見出し画像

榎並座最盛期の応永という時代①

今回は、榎並座が最盛期だった頃の応永という年号は35年ほど続きました。
これは年号にしては比較的長い方だったようです。なぜなら鎌倉時代などは平均4年に1度は改元を行っていたし、何か不幸や不吉なことがあれば変えるということが度々あったためです。
そこで、その榎並座が最盛期の裏側で一体、応永の室町時代の社会では何が起こっていたのか。
清水克行著『大飢饉、室町社会を襲う!』から、榎並座も関連しそうなことや世阿弥の動向などを紹介していきます。2回にわけて紹介していきます。


室町人の考え方

まず、『応永の大飢饉』が発生する前後の話をします。
応永26(1419)年6月20日に九州の対馬へ、朝鮮国の李王朝の正規軍が侵入。戦闘となった。
理由は、対馬が「倭寇」の本拠地と目されていたため。要は国を悩ます海賊を対処しに来た、ということだ。
この事件を、京に居た三宝院満済へと情報が届いたのは、事件から1ヶ月以上経った8月7日に九州の少弐満貞という人物からの報告書によって舞い込む。
その内容は『満済准后日記』に書かれているが、簡単に言えば少弐満貞が自分の手柄を大きく見せようと、敵船は実際の事件時より倍の数、しかもその船はモンゴル帝国の「先陣」として来ていた。
しかし、大風(台風)によって本体は来なかった。これは菅原道真公の霊力によるものだ。と言った今のネット社会なら一発でバレそうなものだ。
モンゴル帝国、いわゆる元寇であった元という国は、そもそもこの報告書が報告される頃には既に滅び、第3代室町将軍足利義満はその後に生まれた明国と貿易も行っている。
だが、「黒衣の宰相」とまで称された満済はこの内容を素直に信じた。
なぜなら、この頃京では不吉な「兆候」が寺社から伝えられていたためだ。
このことから鎌倉時代の蒙古襲来は、島国で他国と境界線を接しておらず、他国と戦争経験の少ない日本にはトラウマになっていたと伺える。

また、第4代室町将軍足利義持が父、義満の行っていた日明貿易の形を不満とし、貿易を中断させていた。それを明の使者が高圧的な国書を携え、やって来たこともあり、そのやり方がトラウマを刺激したようでもある。
ちなみに、なぜ日明貿易が不満だったのかと言うと、属国のような形で行っていた点が不満だったようだ。

一方、『満済准后日記』と双璧をなすようにこの頃の時代を記録している史料として『看聞日記』がある。
著者の伏見宮貞成の元に情報が届く頃には、満済へ報告された時よりも更に敵のイメージは肥大化され、情報が飛び交っていたことが記されている。 
まさに伝言ゲーム恐るべし、であり幻の神風の話のおかげで、日本は神国だ、という意識が強化されていったことも伺える。

応永28(1421)年7月11日には、伏見御所へ伊勢神宮の宮人を名乗る男が、蒙古の怨霊が今度は疫病になって人々を滅ぼすぞ、と言ってこの期に伊勢神宮への信仰を強めようと来たのだろう。と貞成は考えこの男を相手にしなかったが、疫病自体は実際に流行したようだ。
しかし、前述の通り蒙古、というか元は既になく、李王朝の正規軍が倭寇を何とかしようとした事件なのに、なぜ怨霊?と思うだろう。
当時の人々は、「疫病は外国からやってくる」という考え方が一般的だったからだ。

そうした影響もあり、応永26年頃世阿弥は「白楽天」という新作能を創作する。内容は、日本国の知恵を調べるため、唐国からやって来た白楽天が、住吉明神の化身に敗れ、最後は日本の神々の「神風」によって飛ばされる。
神国日本の考えが反映された内容となっている。義満のお気に入りだった世阿弥も、無関係では居られない事件だったということがわかる。

巨大飢饉

先の章のような考え方の上に、興味深い情報が2つある。
1つは、室町時代の米は、なぜか古米の方が値段が高く、新米は安い。『大飢饉、室町社会を襲う!』の著者である清水克行氏は、古米の方が新米より水分が抜けており、古米を炊くと増えるからではないか、と指摘している。
要は、古米の方が腹持ちが良いので高く取引されたのだろうということだ。
もう1つは、この時代の男女比だ。正確な数は不明だが、おおよその比率は鎌倉時代の僧、日蓮の手紙から読み取ることができる。
今とは単位が少々異なるようだが、女の方が多くいたことだけは、確かなようだ。
なぜ、女が多いのか?戦があったから?などと簡単に考えてしまうがそれだけではないようだ。
女であれば、遊女などその身を売ってでも生きる道があると当時の人々は考えたようだ。その上、身分が上の金持ちと結婚する可能性だって有り得る。
一方、男はそのようなことは無理だろうと考えられ、間引かれる……嬰児殺しが行われていた可能性が指摘されている。

そんな考えが土台となった上で応永27年には大飢饉の影が見えてくる。
どうやら「応永の大飢饉」は、自然災害というより人災の側面が強いようだ。
なぜなら前近代では元号というのは、何か不吉なことや決まり事などで改元の権限を持つ天皇が数年に1度行っていた。
改元は、資金なども必要となるため応永の頃は、天皇の地位も朝廷の力もかつてないほど低下しており、室町殿が支えなければならない状態だった。
そのため、公武は平和なように見え結果、誰からも改元の話が出ることなく35年間放置されていた。
(これにより、江戸時代以前の元号の中で1番長い使用期間となった)

それにこの頃、京では米価は高く、地方は安い。そのことを利用しようとして商人や農民、荘園を管理する者たちなどが差額で儲けようとしたため、肝心の生産地の米が不足する事態となった。
今風に言えば、FXで儲けようとして肝心の手元の資金が枯渇するようなものに近いのかもしれない。

更にここから加わるのは、税を納めさせるのがこの頃にはお金や人々を京で労働させる者もいた。
税が高いだけでなく、生産地の働き手が男女比の問題もあり不足していたことも考えられる。
その結果、1418~1420年は不安定な気候に加え、一般人の蓄えが慢性的に枯渇している最中のトドメとなったと読み取れる。
不安定な気候とは、旱魃、つまり雨が長く降らない状態であり、地球自体が現在の温暖化と異なり「小氷期」となっていた。
雨が降らず、世界的に寒いとなると農作物は育たない。
こうした背景によって、大飢饉は発生したのである。

本日のまとめ

今回は、当時の室町人の考え方や巨大飢饉が起こった背景を自分なりに『大飢饉、室町社会を襲う!』を読んでまとめてみました。
世阿弥などが活躍していた裏ではこのような暗雲が立ち込めていたのだとわかり、この影響が能の演目、思想にも出ていたことが見えてきたと思います。

次回は、大飢饉に対してどのように対応したのか、榎並座にもどんな影響があったのか。
ゆっくりとまとめていきます。
次回もまたお付き合いくださいませ。

よろしければサポートお願いします!いただいたサポートは史料収集など活動として還元いたします。