最強のラテン音楽を求めて|立つんだジョー・アロヨ編|Liner-note
今日はコロンビアの二人の偉人、フルーコとジョー・アロヨをネタにした記事を書きたい。コロンビアサルサを語るなら避けては通れない道だ。…なんだけど御大すぎて、実はあまりなじみがないんだ。だからサクッと紹介しよう。
フルーコ(1951年生まれ)は通り名で、本名は…長いのでやめておこう。キューバに血筋を持ち、若い頃からティンバレス奏者としてキューバ音楽を演奏していた。ファニアに影響を受け、1969年にフルーコ・イ・スス・テソスを結成する。テソは「傑出した」という意味から派生していて、「宝物」と訳される。名門フエンテス・レーベルに所属した。
1973年、そのテソスにボカリスタとして加入したのが、当時17歳のジョー・アロヨ(1955年生まれ、故人)だ。カルタヘナ生まれのアロヨは、幼い頃から売春宿で歌うなどキャリアを積んだ苦労人。当時から甲高い声の奇抜なボーカルスタイルは目立っていた。
たぶん1974年にフルーコは、テソスと並行してラテン・ブラザーズを結成する(orテコ入れする)。というよりフエンテスにそそのかされた感が強い。だってテソスのメンバーがごっそり掛け持ちしてるからね。アロヨもパイパー・ピミエンタも両方で歌っているし、一聴しただけでは区別がつかない。いや、こちらのほうはトロンボーン4本編成で、屈託のないサルサらしいので、わかる人にはわかるはずなんだけど…
フルーコはソノーラ・ディナミタというクンビアの楽団もみごと復活させている。野村再生工場ばりの優れた音楽ディレクターなんだな。さらには、ウガンダケニアやアフロサウンドというバンドでも音楽的冒険をしているらしいが、すまぬ、聞いたことがない。
一方、アロヨは1981年までテソスに在籍。その間ラテン・ブラザーズ以外にも、ロス・リデレス、ロス・ベスティレス、パチョ・ガラン、ロス・ティタネスらと共演するなど八面六臂かつ神出鬼没の活躍をみせた。1981年に彼はラ・ヴェルダを設立し、サルサと他の音楽 (クンビア、ポロ、シャンデ、コンパ・ディレク、レゲエ)をミックスするなど、独自のスタイル”ジョエソン”を生み出す。
キャリアが長いので、そりゃ低迷期もある。麻薬のオーバードーズで昏睡した1983年前後がそうだ。だけど自身のルーツを問い直すかのような奴隷制へのプロテストソングで、不死鳥のごとく復活する。絶叫マシンぶりはあいかわらずだが。
ではYouTubeの時間です。
Cachondea by Fruko Y Sus Tesos
フルーコ・イ・スス・テソスは”El Preso”か”Cachondea”かで悩んだ。この曲は1962年のチェオ・フェリシアーノの曲を、フルーコが1999年にカバーしたもの。サルサ・ドゥーラなので、クラブシーンでガンガンにかかっていたと思う。タイトルの意味はよくわからないが、それでも夜は明ける。
Dime Que Pasó by The Latin Brothers
ラテン・ブラザーズは”Dime Que Pasó”か”Buscandote”かで悩んだ。ボーカルは1957年生まれの甘い声、ホセイート・マルティネスじゃないかな(白の上下でグィロ持っている人)。例に漏れず、テソスにも在籍していたよ。
Mi Cucu by La Sonora Dinamita
ソノラ・ディナミタはこの曲しかたぶん知らん。クンビアは本格的に聴いたことないから。でも、そんなもっさり感たっぷりのクンビアだけど、レゲトンのルーツになって究極のダサかっこよさに脱皮するからアラ不思議。
Rebelión by Joe Arroyo
ジョー・アロヨは”En Barranquilla Me Quedo”か”La Rebelión”かで悩んだ。「御大」と書いたけど、昔からじじいキャラが際立ってるんだよね、顔といいボーカルスタイルといい。実力は申し分なく、バランキージャのカーニバルでコンゴ・デ・オロ賞を10回受賞するなど人気者なんだよな。
詞が秀逸なので一部のっけておく(曲のタイトルは「反乱」)。訳文は「ラテンブログの歌詞の別冊」サイトから。名訳だ。