比喩「鯨の群れに隠れるように」

はじめに

 わたしたちの“note“に「月兎紬」と名乗る詩人が出現したのは2ヶ月ほど前、すなわち2024年4月のことでした。以後、詩を中心に頻繁な投稿を見せています。作品のコメント欄の本人のコメントによれば、掲載作品には、新作と過去作が混ざっているようです。
 その最新投稿作品『ワンダリング』に驚かされた(驚かされたのはこの作品に限らないのですが)ので、今回筆者としては原則を破り、珍しく、noteの掲載記事をめぐって投稿することにします。(同じく作者のコメントによれば、これは過去作からの投稿とのことです。)

   https://note.com/large_borage7537/n/n95f896499775

驚きの比喩

 『ワンダリング』という詩は「怖くて羽根も開けない/飛ぶ空があるかもわからない」という2行で始まります。(決して長い作品ではないので、ここに全文を再掲してもいいのでしょうが、まずは実際に月兎紬のページを訪れることをお薦めします。)続いて「錆びた釘が抜けないように」という、これも大変面白く優れた比喩を用いた行があり(ほぼ全文抜き書きしています笑)、4行目に衝撃の1行が現れます。

  「鯨の群れに隠れるように

 日本語で詩歌の類が出現して以来、おそらく私たちの時代に初めて出現可能であった比喩表現かと思われます。

この比喩の環境

 この詩は、この後「愛が何かと叫んだら/誰が答えてくれるのか」という2行に続いて「帯電しては知らないふりで/なかったことにしてきたな」とあり、おそらくここまでを読んだ多くの人が、話者のうたう感情を明瞭に捉えるのではないかと思われます。すなわち、「相手に(そして誰にも)打ち明けることなくやり過ごしてしまった密かな恋情」というようなものではないか、と筆者は考えます。(もちろん、あくまでも筆者の個人的・主観的な理解にすぎません。これは少し踏み込んだ解釈というべきで、本当はここまで語りたくはないところですが。)

 この詩を味わうには、この言葉の流れと一体になってさらさらと(しかしおそらく話者の中では時にややヒリヒリと)流れてゆく記憶の有り様を感じ取りたい、と筆者は思います。
 換言すれば、話者の日常に流れる時間の中に繰り返し明滅的に蘇る恋情とその対象の喪失感、現在と過去との二様の時間の重なり流れるせつなさを感じ取りたい、と思われます。(果たして実作は、「画面に残る言葉の雨を/記憶に積もる想いの山を/心に居座る貴方の影を」と続きます。「言葉の雨」、「記憶に積もる」、この「雨」にも「積もる」にも時間の経過が映されます。)それが言葉の姿によってはっきりと浮かび挙げられている点が、極めて斬新な作品ではないか、と筆者には思われます。

「鯨の群れに隠れるように」

 さて、そのような作品の中での「鯨の群れに隠れるように」です。
 これが何の有様の比喩であるか、もうそこを語るのはやめておきましょう。

 最初に書いたように、これは、私たちが「鯨の群れ」の様子を映像を通して見ることができるようになって初めて出現した比喩でしょう。

 この比喩の魅力の一つは、話者が「帯電しては知らないふりで/なかったことにしてきた」心理や行動の卓抜の表現になっていることです。
 鯨の群れが一斉に泳いでゆく様を映像で見ると、私たちはその鯨群中の一頭になったかのように他の鯨と一緒に進んでゆくしかないように感じられます。「鯨の群れに隠れるように」した話者は、自分が鯨の一頭だと思ったか、それとも鯨よりもっと小さい生き物と感じていたか、そこは定かではありませんが、進んでいく鯨の群れの中にいて、このままこうしてみんなに紛れみんなの動きに合わせて進んでゆこう、と思った(いや、思ったわけではないのに結果的にそうしてしまった)もののようです。なお、ここで筆者が思わず用いた「紛れる」を採らず「隠れる」が選ばれた理由も考えてみたいです。たまたま「紛れる」でなく「隠れる」が作者の心に浮かんだ、と言うようなことではないし、仮にそうであったとしても「隠れる」が用いられた必然性はあると言わねばなりません。(一つには、その恋情を「隠し」ておきたかった話者の心理の反映でもあるでしょう。)

