比喩 「アブラゼミもカラッと揚がってしまいそうな」


はじめに

 noteに「坂本」という詩人がいます。2023年3月にこのnoteに現れて以来、旺盛な投稿を見せています。先頃投稿された『ドレッドに絡まるへんなむし』という作品を読んだところ、衝撃の比喩に出会いました。前回の拙稿『比喩「鯨の群れに隠れるように」』は全く突発的な一回限りのつもりだったのですが、今回の坂本の比喩もどうしても黙ってはいられない気分になります。再び例外的にnote投稿に関する記事を投稿致します。取り上げる比喩を含む作品は次のものです。
    https://note.com/famous_broom5/n/nb045aae6c61b

「アブラゼミ」の普遍性と特別性

 ここで取り上げるのは、タイトルに挙げた通り

  アブラゼミもカラッと揚がってしまいそうな

です。目下日本語を母語として生活している人のうち、この比喩が何を言おうとしているのかわからない、という人はどのくらいあるのでしょうか。筆者は、そういう人が皆無だとは思いません。
 この比喩がわかるためには、アブラゼミという昆虫名を知っていることと、その実物を見たことがあること、そして少なくとも一度は、アブラゼミの鳴いている声?と様子を目のあたりにした体験があることが必要かと思います。できれば、そのアブラゼミが一匹だけではなく、周囲に多数いて一斉に喧しく鳴いている様に触れたことがあり、さらには自分の手でアブラゼミを持ってみたことがあればなお望ましいでしょう。
 このような条件は、ほとんどすべての日本語常用者が普遍的にそなえているもの、と筆者などはうっかり思い込んでいるふしがあります。実際、筆者の幼少の頃の田舎では、アブラゼミの鳴き声が無い真夏などありえないものでした。詩人坂本もおそらく同じ感覚ではないかと思います。

 筆者のアブラゼミの記憶は5、6歳頃の夏に突然始まるのですが、アブラゼミの実物を見るのとその名を知るのがほぼ同時でした。
 裏庭の太い欅の幹にとまっているこの蝉を見、同時にその鳴き声を聞いた時、アブラゼミという名前が余りにしっくり来ることに驚いた記憶が、今も蘇ります。その羽根の色・柄と質感が、まさにアブラゼミという名で呼ばれねばならず、しかもその騒がしい鳴き声は、バチバチとジャージャーが混ざったような、まさに高温の油で何かを炒めるような音と感じられました。実際に捕えてみると、水をよく弾きそうな羽は思いのほか厚くて硬く、肢の鈎の強力さもあってなかなか手強い虫であることに驚きました。何かの名前とその名で呼ばれるものとの見事な符合ぶりに感嘆した最初の経験であり、そして以後、これ以上の巧みな命名には出会っていないような気がするほどです。この蝉を最初に「アブラゼミ」と呼んだ人に、今もなお深甚なる敬意を覚えます。
 ここで問題にする比喩は、そのように、筆者にとって特別な名であるアブラゼミという名詞が出てくる比喩です。

この比喩の環境

 本節は、問題の比喩に無関係とは言えませんが、比喩の持つ衝迫性に比べ、あまりに小うるさい議論であるとの誹りを免れないかと自覚します。単にこの比喩が置かれている言葉環境を確認しているに過ぎませんので、関心が無ければお読み頂く必要は全くありません。

問題の比喩が現われる詩『ドレッドに絡まるへんなむし』は、

今日は風がやけにつよい
はじのほうからめくれる記憶
汗ばんでうまく集中できない
記録的な暑さになるらしい

坂本『ドレッドに絡まるへんなむし』冒頭

と始まります。

 「今日は風がやけにつよい」この書き出しは、わたしたちにどんな印象を与えるでしょうか。
 ごく当たり前の文章の書き出しと思っていいでしょうか?

