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太平洋戦争直前のパラオで刹那に輝いた沖縄空手|Report

戦時下という難しい時期ではありますが、沖縄空手は南洋のパラオにも進出しています。いや空手普及が本来の目的ではないので、進出という言葉は適当ではないかもしれません。

沖縄からの労働者の受入先だったのは南洋興発株式会社というところです。「北の満鉄、南の南興」といわれ、南洋庁や日本海軍とも関係が深く、南洋群島の委任統治のサポートを担っていたと言ってよいでしょう。サトウキビ栽培や製糖工場での労働、カツオやマグロの漁業などで気候や産業の似た沖縄県民の経験が見込まれました。1939(昭和14)年の時点で、南洋群島の日本人労働者7万7,257人中、沖縄県労働者は4万5,701人で全体の59.2%でした。

太平洋戦争前のパラオには、赤嶺嘉栄(上地流)、仲本興正(少林流)、国場長扶(少林流)、本部朝茂(本部御殿手流)、玉城寿英(剛柔流)、泉川寛喜(剛柔流)、山川宗行(剛柔流)、玉城文吉(上地流)ら錚々たる空手家がいたそうです。彼らは1939年に、1800円の寄付金を元手に「沖縄空手道協会」を設立し、コロール市の国場長扶宅を道場にして、空手の稽古や演武会などの活動を始めています。会長は仲本興正、副会長は山川宗行でした。

出典:『精説 沖縄空手道—その歴史と技法』上地完英著、1977年

大日本武徳会主催の剣道、柔道、弓道、薙刀など他の武道と合同の演武大会では、型や組手のほか、当身の解説などが行われたようです。剛柔流の玉城寿英は突きで生の椰子の実を叩き割り、上地流の玉城文吉は気迫のこもった型を披露した、と報告されています。パラオでは角力大会やハーリーなども行われていたそうです。ただ当時、現地住民に対する空手指導があったかは不明です。

上記の空手の猛者たちのなかの赤嶺嘉栄という人に注目してみます。上地流の開祖・上地完文の和歌山時代からの弟子で、兄弟子の友寄隆優から手ほどきを受け、相当な実力者だったと伝わります。角力も強く、沖縄県相撲連盟(沖縄県角力協会?)の会長を務めたこともあります。実業家で、氏が残した嘉栄産業ビルは今も那覇市久茂地2丁目で現役です(ステーキ店のサムズマウイが入居しているビルですよ)。

記録の断片から想像するに、親分肌で面倒見のよい人物のようで、パラオ時代には自警団的な活動をしていたこともあるようです。終戦後に戦地から引き上げたものの、本土に足止めされていた沖縄県出身者の処遇改善を、GHQや日本政府に対し要求する窓口となった「沖縄人連盟」にも名を連ねていました。

暴力団である旭琉会のトップ、又吉世喜や喜舎場朝信の葬儀に際して、新聞の訃報欄に友人代表の一人として名前が掲載されています。今ではコンプライアンス上の大問題になりそうですが、任侠界であろうと「人の付き合いに貴賎なし」ともいうべき器量の大きさで清濁を併せ呑んだ、豪放磊落なタイプだったのでしょうね。

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太平洋戦争中、パラオの沖縄県出身者3059人が現地で日本軍に招集され、664人が戦死したと報告されています。ご冥福をお祈りします。

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