青の章

 周囲を包み込む蝉時雨

 時折混ざる鳥の歌声

 吹き抜ける風に木々が囁くように音を立て、草花は踊るように揺れている

 音楽とはまた違う、自然が産み出す美しい音色

 だが今は、それを楽しむ余裕はない

 山の中とはいえ、この暑さだ

 3時間も歩けば流石に疲れる

 麓から川に沿って登ってきたが、目的地には未だ辿り着かない

 今日のために買ったトレッキングシューズだが、厚底に慣れていないので何度も転びそうになった

 普段は登るとしても登山道だが、今日は違う

 未舗装の山道は予想の倍はキツい

 目的地までの時間が分からないのも精神的にくる

 腕時計をみると12時を少し過ぎた頃だったので、休憩をとることにした

 適当なところに腰を下ろし、おむすびを食べながらメモ帳を開く

 中にはこの日のために調べた事や聞いたこと、それらについての考察が書かれている


生きて帰りたければすぐに引き返せ


 メモを確認しながら足立さんから聞いた内容を思い出していた

すぐに帰ったら取材にならねぇじゃん

 おむすびを水で流し込み、メモ帳をしまうと登山を再開した


 しばらく登っていくと急に肌寒さを感じた

空気が違うってこの事か?

 一瞬そんなことを考えたが、汗が乾いただけかもしれない

 開けていた登山着の前を閉め、捲っていた袖を直し、歩みを進める

 それから程なくして霧雨が辺りを包み込んだ

 おや?と思い空を見上げると、雲一つない青空が広がっている

霧雨の狐雨…聞いてた通りだ
じゃあここが…

 目的の場所が存在していたことに歓喜する

 ザックから一眼レフを取り出すと首から下げ、雨よけのために登山着のフードを被る

 いつの間にか蝉時雨が静まっており、周囲から生き物の気配を感じられない

 その異様さが昂る気持ちを抑えつける

すぅー、ふぅー

 大きく深呼吸をし、覚悟を決めるとさらに奥へと足を進めた


 今日の目的は、この山にあるとされる禁足地の取材だ

 俺は長年ブロガーとして活動している

 とは言っても本職ではなく趣味の延長みたいなものだ

 心霊スポットの紹介や検証の記事をサイトに掲載し、動画投稿サービスで取材の様子をアップしている

 一昨年から始めた観光地の紹介記事も併せると、それなりの稼ぎになっている

 観光地の紹介を始めた理由は、国内の心霊スポットを殆ど紹介してしまったためである

 有名どころから地域住民の極一部しかしらないようなドローカルなもの、事故物件も含めあらゆる場所を取材し尽くしたのでネタが残っていないのだ

 本音を言えば観光地の紹介よりも海外の心霊スポットの紹介をやりたい

 しかしそこまで経済的に余裕があるわけでもなく、言葉も話せないので諦めている

 観光地と心霊スポットはまとめて取材を行えるので楽ではある

 さらに取材しながらそれぞれの情報を収集できるので一石二鳥だ

 そのため観光地の取材に加え、急遽心霊スポットの取材も行うことがある

 もちろんその逆もあり得る

 しかし心霊スポットに関する情報は少なく、ここ数ヶ月はブログが更新出来ていない

 観光一本に切り替えるしかないのかと半ば諦めていると、書店である言葉が目に留まった

 それが禁足地である

 禁足地とは風習や信仰的理由等で立ち入りを禁じられている場所の事だ

 有名な所だと千葉県市川市にある「八幡の藪知らず」がそれに該当する

 禁足地を紹介するにしても有名どころは多くないため、すぐにネタ切れになった

 だが風習や信仰は土地に根付くもので、基本的に外には出ない

 そのため観光地の取材と平行して、聞き込みや郷土史料等で情報を集めた

 そして、この山に辿り着いた


そういえば子供の頃、三上山に入ろうとすると爺さんに殴り飛ばされたなぁ
理由?
それは知らんなぁ
聞いても教えてもらえなかったから

 きっかけは居酒屋で出会った70代男性に聞いた話だった

 俺は詳しい情報を得るため、彼の育った町へと向かった

 町に着くと地主の住んでいそうな古くて大きい家を探し、聞き込みを行った

 その過程で出会ったのが足立さんである

いいか坊、山の中で空気が変わったらそこちにいゃなんねぇぞ
生きて帰りたければすぐに引き返せ
山を出るまで絶対に振り向くな
川に入って、そのまま下山しろ
いいか?このことを忘れんじゃねぇぞ

 これは足立さんがまだ子供の頃、彼のお爺さんから聞いたという話だ

 お爺さんは生前、酒に酔うとこの話ばかりしていたのでよく覚えているとのこと

 何のことか分からないので質問したが"これ以上は知らんでええ"と怒られたので、詳しいことは知らないようだ

足立さんの話では山という言葉を使われていますが、それは三上山の事なのでしょうか?

