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紅龍@上々颱風をガチ考察してみた|Critique

この文章は、『八十日間亜州一周』(1994年)の頃に書いたものです。


あふれでてもアジア

アジアの都市にはエアポケットが存在する。シンガポールの路地裏の空き地にたむろする大勢のチャイニーズたち。見せ物小屋の雑踏。せわしなく上下するパステルカラーの衣装。凝視する観客の横顔。舞台そででたかれた香の匂い。ロトの番号を読み上げるマイクの声。その景品に一喜一憂する歓声。それを横目で追う晩餐の家族。

それはなにかの祝祭だった。そして、その祝祭性を演出していたのが、ドラや管弦楽器からなる海賊版の中国宮廷音楽である。それは直接的には野外劇のBGMだったが、同時に、あたりを統一するリズムを与えていた。その音の背景なしには、おそらく祝祭は祝祭として成立しなかっただろう。その意味でそれは祭りの構成要素というよりは決定因子だった。

感覚融合

本来、音楽とはそういうものだった。日常では、歌はコミュニケーションの道具だったり労働の促進剤だったし、非日常では、宗教儀礼の効果音として切っても切れない関係にあった。過去の人々は、音楽を自身を包む環境の一部と認め、感性のスペクトラムの中で楽しんでいた。その万能の耳を捨て、人間が音楽を全体世界から独立させたのは(儀礼のリストラを図ったのは)、そう遠い昔の話ではない。西欧社会における音楽の商業化がそれだった。

上々颱風における紅龍の音楽活動は、こうした虐げられた音楽の原風景を取り戻すことに捧げられているかのようにみえる。彼は歌をレコードの中に閉じ込め、コンテクストを無視して再生させることを嫌った。ゲリラ的にライブを量産することはその代替であり、一過性の音とそれを生み出すその場のエクスタシー情況を愛した。

それもこれも、感覚融合によるトータルな音楽理解への回帰をめざしたからである。日本人の村祭り感性に訴えることで、大道芸的ライブを祝祭そのものに昇格させることに成功した彼と仲間たちは、日本全国津津浦浦でその「ワッショイ哲学」を啓蒙していった。彼らのライブ行脚は宗教的な巡礼になぞらえることができよう。あるいはスペイン史の専門家なら、異教徒征伐のレコンキスタ運動の再来と呼ぶかもしれない。

ふるさとという幻想の共同体

ならばこう問いかけよう。紅龍は、誰のために音楽を商業化の檻から解き放とうとしているのか? 何のために音楽の囲い込みに反抗するのか?

他ならぬ私たち日本人のためにである。あるいはそれぞれの日本人が帰属する共同体のためにである。祭りはそもそも共同体により共同体のために行われるものであった。その内部循環によって「アイデンティティ」――人間が社会的存在であるためにもっとも大切なもの――が形成されたのである。

ただ、紅龍の「共同体」は少し違う。そうした因習的な共同体は日本から消えようとしているし、第一、紅龍はそこに生きてはいない。彼が望むのは、お祭りライブをとおしてのノスタルジックな臨場感の追体験だったり、音に合わせて踊ることによる日本的快楽の揺り戻しだったりが再創造する「幻想の共同体」だ。彼らがアジテートする「新しい祝祭」は、日本(ニッポンでもジャパンでも呼び方は構わない)という幻想の共同体=ふるさとを、観客の心象風景に右翼的でないやり方で捏造する。入場料はいらない、座席指定もない、坊やもばあちゃんも田舎者も都会人も同格だ――これが紅龍による草の根レベルのディスカバー・ジャパンである。

アジアの漂泊者たち

だが、彼の理論武装にとって、この島国へのこだわりは障害であるらしい。紅龍の都市のアウトローとしての達観が、比較民俗学的にとぎすまされ、自身の音楽フィールドを深い意味でアジアに広げた。彼はまず、日本の中のアジアに目を向けた。そこでみたのは、ハレの場でのノリの類似性だった。それから、都市に流れゆく者のふるさと喪失感だった。

冒頭のシンガポールでの情景は、場面こそ違え、こうした事情を象徴的に伝えている。華人たちの内輪の祝祭は、確かに外部からの参加を丁寧に拒んではいたが、祭りの華やいだ気分やノスタルジーまでも独占しようとはしなかった。だから、他民族の通行人もよるべなき旅行者も阻害されることなく、アジアの共通感覚を享受できた。

それが都市に生きる人々の無形の思いやりなのである。

祝祭を聞く耳を手に入れよう

紅龍はここに賭けた。激動する「アジア」を共有する――これによって、欧米の相対化という意味での反商業主義、ポストモダンにして懐古主義な表現活動が、彼の中で絶対的なトポスを得た。

もともと上々颱風の楽曲は、カントリーやレゲエ、ポップスなど欧米音楽シーンまでも下敷きにした広がりがあった。紅龍の音楽センスは、様々な異国の音の意匠を加工することに長けていたし、何でもありのごった煮な音の旋律と調子はあらゆる国境を裁断してきた。

ただ、紅龍はこうした音の折衷が断片的で脱コンテクスト的であることを自覚していた。だから、できるだけ音の題材とのつながりを保とうとした。アジアにシフトするのはそういう理由だろう。

音と踊りと祝祭とを融合させる共在感覚は日本の伝統の中に確かにあり、アジアの伝統の中にも確かにある。紅龍率いる上々颱風は、民族衣装のチャランポランな着こなしや沖縄民謡風の弦楽アレンジや中華街のメロディ的描写や弱者に寄り添うやさしい言葉などの技法によって、「日本の中のアジア」「アジアの中の日本」を可視化・可聴化し、新しいアジア像を私たちに提示するのだ。


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