正義の宇宙人が考えても無理のない話さ」

 陽介はふっと投げやりな笑みを浮かべた。

「確かにあの子は世界を変えたな。変えちまった。永遠にだ。覆水盆に返らず。もう世界は戻らないぞ」

 葵は首を振った。

「信じられないわ。あの子がこんな事したなんて。出来たなんて。あなたは良く信じられるわね」

「僕は現実主義者でね。見たものは信じる性質だ」

 陽介は痛みをこらえて何とか立ち上がり、よろよろとワインセラーの前に行くと、シャルル・ノエラ(二人の生まれ年のワインである)を取り出して葵の方を向いて掲げた。

「君も飲むかい?最後の晩餐と行こうじゃないか」

 

 外で破壊音と悲鳴が続く。何時自分たちの家が標的になるか分からない中、陽介と葵は冷蔵庫の生ハムととろけるチーズとトマトで質素な最後の晩餐をとった。最後のワインを飲み干すと陽介は言った。

「確かにあの娘はアインシュタインも顔負けだな。世界を終わらせちまった」

「ねえ、あなたは本当に葵が宇宙人を呼んだって言うの?」

「そうだよ。あの子の言う事を信じてやれって言ったのは君だろう」

「それとは次元が違いすぎるわ」

「そりゃ、本来の意味で?それとも文字通りの意味で?」

「こんな時にくだらない皮肉は辞めて。おかしくなっちゃうわ」

「悪いね」

 そこで陽介はある事を思い出した。

「そういや、僕はあの子らが作ってたアンテナを見て―」

 そこまで行って陽介は黙り込む。

「ねえ、アンテナって?」

 陽介は立ち上がって叫んだ。

「分かった!あの子は竹早公園にいるんだ」


 宇宙人に見つからずに竹早公園に行くのはさほど難しい事ではなかった。彼らはうすぼんやりと光っているので、夜であれば注意すれば避けて移動するのは難しくはなかった。

 また、そこかしこで悲鳴が聞こえるので、いささか遠回りになってもその方向は避けて行けば良かった。

「ねぇ、何があるの」

「アンテナだよ。そこに桜はいるはずだ」

 狂った夜にあって、竹早公園は日常を守っていた。

 まるでそこが聖域であるかのように闇と静寂に包まれていた。

 テニスコートの前に差し掛かった時、突然桜の声が聞こえた。

「パパ、ママ、こっち来て!」

 葵が小声で叫んだ。

「何処なの?桜」

「こっちだよ」

 そう言って桜はテニスコートの前、竹早公園の隅の空間に向かう。

 そして、消えた。

「桜!」

 陽介は狼狽する妻の手を引いて、娘の消えた場所へ向かう。

「慌てることはない」

 そう言ってその空間へ入っていく。

 ずぶずぶと嫌な感覚が身体を走ったが、中に入ればなんという事はなかった。


 葵は桜を見ると泣きながら彼女を抱きしめた。

 桜は少し怒ってるようで頬を膨らませていた。

「ちゃんとついて来てって言ったのに」

「ごめんね、桜」

「パパも電話に出ないし。私が電話に出ないと怒るのにパパっていっつもさ―」

「その前に」

 陽介が桜の話を遮る。彼女はむっとした顔をした。

「一体、これは何がどうなっているんだ?」

 ふくれっ面が得意げな顔に変わった。

「この中にいれば安全なんだ」

 桜はそう言って胸を張った

 そこは透明なドームのようになっていた。あの機械じかけの花を中心として、半径2メートルほどの円の中に三人はいた。

「これはアンテナじゃなかったんだな、桜」

「アンテナっていうか、まあ色々」

 桜はあいまいに返事をした。説明が面倒くさくて投げたようだった。

「なあ、桜。その―」

「なあに、パパ」

 ケロッとした顔の娘に陽介は何を言ったらいいか分からなくなって口ごもってしまう。

 聞くべきことも言わなくてはいけない事も山ほどあった。なので、目下の所最優先事項である事だけ聞いた。

「その、これから先どうすれば―」

 そこまで言った所で、白い人影が竹早公園の入り口から入って来るのが見えた。巨大化したものではなく、人より背が低い、子供のような背丈の宇宙人だった。

 陽介は葵と桜に囁いた。

「声を出すなよ」

 葵は口を両手で抑え、桜は口をチャックで閉める仕草をした。

 宇宙人は、顔を左右に振ると、こちらを向いた。目も鼻もない顔だったが、陽介はこっちを見られてる気がした。

 次の瞬間、陽介は戦慄した。

「おい、近づいてくるぞ!ここにいれば見えないんじゃなかったのか!」

 桜は落ち着き払って答えた。

「違うよ。ここにいると、私たちは味方だって事なんだよ」

 宇宙人はあっさり透明なドームの中に入って来た。

 葵は悲鳴をあげた。

 宇宙人の顔の真ん中に穴が開いた。そこから歪な歯のようなものが見えた。

 今度は陽介が悲鳴をあげた。

 悲鳴はあいさつだとでも勘違いしたのか、宇宙人は頭を下げた。

宇宙人が顔を上げると、穴の中の歯と肉が奇怪な動きをした。

「ありがとうございます」

 どういう仕組みか、穴から出てきたのは流暢な日本語だった。だが、宇宙人の喋る姿は酷くグロテスクで、葵が再び悲鳴を上げる。

 宇宙人はこちらに片手を差し出して言った。

「わたし達もあなた達と友達になりたいです。大丈夫、あなた達に危害は加えません。信用してください」

 生まれてこの方これほど信用ならない言葉は聞いたことがなかいな、と陽介は思った。

 どうするか迷っていると、頭上が明るくなった。

そして家族は光に包まれた。


 気づいたとき、陽介たちは真っ白な空間の中にいた。壁も天井も何処にあるか分からない。ただただ真っ白な空間だった。途轍もなく広いようにも見えるし、狭いようにも見える。

 葵は不安そうな顔で言う。

「私達助かったのかしら」

「とてもそうは思えないな」

 陽介がそう答えると、2メートルほど先の空間が突然開いて中から宇宙人が現れた。

「こちらへどうぞ」

 またあのグロテスクな発声をしたが、今度は誰も悲鳴を上げなかった。葵は口を押えて悲鳴を出さないようにしていた。

 穴の向こう側には通路が広がっていた。これも白くぼんやりとしている。

 宇宙人が手招きしている。

「我々は皆さんを歓迎しています」

 

 長い通路を何時までも続いている。宇宙人が先頭を歩き、そのすぐ後を桜がついていく。

 夫婦は2メートルほど離れて後をついてく。

「ねぇ、これからどうなるのかしら」

 葵がひそひそと声を出すが、陽介はどう答えたらいいか分からず、黙っていた。

「旦那さんはそこで止まって下さい」

 宇宙人が突然振り返って喋った。陽介は驚いてその場に制止した。夫婦の間に透明な壁が下りてきた。

「あなた!」

 葵が叫んだ。

 陽介は壁を壊そうとしたが、壁は何度殴っても何の感触もない。衝撃がすべて呑み込まれていくようだ。

 透明な壁の向こう側で、宇宙人が娘に何事か話しかけていた。

 娘は困ったような顔をして言った。

「ママは良いけど、パパはダメなんだって」

 こちら向かって控えめに手を振った。

「ごめんね、パパ」

 陽介のすぐ後ろで、ブーンと言う機械音が聴こえた。

                                            
                    了

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