 筆者自身は、この書き出しに、ほとんど意識はしないものの、どうやら微かな緊張を覚えるようです。
 なぜでしょう。
 第一に、何よりもこの一文が妙に無駄が無く(無さすぎるほどに)、簡潔だからです。
 第二に、文末が、「過去」の表現になっていないからです。すなわち、この文章は「現在」を叙述する、という体で書かれています。それ自体は特段珍しくはありません。しかし、「今日は風がやけにつよかった」と書いてあれば、読み手の気楽さは随分異なります。これは既に決着のついた内容が語られるのだ、と思えます。それに比べ、「今日は風がやけにつよい」は、この詩の話者(国語科教育では「作者」と呼ばれます)が、目下進行中の眼前の事態を引き据えて語るぞ、という覚悟を持っていることが感じられます。これは、とりわけ詩において、さほど稀な事ではないでしょう。が、大抵の場合は、作者自身はその叙述される事態の現場にいるわけではなく、机上なりキイボードなりで文章を綴っているけれども、あたかも語られる現場にいるかのように語ることが多いでしょう。
 今、便宜上、そのような話者を「語られる事態が現在進行中であるかのように叙述するために虚構された話者」と呼んでみます。読んでいくとはっきりして来ますが、この詩の話者は、そのように虚構された話者とは趣を異にするようです。すなわち、この詩には、作者と話者の乖離がほとんど無いように見えます。作者は話者に、忠実に現在の自分の言葉を語らせようとしているように見えます。(あるいは、話者が自らの言葉を作者に忠実に書き取らせようとしている、と言った方がより正確に感じられるでしょうか。)そのことは読み進むにつれてはっきりするのですが、既に1行目の簡潔さから、その気配が感じられます。これは話者が「作者の現在」を語ってゆく詩だ、あるいはこれは、「話者の現在」を作者が正確に書き留めてゆく詩だ、と言ってよいでしょう。
 第三に、この1行目の語調が極めてはっきりしているからです。これはもちろん第一の点とも関連しますが、簡潔さだけではありません。むしろ、簡潔さの印象を強調する要素があるからです。「今日は風がやけにつよい」(センテンス1)これを、語順を若干変えて「今日はやけに風がつよい」(センテンス2)としてみましょう。何が違うでしょうか。(所謂「時枝文法」に詳しい方はここで両センテンスの指示内容の違いを語れるところでしょうが、今はそれに踏み込みません。)詩的効果として重要と思われる点は、センテンス1における「風が」という文節の立ち上がりの調子の高さ、そして「やけに」という副詞の修飾先が単文節「つよい」になる事による調子の強さ、です。「今日は風がやけにつよい」(キョー・ワ・カゼ・ガ・ヤケ・二・ツヨ・イ)この2音+1音で繰り返される1行は、明瞭な2拍子8拍の文になっています。

 その1行目に続く2行目が、「はじのほうからめくれる記憶」です。
 ここに露骨な詩的レトリックがあることは明らかでしょう。第1行は現在の気象の叙述だったはずです。ところが、第1行の「つよい風」で、第2行では、はじのほうから記憶がめくれる、という展開になっています。この詩の冒頭2文は、話者の置かれている現在の気象状況と話者の心理状況があたかも一つのセットであるかのように置かれています。

 第3行、「汗ばんでうまく集中できない」。誰が集中できないのか?もちろん、話者が、でしょう。では、何に集中できないのか?それについては語られません。語らなくてよい、と作者は判断しています。では、今、集中すべきことが話者にあるとすれば、それは「何に」でしょうか?ここまで、話者は「語る」以外に何もしていません。とすれば、今集中すべきなのは「語ること」以外に無いでしょう。これが作者の語りだと思いたい読者なら、ことはさらにハッキリして、「この詩を書くこと」です。それに「うまく集中できない」と話者または作者は言います。

