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着ぐるみ的な人生を不快に感じるなら、手放すときかもよ。

人は、だれもが着ぐるみを着て暮らしている。



着ぐるみとは、もちろん比喩だ。

自分の本当の姿を隠すか、脚色して、相手に快く感じてもらったり、注目を集めたりする一連の行動。

これが男の場合、薄毛を隠すために髪にワックスをつけることに始まり、グッチの時計を身につけたり、慶応卒の学歴を必要以上にアピールしたり、業界用語を多用して「デキる奴」を演出したり、筋トレをしまくって太い二の腕をインスタに投稿したり、または高校時代に大して悪くもなかったくせに「不良とつるんでいた」と虚構の武勇伝を語ったりすることなどがある。

要は、自分が本当は多少窮屈に感じるやり方で、自分自身を大きく見せることである。

それは、テーマパークで着ぐるみを着て、相手に強い印象を残す行為と、本質的になんら変わらないと思うのだ。

別に、それ自体は否定されるべきことではない。自分も散々やってきたことだし、今もやっている。逆にやっていない人はほぼいないと想像する。

ただ、それをロールプレイングゲームに例えて「武器をゲットして強い敵に立ち向かうような処世術」と前向きに評価する人がいるが、自分には、その無邪気さが不幸をもたらす場合もあると感じている。

なぜならラスボスを倒すゴールが初めから明確に提示されるゲームとは違い、人生には本来、明確なゴールなどないからだ。

自分で勝手にラスボスを設定して、やれ武器だ、戦闘だと語る「勇者・自分」でいることが心地よいという心情を否定する意図や権利は自分にはないが、それを「皆が負うべき世の真理」(君たちには武器が必要だ。世の中は厳しいんだと煽るような言説)としてマンスプレイニング的に語るのは誤っていると、自分は思う。繰り返すが、皆が皆、明確なラスボスという人生のゴールを決めているわけではないし、決めていたとしても当然だが一つとして同じではないのだから。

着ぐるみは手段であり目的ではない


話を着ぐるみに戻すと、テーマパークの着ぐるみは、なんのためにあるか。当たり前だが、客を喜ばせるためだ。

客は着ぐるみを始めとした一連の体験が好ましいと感じると「また来たい」と思う。その通りに再来すれば、それはパークにとっては、さらなる売り上げにつながる。要するに着ぐるみは、リピーターを増やし、経営を安定拡大させるためにある。

着ぐるみはテーマパークにだけ生息しているわけではない。例えば、それがゆるキャラの場合もある。だが、話は同じで、客に良い印象を残すためにある。

ゆるキャラの場合、良い印象を与える目的は、その自治体そのものが愛されるきっかけを作るためである。客がその自治体に好ましい印象を持ったとすれば、将来、都会から地方へ移住を検討する際、その自治体を思い出してくれるかもしれない。移住につながらなくても、その自治体で作られた食品や雑貨を手にとる確率が高くなるかもしれない。ここでも、着ぐるみは、その対象が愛されるためにある。

だから、着ぐるみは、基本的には客に「好ましい」と思われたり、「お?」と注意を引いたりするデザインになっている。

男が筋肉や装飾品といった眼に見えるアイテムや、学歴や素行といった眼に見えない社会的な素養を身につけるのも、だいたい同じで、周囲の人間から愛されたり、注目を浴びたりするためだ。

たとえば、大抵の男は、自分の筋肉を磨くだけで話は終わらず、その筋肉を活かしたいと願う。それが大会で賞をとるためであれ、恋愛対象からモテるためであれ、筋肉がついたことをもって完結しない。あるいは逆に、筋肉がなく痩せていてはモテないし、不健康そうに見えると何かと不利な立場に置かれるだろうと感じ、必要に迫られるように筋トレする人もいる(かつての自分もそうだった)。

いずれの場合も、筋肉を使って自分を「演出」するのである。

自分を飾る動機は、周囲の注目や愛情、要は「チヤホヤされること」に対する期待であり、さらにその先には生活の永続的な安定や性衝動の充足がある。つまり、筋肉は手段であって、最終目的ではないのである。

中身がネズミと筋肉に喰われる


ここで気になるのは、手段に目的が喰われることについてだ。

筋肉や着ぐるみは手段であって目的ではない。
それなのに、あたかも手段自体が最終目的のように自分も相手も誤解してしまうことがある。

ネズミの着ぐるみに駆け寄る子どもは、ネズミの着ぐるみに好意を寄せているのであって、中のおじさんに好意を寄せているわけではない。

もちろん、コミカルな動きは中のおじさんを構成する要素の一部という意味で、おじさんの「一部」に客は好意を寄せていると言えるかもしれないが、全部ではない。なぜなら、ネズミの頭を外したときに、子どもが同じ好意を寄せるわけではないからだ。

