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小説「浮遊の夏」③ 住野アマラ

横浜から湯河原までは電車で一時間ちょっとの距離。湯河原駅は神奈川県最南端の駅だ。

駅前の通りには干物を売る店や地魚を売りにする料理屋が並び、華やかさには少し欠けるが地方都市の湿っぽい旅情が漂っていた。

海の方に行けばさらに雰囲気が違うのだが、旅館に荷物を置いてすぐに墓参りに出掛けなければならない。

「ここかぁ~。高そうだな」

 麦わら帽子のつばを上げ建物を見上げる彼は面白くなさそうな声を出した。細身で肩幅のない彼には誕生日プレゼントのアロハシャツが大きすぎた。短パンから出ているふくらはぎも細くて白いし、顔も童顔だから実年齢の四十五より若く見える。

「私が全部お金出すんだから文句ないでしょう」

「他にもっと安くて旨いもの出すホテルありそうだけどなぁ」

「蟹食べ放題がついて来るコース頼んだんだよ」

「蟹は好きだけどさ、湯河原で蟹もないよね」

「ここラドン温泉だって有名なんだから」

文句があるならもっと早く言えばいいのに、いつだって土壇場になってから難癖を言い出すこの人は面倒臭い私の彼だ。大体興味の無い話には耳を貸さない態度に私は常日頃から頭に来ている。

「もうさ、ここまで来ちゃったんだから仕方ないでしょう。何でさ、いつもギリギリになってからそういう事言うのよ。昨日だって……」

「お、モーニングコーヒーが無料だ」

彼は私の口撃を肩口でかわし階段を軽快に駆け上がって行った。

入り口の自動ドアの横に観光協会の看板とモーニングコーヒーサービスと書かれた張り紙が貼られていた。

受付をしながら振り向くと彼はソファーにドカッと座り、私の機嫌を取ろうという軽薄なピースサインを送って来た。

一回り年上な彼とは、彼が脚本を担当する市民ミュージカルなるイベントで知り合った。

私は今でも彼の主催するアマチュア劇団に所属していて一年に一度は地元で公演もしている。

付き合いだして二年余り、色々あった。

多くは語るまい。よくあるハナシ。

ただ彼の一見素っ頓狂な台本には言葉にならない魅力がある。生活力はないがアタマはいい。大学もいわゆる六大学の文学部出身。

卒業はしていないらしいけど…。

案内された部屋は純和室だった。トイレ付き風呂無し控えの三畳と十畳の和室と広縁がある。

今夜ここに布団敷いて寝るのね。

朝起きるとたいがい浴衣がはだけちゃうのよね。お腹に帯だけになるのもよくあるパターンよね。

今はまだ部屋の中央に四角いテーブルがあって地元の銘菓が置かれていた。

「早くさぁ露天風呂行こうよ」

「だめだめ、私たちお墓参りに来たんだからね」

「でもさ、おふくろさんのじゃないじゃん」

「お母さんのおばあちゃんのおばあちゃんのなの」

「じゃあさ、下の売店だけ見てみようよ」

「後でいいじゃん、荷物になるし」

「遅くなると閉まっちゃうからさ」

何だかスムーズに行かないんだこの人といると…。胃にもさつく最中をお茶で流し込みながら心の中で毒づいた。

彼は私の気持ちに気づく事なく「ビールは俺が買うからさぁ」と靴を履き始めた。

結局、彼が売店で買ったものを部屋に置きに行ったり、部屋の壁に掛かった掛け軸の傾きが気になると直したり、プラグの抜けた冷蔵庫をチェックしたりしている内に午後の日差しはもはや傾いていた。 
〈続く〉




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