 この時、鯨の群れは、話者にとってまず圧倒的に強力で、しかもそこに紛れていればとりあえず安泰に過ごしていけるように思われ、逆にそれから外れるとこの先どんな苦しい運命に晒されるかわからないと思える存在です。その群れに「隠れ」ていれば、攻撃に晒されることも失敗を指弾されることも無さそうです。
 ただ、この詩が生まれるのは、そこに「隠れ」ることが明瞭な意志による決断の類でない、という自覚があるからです。「怖くて羽根が開けない/飛ぶ空があるかもわからない」、その一種の怯えの中で本能的に身を委ねてしまった優柔不断さが今も気にかかるのです。
 一斉に進む鯨の群れの中の一頭一頭の鯨は(またはそこに「隠れ」ている他の生き物がいるならその生き物も)実は自分がなぜこの仲間たちと一緒にこうして波を越えて進んでいるのか知らないのではないだろうか、と思われます。
 そして、それは個々の鯨個体に限りません。この群れ全体が、なぜ自分たちがこのように遥々と旅をしているのかを実はほとんど知らないに近いのではないか、とさえ思われてきます。それは、「怖くて羽根も開けない/飛ぶ空があるかもわからない」ままに、群れの中に「隠れ」てみれば一層強く感じられるものではないかと思われます。この、個々の鯨の一種の「盲従性」と、そして群れ全体にも窺われる一種の「盲目性」、この二重の盲信性に対しておそらくは鋭敏にならざるを得ない自覚が、話者の「なかったことにして来た」恋情へのこだわり、それを黙殺しようとして来てしまったことへの悔恨に近い心情を強めるでしょう。(「なかったことにして来た」)
「怖くて羽根も開けない/飛ぶ空があるかもわからな」かった話者にとって、あらゆる障害をものともせず営々と堂々と悠々と進む「鯨の群れ」の迫力は圧倒的です。どうしてこれに隠れずにいられるでしょう。そこに「隠れ」ていれば、あたかも自らも「進行の大義」を体現しつつあるような錯覚さえ持てるかも知れません。何しろ鯨の群れなのです。

言葉における比喩とは

 さて、このように鮮明な比喩である「鯨の群れに隠れるように」ですが、もちろん、この比喩にはもう一つ、見落としてはならない魅力があります。

 それは、注意してこの作品を音読してみれば誰でも気づくように、この比喩の言葉そのものが鯨の群れの泳ぎ進む様の表現になっていることです。
 この直喩は、国文法的に言えば3文節からなっていますが、とりあえずはこれを大きく二つの部分から成ると考えるのが、音数律上、自然かもしれません。すなわち、「鯨の群れに/隠れるように」です。既にこれだけで、この言葉に一種の動きが生じていることが感じられます。あの、ゆっくりと海面に背を見せたかと思うと、またゆっくりと海中に身を沈める大きな泳ぎの抑揚は、2拍子でしょうか。この比喩をさらに分割して「鯨の/群れに//隠れる/ように」と読んでみると、これが実に海中を行く鯨の浮かび上がっては沈む泳ぎそのものに呼応した表現であることに気づきます。
 さらに言えば、「ノムカクレルヨウニ」と、強拍の頭にカ行音が力強くはたらき、弱拍部分にしなやかなラ行音がはたらき、後には「ニ」の柔らかなディクレッシェンドがはたらき、と、鯨の群れの迫力と弾力に満ちた泳ぎが一層効果的に表現されています。

おわりに

 恋愛感情は古来詩の源泉そのものでした。夥しい言葉が、ありとあらゆる恋愛の状況や側面を歌い上げて来ました。恋愛対象への熱情や愛おしさ、また会えないせつなさや恨みや別れの辛さ、想いを打ち明けられないもどかしさ・辛さ、共に過ごす歓喜の時間、などなどを歌った詩歌作品は数知れません。
 しかし、そっと秘めたままさりげなくやり過ごしてしまった恋の記憶が、折に触れ、遺憾の念を伴って日常生活にちくちくと蘇る、その時間を捉えて歌った詩人は決して多くなかったのではないでしょうか。筆者は詩に詳しいわけではありませんが、この詩を読んだ時、「初めて出会う情緒」の感覚がありました。私たちは古来誰もが同じような感情や心情を抱いて来たのであるにしても、詩人に歌われて初めてその微妙なあり方に気づくものだと言えます。

さりげなく言ひし言葉はさりげなく君も聴きつらむそれだけのこと

石川啄木『一握の砂』

ここに表された単純明瞭な情感と、『ワンダリング』の複雑に錯綜する時間の様相、その落差に、私たちの情感の普遍性と、その情感の記憶が絶えずノイズに刻まれている私たちの日常とを味わいたい、と思います。

 月兎紬は、おそらく明確な方法認識のもとで詩を作り発表している詩人です。実態はどうあれ、ここまでを見ればこれがほとんど玄人の詩人であることは疑いようが無いと思われます。その詩風なり詩境なりには様々な意見や感想があることでしょう。

 しかし、この「鯨の群れに隠れるように」は、好悪を超えて記憶するに値する比喩ではないかと思います。
 30年後の日本の若者の誰彼が、「オレもう鯨の群れに隠れるわ」とか「そうなっちゃたらもう鯨の群れだよな」、さらには「ここはもう鯨だな」などと慣用表現として活用していたとしても私は驚きません。ただ、その使用にはかなりの自己把握力と状況認識力と言語センスとが試されるとは思いますが。

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