そら分からんなぁ
爺さんは山としか言っていなかったから

そうですか…

 足立さんの話は居酒屋で聞いた話の補強にはなる

 だがこれだけだと情報不足だ

 なんせこの町の周辺には4.5座ほど山があるのだから

 それにどの山のどこに何があるのか分からなければ取材にならない

思い出した!

 しばし考え事をしていると、足立さんが突然声を上げながら膝を打った

爺さんがシラフの時、山について一つだけ教えてくれたことがあったわい

それはどんなことでしょうか?

確か~、山の中にはあの世があるだったかな

あの世?死後に行くとされるあの世ですか?

 想像以上の内容に心が踊る

 だが足立さんはこれ以上は何も知らず、他に何かを思い出すこともなかった

 残念だが仕方ない

他にこの話について詳しい方をご存知ありませんか?

 足立さんは少し考えると、彼が先祖代々お世話になっているという檀那寺を紹介してくれた


 その寺は町外れにある小山の中腹に建っている

 麓から続く長い階段を上がり、荒くなった息を整えながら門を見上げる

 寺額(じがく)には"観敷寺"と書かれている

 上がってきた階段を確かめる様に振り返ると、自然に囲まれた町が一望できる

そう言えば足立さんの話に川が出てきたな

 町中に流れる二本の川を眺めつつそんなことを考えていると、背後から足音が聴こえてきた

 歳は60代中頃だろうか

 紺色の作務衣を身に付けた男性がこちらに向かって歩いて来る

 目が合ったので一礼してから口を開いた

初めまして、古部と申します
足立さんにこのお寺さんを紹介していただきました

初めまして、住職の守谷と申します
足立さんから話は伺っています
どうぞこちらへ

 そう言うと守谷さんは俺を庫裡(くり)へと案内してくれた

 お座敷に向かい合って座ると、奥さんがお茶を運んできてくれた

 守谷さんから了承を得たのでICコーダーを準備し、メモ帳を開くと話を始めた


足立さんから聞いているとは思いますが、私はこの町出身の方から伺ったある話について調べています
その方が子供の頃、三上山に行こうとするとお爺さんに殴って止められたそうです
この話の体験者の方も、足立さんも詳しいことは知らないようなので、何かご存知のことがあれば教えていただきたいです

なるほど、三上山についてでしたか…
その事を調べるためにここを来られたのは、大学の先生以来ですね

大学の方が調べていたんですか?
もしよければその先生のお話も伺いたいのですが、名前と大学名を教えていただけませんか?

えぇ、名刺は頂いているのでお渡しすることは可能です
しかし、その先生は現在行方不明だったと記憶しております

えっ?それはいつ頃の話でしょうか?

弊寺にて文献を調べられていたのが確か一年ほど前、行方不明になったのが半年ほど前でしょうか
三上山の麓で車が見つかったと聞きましたが、その後の足取りは未だに掴めていないようです

三上山の麓で…と言うことは三上山にある、または起こるとされる何かに巻き込まれたという事でしょうか?

それは分かりかねます
仮に三上山で行方不明になっていたとしても、その原因が禁足地に関係することなのかは判断できません

禁足地?

 俺が聞き返すと、守谷さんはしまったという表情を浮かべ、溜め息を吐きながら右手を額に当てた

今確かに聞きましたよ
三上山には禁足地があるんですね!?

ええ、確かに三上山には禁足地があるとされています
ですが、これ以上のことをお教えすることは出来ません

大学の先生には教えたんですよね?
それなら

行方不明との因果関係は分かりません
ですが、先生が行方不明になったのは私のせいだと思っています
私が文献の調査を許可しなければ行方不明にはならなかったのでは…そう思わない日はありません
どうかご理解ください

 そう言って守谷さん頭を下げた

こちらこそ守谷さんの気持ちも考えずに無理を言ってしまい申し訳ありませんでした

 俺も頭を下げる

ですが、私は諦めるつもりはありません

 俺の言葉に驚いたのか、守谷さんは勢い良く顔を上げた

それはどういう

守谷さんの言うように因果関係の有無は分かりません
だから私を使って検証してみませんか?