 第4行。「記録的な暑さになるらしい」。
 この1行は、私たちにどんな詩的情報を与えるでしょうか。
 作詩のごく初歩的心得としてしばしば言われることの一つに「短く、簡潔に、効果的に」というのがあります。この行は果たして必要でしょうか。この第4行は、詩を冗漫にするだけの無駄な情報ではないでしょうか。
 もし、これが「作者なり話者なりの置かれている環境を呈示してこの詩への理解を深める」目的で置かれているなら、この行の意義は甚だ怪しいと言えるでしょう。例えば第3行と第4行をひとまとめに簡潔に言えないのか、と言いたくなるかもしれません。
 しかし、「作者/話者の現在」という問題での考察から、私たちはこの行をもう少し違う角度から捉えることが可能です。第3行「汗ばんでうまく集中できない」が「作者/話者の現在の意識の声」であるとするなら、この「記録的な暑さになるらしい」も、「作者/話者の現在の意識の声」であると捉えることができるのではないか、と思われます。
 これ以降の詩行を辿って行くと、この詩には「作者/話者の声」があるだけで、それに関するどんな「説明」も全く無いことに気づきます。
 実は、ここで「記録的な暑さになるらしい」という話者の意識の声が発せられたことで、「暑い夏」をめぐる話者の意識が声になってずるずるずるっと出て来る、と言えるのではないでしょうか。

 次の3行はまず「気休めに」と、この詩では珍しく一文節のみの1行をおき、「冷や奴をはしでつっついて/かつお節飛ばして遊んでた」の2行が置かれます。この「気休めに」以下で、ここまで「現在」の同時中継という緊張感を強いられて来た読者にとっても一息つける、つまり「休める」事になります。(「遊んでた」と、過去の助動詞が初めて出現します。)ただし、この3行がそういうことのために置かれているのかどうか、筆者にはわかりません。とりあえずこの3行から、作者/話者の生活の一端が伺われることは確かでしょうが、そういうヒントをここで出す必要を作者が感じているかどうか(ということは、ここに話者の語りの意図とは別に作者の作詩意図がはたらき、作者と話者の分裂が見られるのかどうか、ということになるのですが)、筆者には不明です。この3行については特に、読者諸賢のご見解を俟ちたいところです。

さてここからです。

いつからこんなに夏が疎ましくなったんだろう
あんなに待ち遠しくてワクワクしたのにな へんな
匂いがする海水浴場
テノナルホウヘスイカワリ
ブランコしかない児童公園
ハウリングがひどいラジオ体操
着色料満載の炭酸飲料
足がもげたクワガタ
放ったらかしの宿題
楽しい事ばかり捏造して書く絵日記
ロケット花火を
飛ばしあってぶつけあって
あっぶねえな 顔の横飛んでったって
腹かかえてゲラゲラ笑ってた
みんなどこにいったの

坂本『ドレッドに絡まるへんなむし』第8〜22行

と、「待ち遠しくてワクワクした」少年時代の夏の記憶が綴られます。
 この一連の、いわば「夏の風物詩」の列挙に何か特徴を挙げるとすれば、何もかもが一種の「不完全さ」を帯びているように見える、換言すればどれもこれもが何かしらの欠如を背負わされているように見える事でしょうか。へんな匂い、ブランコしかない、ハウリングがひどい、着色料満載、足がもげた、放ったらかし、捏造。「話者の現在」が捉えるこうした不完全さの中で、語られる少年は何ひとつその欠如を不満とせず夏という自由を満喫していた、むしろ夏の全き自由にはそれら不完全な道具立てが不可欠だった、と詩行は語るように思われます。
 一見無造作に並列されたこれらは、読めば読むほど、これ以外に一字一句付け足されてもいけないし削られてもいけないギリギリの姿で、これ以外の順序は絶対にあり得ないように配列されているように見えます。この辺りは、その無造作の様相も含めて、詩人坂本の隠された力量を示すものでしょう。
 この、不完全な風物の羅列は、かつての夏の消滅を惜しむものであると同時に、やがて出現する比喩の伏線としてはたらいているように筆者には感じられます。

 この後、話者は、楽しい夏の消滅を惜しみ、夏を厭う現在を語ります。
 その現在の、自らを取り巻く社会状況についての不満を「何だこの茶番と既視感」、「ズルっこするやつばっか」と言い、「生き残った人は無念さを背負って/それでも生きていかなくちゃならないから 冷蔵庫の麦茶飲んで/また出掛けていくよ/行きたくない場所にだって」と言い、続いて