では、着ぐるみを着ることで、周囲の人の反応が明らかに好転するとき、中の人は「愛されている」と言えるだろうか。

筋肉の場合も同じで、筋肉を磨いて、その結果、恋が実ったとして、その相手はあなたに恋をしたのか、筋肉に恋をしたのか、どちらだろうか。何かのきっかけで筋トレをやめて、筋肉が全く目立たない「ぽっちゃり体型の自分」に戻った時、本当に愛されていたのは自分だったのか、筋肉だったのかが判明するはずだ。

手段が目的に喰われるというのは、元々は装飾を使って、中の自分が愛されるために工夫していたつもりが、装飾そのものが愛され、中の人が忘れられてしまうという倒錯である。

そうなった場合、人はどういう行動に出るかというと、「装飾は自分そのものである」と自分を洗脳し始める。着ぐるみを着ているのではない。着ぐるみは「自分の皮膚である」と自己暗示をかけるのだ。テーマパークでネズミになる時は、もはや元の「田中さん」ではなくて、ネズミになりきるのである。

筋肉の場合も同じだ。筋肉は自分そのものであって、自分の外部にあるわけではない。「筋肉がある自分」こそ本当の自分であり、「筋肉がない自分」は、もはや本当の自分とは認めないと、自分を洗脳するのだ。

洗脳とは、疑いを手放すことである。疑う必要がないので、認知的な負荷を感じなくなる。余計なことに思い悩む時間が減り、本業に専念することができる。生活資金を効率的に集め、周囲の人から益々愛され、幸せを感じる。ただし、「洗脳が解けない限り」という条件付きで。

この洗脳が、その時々で必要な間、解けない人はなんの問題もない。だが、自分は違った。ある時(比較的最近)、洗脳が解けてしまった。洗脳が解けた時、過去を振り返ってみえた景色は、まさに虚無だった。

「ストレート男性」という着ぐるみ考


自分はゲイである。(話が大きくズレたように見えるかもしれないが、すぐに戻ってくる)だが、それをそのまま周囲に伝えても、当たり前だが愛される保証はない。むしろ、愛されない確率を高める方に寄与すると思ってきたし、今も思っている。

だから、自分は「女性に好意を寄せる男性」として、つまりストレート男性の着ぐるみを着て生きてきた。その間、30余年。

率直に言って、着ぐるみ越しの景色は、初めは悪くなかった。なぜなら、ストレート男性の属性を持っているというだけで優遇されるよう社会がデザインされているからだ。ストレート男性であると認識されるだけで、男性から馬鹿にされる機会が減る(ゼロではない)。出産の話を親から振られることはない。明らかに自分より適職な女性同僚がいるのに、「彼女は出産を控えているかもしれない」という上層部のあり得ない決めつけで、自分がプロジェクトリーダーに抜擢されたこともあった。

ただ、着ぐるみを着始めたばかりは「楽しい」が優勢だったとしても、時間が経つにつれて「息苦しい」が脳内を占めていくものだ。

(もちろん、ずっと「楽しい」を維持し続ける「プロフェッショナル仕事の流儀」的超人がいることを理解しているし、全く否定しない。そういう人は、元々センスがあるのかもしれないが、きっとそれ以上に、どこかのタイミングで覚悟を据えたんだろう。それ自体は崇高なことだ。筋トレも同じく、厳しいトレーニングと食事制限をずっと「楽しい」と感じ続ける人もいるが、それは文字通り「超人」の話であって、自分のような凡人は、その高みには辿り着けないし、今はもう目指してすらいない)

自分はずっとストレート男性の着ぐるみを着て、死ぬ。当たり前のようにそう思ってきたが、だんだんその息苦しさに耐えられなくなってきた。酸欠でぶっ倒れそうになった。そこで一回冷静になって自分と向き合った結果、十字架を背負うと決めたのは(最終的には)社会ではなくて自分だったんだと気づいた。ならば、そんな重荷を自ら進んで背負わなくても良いのではないか、そんな気がしたのである。

着ぐるみをずっと着っぱなしにするのではなくて、「外してもガッカリされないかな」と思える相手の前でだけは、自分からネズミの頭を外していこうと思ったのだ。(ゼロ百の話ではないので、もちろん頭を外す相手は選ぶし、常時素顔でいるわけではもちろんない)

社会の影響は十分過ぎるほど受けているが、社会に迎合するのも自分だし、迎合しない判断を下すのも、最終的には、自分である。同じゲイ属性でも、社会にオープンにする人がいるのだから、社会の不寛容が絶対的な理由にはならない。何より社会のせいにしても、結局、社会は後で救済も補償もしてくれない。荒井秘書官の一件があり、「寛容の輪が広がって、いつかなんの壁も感じずにオープンにできる日本になったらいいな」というユートピア的な期待感が自分の中で一度地に落ちたことは、「その”いつか”は自分の一生のうちに絶対に来ない」と見切りをつける契機となった意味で、個人的にはプラスに評価できる面もある。まあ、赤の他人に属性だけで殴られる謂れはないよ、とは思うが。

ちなみに、外した時にみえた景色は、そんなにドラマチックでもなかった。
その話は、また今度。 

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