検証…ですか?

そうです
私が三上山へ行き、禁足地を探します
それで私が戻って来ることが出来れば、禁足地と行方不明は無関係だと分かります

しかし、あなたまでもが行方不明になれば、私は二人の人間を殺したも同然

大学の方はどうか分かりませんが、私は命を懸ける覚悟があります
なので私が行方不明になっても気に止む必要はありません

…何故あなたはそこまでして禁足地のことを知りたいのでしょうか?

理由ですか?そうですねぇ…

 この質問には困ってしまった

 ブログを書く為だと答えれば、十中八九何も教えて貰えないだろう

 とはいえ、この状況において下手な嘘は逆効果

 俺は少し考えてから口を開いた

強いて言うなら知識欲ですかね
知らないことを、興味があることを理解したい
それが理由です

 心霊スポットに行くようになったのは幽霊を見たかったら、本当にいるのかを知りたかったからだ

 それがいつからか、ブログを書くことが目的になっていた

 承認欲求や金銭目的ではない、自分の中にある純粋な思いを伝えた

 守谷さんは俺の答えを聞くと目を閉じ、喉を鳴らしながら考える素振りをみせた

 お茶に入れられた氷が、からんと音を立てる

 大きく頷くと守谷さんは目を開いた

少しお待ちください

 そう言うと、部屋を出ていった

俺はふぅと溜め息を吐き、汗をかいたグラスに口をつける

 守谷さんは戻ってくるなり古そうな書物をテーブルに置いた

この本には観敷寺の成り立ちについて書かれています
その中に三上山の禁足地についての記述がございます

 守谷さんは該当するページを開き、俺の前に置いた

 お礼を伝え、俺は本の内容を確認した


 本の内容を纏めると以下の通りだ

 三上山の周辺には三つの村があった

 村同士の関係は良好で、三つの村で話し合ってルール作り、それに従って狩りなどの山仕事を行っていた

 三上山の麓から中腹までを三等分にすることで狩場が被らないようにし、季節ごとに狩場を交換することで揉め事を防いでいた

 頂上付近は神域であるため狩猟禁止区域とし、主に休憩や交流の場所として使われていた

 ある日、狩りに出た村人が帰ってこなかった

 狩りは簡単ではない

 ひと度山に入れば数日戻らないことはざらである

 だがその村人は7日経っても戻ってくることはなかった

 どこかで動けなくなっているのかもしれない

 他の村の協力も得て捜索が行われた

 しかし行方不明者は見つけられず、それどころか捜索をしていた村人が一人いなくなってしまった

 翌日からは二人一組で捜索を続けるが、また一人行方をくらました

 共に行動してた村人曰く、狩猟禁止区域を捜索中に突然いなくなったとのこと

 捜索の結果見つからないどころか、二人も行方不明者が増えてしまった

 村長らの話し合いにより、これ以上被害を増やさないためにも捜索は打ち切りとなった

 さらにルールが追加され、山仕事は二人一組で行い、仕事以外での三上山への立ち入りは禁止とされた

 それ以後も狩りに出た者が行方不明になることが度々発生し、その都度捜索を行うも行方不明者は増える一方であった

 村人らは神隠しだの、山の神の祟りや天狗の仕業だのと口にしては怯える者が後を絶たず、仕舞いには狩りに出る者がいなくなってしまった

 別の山で狩りをするにも、他の村との兼ね合いがあるため交渉しなければならず、足元を見られるのは明らかだ

 今後どうするべきか、村民らがいくら話し合っても有力な解決策は出て来なかった

 行方不明者が10人を越えた頃、旅僧が村を訪れた

 その事を知った村人らは旅僧に助けを求めた

山に三日間籠り怪異の正体を探る
その間は何人たりとも入山を禁ずる

 話を聞いた旅僧はそう言い残し、三上山へと入っていった

 三日経つと何事もなかったかの様に旅僧は村に戻った

 旅僧曰く、村人らの言う神域に足を踏み入れると辺りは霧雨に包まれ、空を望むも雲一つ無かったという

 霧雨の狐雨という特異な中を経を読みながら進むと朽ちた神社が現れた

 旅僧は狐雨が起こっていることから、神隠しの原因がこの神社にあると考えた

 試しに火を焚いてみるが、雨が止むことも怪異が姿を見せることもなかった

 結局怪異の正体は分からず終いではあるが、狐雨の範囲が徐々に広がっていることに気がついた

