見出し画像

腸がちぢれるほど美味かった沖縄そばの思い出|Report

『那覇今昔の焦点』という本がある。昭和46年発行である。沖縄文教出版編集部編となっており、当時の著名人や識者が書き下ろしている。

この本のなかに、徳田安周による「県庁時代の那覇」という章がある。那覇の地区別に思い出をつづっており、沖縄そば屋が登場する箇所があるので、その記述を抜き出してみよう。当時の世相がうかがえる。

通堂町

税務署の近所に民衆食堂というそば屋があり、沖仲仕の連中がよくたむろして泡盛をなめ、そばをすすり、一日の疲れをいやしていた。そばは意外にうまく、かまぼこの切り方も大胆卒直(原文ママ)で、労務者の胃袋を満たすのに充分であった。

石門通り

三角そば屋は、その名のとおり、三角形に突き出しており、突出した飾窓に黄色いそばを器に盛らずに、ザルそばのように麺をひろげて展示し、それと並んで氷ぜんざいの“金時”や“雪”と称する氷のぶつかきを山盛りにしたのが陳列され、田舎からくる人々の目を奪った。<後略>
そばの上に盛ったかまぼこと香辛料のヒファチの味は、もう戦後どこを探してもない特殊な味だった。戦後ややこれに近い味覚を誇る「万人屋」が牧志にあったが、惜しむらくは数年前、のれんを畳み、閉店してしまった。

東町

山形屋向いの手芸店「メリー堂」の隣りは「万人屋」「朝日屋」というそば屋で、ここで一杯十銭のそばをすすっていると、そばの汁が、サイレンの強烈な音でさざ波が立つほどだった。一杯では足りなくて五銭の半そばを注文する。すると、給仕の小僧が「半スバティーチ!」と階段の下に向って怒鳴る。炊煙モウモウたる台所から、折返し「半スバティーチ!」という返事を怒鳴り上げる。OKという確認のサインだが、かまぼこ、ビラ、赤ショウガ、豚肉をめんの上に盛り、いまのそばとは比較にならぬほどうまかった。
「万人屋」がうまいか、「朝日屋」がうまいか、賭けしたこともあるが、大勢は「万人屋」に傾き常に優位を保持していた。ごていねいにかまぼこや肉片の数まで調査した友人もいた。
出前も迅速で、七つ八つも岡持ちに入れて、自転車のハンドルを左手でにぎり、右手に岡持ちを高くあげて、ツバメのようにスイスイと雑踏の中をくぐり走りぬける芸当は神技に近かった。この出前持ちの技術は、閉店後、松山町の那覇尋常小学校の校庭で、先輩出前持ちが、実際にそばわんに水を盛って、実地訓練をした。そば屋には粟国島出身者が多く、郷党意識から、後輩の育成指導には、とくに力コブを入れているようだった。だからこそ、あの交通煩雑な大門前通りを、全速で走っても衝突しない神技を身につけることができたものと思う。

波之上界隈

さてこの鳥居をくぐって参道をゆくと、すぐ右手の角にそばの「井筒屋」。量の多いので有名。石門に近い前の毛通りの豊そば屋とならんで、定評があった。

久茂地町

荷馬車ひき相手のそば屋があり、物量一点張りの大山盛りだったが、味は意外にも、郭びた(原文ママ)おいしさがあり、生豆腐にカラスグワー煮芋と庶民的な味覚が取柄だった。

美栄橋

青ペンキでガラス戸のワクをふちどったそば屋のそばは麺が非常にうすく、たよりにならなかった。<後略>
大黒屋の隣りは「香蘭食堂」で、ここのそばは高級といわれるとおり、肉や卵、野菜など、いまの五目そばの厚型のような豪華版だった。値段も高く、一パイ十五銭だったと思う。県庁でも課長以上が香蘭のそばをとり、主任属以下は、那覇署前の安次嶺そば屋の十銭そばでガマンしたようである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?