今日一日分の疲れと
とめどなく溢れ出す泣き言だって
叫びたい苛立ちだって
こんな時なのに近所の迷惑を考えて
枕に顔を埋めて処理する
罰ゲームみたいな人生だって
こいつバカだなって笑ってくれたら
なんぼか救われるよ

坂本『ドレッドに絡まるへんなむし』第2連末尾 

という、この詩人得意の、謂わば「殺し文句」が置かれて第2連が終わります。

「アブラゼミもカラッと揚がってしまいそうな」

 この後、連が改まって、第3連がこの衝撃の比喩から始まります。

アブラゼミもカラッと揚がってしまいそうな7月某日 ただ生きるために鳴きまくる これくらいシンプルだったらいいのにな 弛緩したカセットテープで聴く
ノーウーマンノークライ
女よ
泣くだけ泣いたら
あとは笑うだけだ

坂本『ドレッドに絡まるへんなむし』第3連 

 ここでもう一度連が改まり、第4連は「難しいことなんか/なんもない/何もないよもう」の3行です。そして、ここで詩が終わります。
 この第3連は、進むにつれて一種の凄みが出ているように筆者には思えますが、その点を客観的に分析する力量は筆者にはありません。そして、この全体をどのように捉えたら、この詩をわたしたちの中に最大限に活かす事になるのか、それも残念ながら筆者の能力を超えた問題です。これら、是非とも明らかにされるべきものと感じられる問題に関しては、今後、優れた知見を有する方々の論評に期待したいとの思いがしきりです。

 ただ、「アブラゼミもカラッと揚がってしまいそうな」というこの比喩は、決して大袈裟でなく、この比喩一個だけでこの詩を読む価値がある、というほどの比喩だと筆者は感じます。
 筆者の狭い読書範囲の中では、太平洋高気圧に覆われた高温晴天の夏の1日(冷や奴の叙述のせいで、おそらく午後の、そして比喩内容から最も気温の高い時刻あたり、と思われます)の空気をこれほど鮮明に捉えた比喩は他に思い当たりません。
 冷静に点検すると、アブラゼミが揚がる、とはどういうことか、そこは説明などもちろんありません。しかし、「アブラゼミ」という名称中の「あぶら」のせいで、「油で揚げる」という言い方が不要になり、しかも油で「からあげ」にする表現が日常的に用いられていることから、「アブラゼミもカラッと揚がりそう」と言えば、「アブラゼミをもし油で素揚げにするとさぞかしカリカリにカラッと揚がりそうに思える」との意味が十ニ分に伝わります。いえ、ここは蝉を油で揚げるわけではもちろんないでしょう。現に、蝉が油で揚げられているかのように高温の大気の中でジャージャーバチバチ言っている。もうじきカラッとカリカリに揚がりそうな風情だ。蝉に対してはやや残酷な空想になると言うべきかもしれませんが、あのかまびすしい蝉の鳴き声がバチバチジュージューと揚げられる音を連想させ、カリカリにこんがりと揚がったアブラゼミが目に浮かぶような気がします。これが、何の比喩かと言えば、「7月某日」の気候・大気の状態の比喩です。この7月某日の現在、蝉の声が聞こえるという情景は、実はこの詩行のどこでも言われてはいません。これこそ、「短く、簡潔に、効果的に」のお手本のような言葉の姿と言えないでしょうか。

おわりに

 坂本という詩人は、丹念に追跡すると、詳細は差し控えますが、かなりの詩歴を有する詩人であり、独自の模索の中で強固な詩観を樹立していることがわかります。既にnoteに夥しい詩を発表しており、その中には今日の日本語の類稀な使い手と思わせる詩はもちろん、今日の日本語生活者の精神的退廃と衰微を鋭く撃つ詩篇の数々を見出すことができます。この詩人は、noteという発表の場に最適の形態を獲得した詩人の一人であり、noteの利点を最大限に活用している詩人の一人であるかと思います。数々の傑作のタイトルをここに挙げることは控えますが、もし、未読だという方々は、坂本に容赦無く鞭打たれること/べろべろに可愛がられることを覚悟の上で繙いてご覧になり、権威などと無縁な場で強烈な光線を放つ傑作を発見する喜びに灼かれて頂きたいと念願します。

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