 このままではいつか三上山全体が狐雨に包まれてしまうのではないか

 それを危惧した旅僧は神域とそれぞれの狩場の境に小さな社を作らせ、そこに御神体として鏡を安置した

 狩場を受け持つ村がそれぞれの社を管理し、月に一度米と酒を供えて感謝を捧げるよう指示をした

 旅僧の指示を守っているお陰か、それ以降神隠しが起こることはなかった

 村人らは旅僧に感謝し、村はずれにある小山にお寺を建立した

 以来、旅僧はその寺で生活するようになった


 俺は内容を整理してメモ帳にまとめ、本を返した

貴重な資料を読ませていただきありがとうございました
三上山では神隠しが起きていたんですね
これを知っていたのなら守谷さんが不安になるのも納得です
ちなみにここに書かれている旅僧は守谷さんの御先祖様でしょうか?

恐らくそうだと思います
ただそこに書かれていること以外は何も知りません
先代や先々代からも三上山について教えられたことがありませんので
その本も大学の先生が蔵を調べている際に見つけてくださりました

蔵があるんですか
蔵の中に他に手がかりになりそうなモノはありませんか?

残念ながら三上山について書かれているのはこの本だけのようです
その他の物品に関しては来歴が不明なモノも多く、また文献にも記述のないモノがほとんどなので関連性の有無は分かりかねますね

そうですか…

 専門家が探して他に見つけられなかったのだ、俺が蔵を探しても結果は同じだろう

 そんなことを考えながらメモ帳をめくると、ある記述に目が止まった

そういえば足立さんに聞いた話には「すぐに引き返せ。山を出るまで振り向くな。川に入ってそのまま下山しろ」と言う内容がありました

あぁ、それなら子供の頃に聞いたことがあります

ご存知でしたか
ですが本には書かれていない内容ですよね?

えぇ、その話は子供頃に友人から聞きました
ただ「山で何かを感じたら」という内容だったので、よくある言い伝えだと思っていました
まさか三上山に関係しているとは気がつきませんでした

あぁ、いや…この話に関しては三上山の可能性があるというだけで山の特定までは出来ていません
それで気になったのですが、この町には三上山以外にもいくつか山がありますよね?
他の山にも三上山と同様に何か曰くがあるのでしょうか?

三上山以外となると…先ほど話されていた言い伝え以外は聞いたことがありませんね
ですがその言い伝えがどの山を指しているのか、或いはこの町にある全ての山が対象なのかは分かりかねます

そうですか…
仮に言い伝えが三上山に関することだとしたら生還者がいたと言うことになりませんか?

なるほど、怪異への…神隠しへの対応方法が言い伝えられているのであれば、そう考えるのが自然ですね
うーん、山で名を呼ばれても振り向いてはいけないとは良く聞く話ですし、誰かから受けた助言の可能性も考えられますね

助言か…確かにその線もあり得ますね

ただ、やはり生還者がいたという方がしっくりきますね

と、言いますと?

子供は好奇心旺盛ですし、若者は愚かです
そういった者達が禁足地に立ち入ることがあり、偶然生還出来た
そう考える方が自然な気がしませんか?

確かに「すぐに引き返せ」とか「振り向くな」なら助言も考えられますが「川に入って」と言うのはあまり聞きませんし、経験談という方が納得できますね
そもそも川に入ると何故帰れるのでしょうか?

詳しいことは分かりませんが、山の中にあって山ではない場所だからではないでしょうか?

山ではない?

えぇ、川は山から海へと繋がる道であると同時にある種の異界です
そのため山とは別のモノだと考えることが出来ます

なるほど、それなら山の怪異から逃れられるのも納得です
それにしても守谷さん、色々とお詳しいんですね
もしかして心霊関係の相談も受けたりするんですか?

 それからしばらく三上山とは関係のない会話を交わし、気づけば空が微かに赤みを帯びていた

すみません、こんな時間まで居座ってしまって

いえいえ、構いませんよ

時間も時間なので最後に一つ「山の中にはあの世がある」と足立さんから伺ったのですが、これもこの地域の言い伝えなのでしょうか?

あの世ですか?聞いたことありませんね
この話は三上山と関係が?

いえ、この話も先ほどの言い伝えと同様で山の指定はありません
今のところ三上山と結びつけられそうな話も無さそうなので、禁足地から帰ってきたら調べることにします

そうですか…
本当に三上山へ行くのであれば、いつ行くのか連絡してくださいね

もちろんです
今日は貴重な資料を見せていただき、またお話を聞かせていただきありがとうございました
他に聞きたいことが出来たらまた連絡しますね

 そう言いうと俺は寺を後にした


そう言えば旅僧が神域の境に作らせたっていう小さな社は見なかったな

 そんなことを考えながらショルダーにつけているボディカムのレンズを拭く

 防水とはいえレンズが濡れていると上手く撮れないので気を遣う

 今のところ狐雨以外に変わったことは起きておらず、山頂も見えてこない

 折角禁足地に入れたのだから書物に書かれていた朽ちた神社くらいは見たいものだ

 いざという時のために川に沿って登ってきたが、取材のためにも川から離れることにした

 ザックからロープを取り出し、川の近くに自生する低木にくくりつける

 ロープの長さは100m、これで川を見失うことはない

 怪異と遭遇してもロープを辿れば川まで逃げられるので心置きなく調査ができる

 まだ何も撮影していなかったので川と低木の写真を撮り、ついでに空へ向けてシャッターを切った

 とりあえず川からまっすぐ進むことにしたが、代わり映えのない景色が続き、結局何も見つけられないままロープが伸びきってしまった

 何かないかと目を凝らすが霧雨のせいで遠くが見えない

 次は対岸の調査をしようと引き返した俺は目を疑った

なんで…

 思わず声が漏れる

 ロープを辿り低木まで戻ってきたが、そこに川はなかった

 周囲を見渡すも川の痕跡は何処にもなく、ただ木々が乱立しているだけだった

何かの間違いであってくれ

 そう願いながらボディカムの映像を確認する

 やはり川に沿って登っていたのは間違いないようだ

 体が急速に冷たくなっていくのを感じる

落ち着け
奇妙な状況だけど怪異のせいと決まった訳じゃない
誰かがロープを別の低木に付け替えた可能性もある
だとすれば川からそんなに離れてないはず

 俺はロープの結びを特殊なものに変え、ついでに低木の枝を折りポケットにしまった

 それから低木を中心に周囲を探し回ったが川を見つけることは出来なかった

 低木に結んだロープの結びは変わっておらず、枝の断面も一致したので今回は付け替えられていないようだ

 色々と動き回り、川も見失ったのでどこから来たのかも分からなくなってしまった

 遭難なのか神隠しなのかは分からないが、もう帰れないかもしれない

 その事に不思議と恐怖や絶望は感じなかった

こうなったなら仕方ない
帰れないなら朽ちた神社ってのを一目みてみたい
それに歩いてたら何かの拍子に帰れるかもしれないし

 俺は木の枝とロープを捨て、適当に歩くことにした

 体感で一時間ほど経った頃、前方の木に何か違和感を覚えた

何だこれ?どういう状況だ?

 近づいてみると木の幹からザックが生えていたのだから驚いた

 困惑しつつも写真を撮り、中を調べる

 入っていたのは財布とゴミ、地図とコンパスとペン、中身のないレインウェアの袋

 地図には子供の落書きのようなぐちゃぐちゃな線がいくつも書かれており、まともに読むことが出来ず、コンパスは針が外れているため使い物にならない

 財布には現金の他に保険証が入っており、隣県の人物の物だと分かった

 戻れた時のことを考え、財布だけ回収して先に進む

 以降も帽子や靴、ジャケットなど色々な物が生えた木を見つけ、その都度写真に収める

単なる落とし物って訳ではないだろうし何なんだ?

 木から生える奇妙な物について思考を巡らせながら歩いていたが、流石に疲れてきたので休むことにした

あれ?

 どこかに腰を下ろそうと地面をみて初めて気がついた

 霧雨とはいえ雨が降っているのに水溜まりがどこにもない

 土に湿り気はあるがサラサラしている

まぁこれなら汚れないし深く考えるのはやめよう

 俺はザックを下ろし、適当な木に体をあずけて地面に座った

 軽食をとりつつ今日の出来事について思考を巡らせる


 足に鋭い痛みを感じて目が覚めた

 疲れからか、いつの間にか眠っていたようだ

 あくびをしながら痛みのあった足に手を伸ばすと指先に何かが触れた

 手に取ると同時に足に痛みが走る

 足をみるとトレッキングシューズに小さな穴が空いていた

どっかに引っ掛けたか?
下ろし立てなのになぁ

 手に取ったものを見ると植物の種だった

 良く見ると幼根が生えており、先端は微かに赤い

 見ての通り発根しているようだがそれはおかしい

 靴の上に乗っていた事から休んでいる間に落ちてきたと分かる

 落下した種子がこんな短時間で根を伸ばすだろうか?それも靴の上で

 少し不気味に感じたが、たまたま根がついた種子が落ちてきたのだと言うことにしてまた歩き始めた

 それから何時間歩いただろうか

 ボディカムはとうに充電が切れている

 腕時計は二周したというのに空は一向に暗くならない

 どうやら禁足地には時間の概念がないらしい

 それだけじゃない

 これだけ歩いているにも関わらず朽ちた神社はおろか、未だ頂上にすらたどり着かない

 既にこの山は異界として閉ざされているのかもしれない

 相変わらず木には色々な物が生えており、見つける度に写真を撮っている

 最後に撮ったのは木製の弓だった

 木の枝にも見えたが弦の様なものが付いていたので間違いないだろう

 既に持ってきていた水と食料は底をついた

 雨を飲もうにも何故か溜めることが出来ず、食料を確保しようにも木しか生えておらず、獣はおろか虫すら見つからない

 どういうわけか、じっとしていると発根した種子が肉を抉るため休むことも儘ならない

 そのためふらふらしながらも歩みを進める他ない

 そうしていると地面に転がるザックを見つけた

 写真を撮ってから中を漁る

 水と食料は無かったが財布と調査記録と書かれたノートが出てきた

 ノートには三上山の禁足地について俺が調べたものと同じ内容が書かれていた

 まさかと思い財布を漁り免許証を確認する

 そこには住職の持っていた名刺と同じ名前が書かれていた

大学の先生もここにいるのか…?
いや、荷物があって本人がいないってことは帰ったってことじゃないか?
だとしたら

 何か手がかりがあるのではないかとノートのページをめくる

 そこには禁足地に入ってからの体験とそれについての考察が書かれていた


 行方不明の原因は神や妖怪などの目に見える怪異の影響ではない
 禁足地と言う異界そのものに閉じ込められるためだろう
 樹木と一体化しているものは行方不明者の持ち物だと考えられる

 ここまでは俺も同じ考えだったが、その先を読んで背すじが凍った


 休息をとる度に体にくっつく種子
 これを手の甲に置いて観察すると十数秒で発根し、根を張ろうと肉を抉った
 この種子の異常な成長速度から考えると、たびたび見かけた物体を取り込んだ樹木は人間を糧に成長したのではないだろうか
 人間を吸収し、成長する際に身に付けていた物が一部露出したと考えられる
 私にはもう体力が残っていない
 水も食料も尽きた
 雨が降っているのに水が溜められないのは幻覚であるためだろう
 その証拠に水溜まりが一つもない
 研究者としてこの記録がいつか誰かの目に止まることを願い、ここに置いていく


いや…ほら、もっと他に何かあるだろ?
帰るための手段とかさぁ

 そう言いながらページをめくるが、その先には何もかかれていなかった

 そんなはずないと真っ白なページを隅々までチェックする

 現実を受け止められずそんなことを何度も繰り返していると、ノートに種子が落ちてきた

うわぁー!!

 悲鳴を上げるとノートを投げ捨て走り出した

命を懸ける覚悟はあるさ
でもこんな…こんな死に方は違うだろ!

 無我夢中で走っていたが、やがて肺が熱をもち、意識は朦朧としてきた

 そのせいか何かに躓き、前のめりに倒れ込む

 呼吸をするために仰向けになったが、降り続ける霧雨が時折器官に入り込む

ゲホッゲホッ
はぁはぁ…もう限界だ…
俺もあの種の栄養にされて…木に取り込まれて死ぬのか…

 朦朧とする意識の中、そんなことを考える

 身体中に痛みが走るが、既に種子を払う気力も体力もなくなっていた

 少しずつ強くなる痛みが朦朧とする意識を覚醒させる

生き地獄とはこのことか…

 少しでも痛みから逃れようと首を動かす

 痛みに耐えるために閉じられていた目が薄く開き、無意識に向けられた視線の先には成長途中だと思われる細い木が生えていた

 その木には枝のように細い手足が生えており、よく見ると顔がついている

 免許証で確認したのだから間違いない

 干からびて、口元が赤黒く汚れているがそれは大学の先生だった

 俺は覚悟を決めると彼に倣い、逃げるように自分の舌を噛みきった

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