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日本中世の職能民③


皆様、こんにちは。
日本中世の職能民もいよいよ折り返しに入りました。
職能民という存在と考え方を理解していくと、なぜ今の職に対する卑賤などの考え方が出てきたのか。あるいは、昔はコレって芸能扱いだったから今でも微妙な立場なの?とか色々見えてくるかと思います。
そういう全体像を掴んでもらって猿楽師や他の職に就いても少しでも実像を掴めれば幸いです。
それでは早速今日の分に進みましょう!


中世遍歴民と芸能

「芸能」の意味

おおよそ11世紀以降、「芸能」という熟語になって社会に定着した。
しかし、少なくとも14世紀以前までの「芸能」はいま使っている語よりはるかに広い意味をもっていた。 
示す事例として、『新猿楽記』から『普通唱導集』にいたるまで、数多くあげられるが、鎌倉時代の末に成立した百科全書『二中歴』の中に収められた「一能歴」が最もよく示している。
なお、詳細は職人歌合に記したので割愛します。

https://note.com/bright_dunlin483/n/n402634d7a292

才・道・職

「才」は「芸能」と密接に結びついた語であり、「広く物や事を作り出す」「特殊な能力」を意味する語であった。
平安末期から鎌倉期に通じて、「芸能」の働きそのものをさす語として使われた「外才」も、本来の「内財」に対する「外財」が、「外才」という熟語として定着していったと思われる。
「道」は貴族・官人的な「芸能」に即した「道」のある一方で、工人の「道」があり、鎌倉期以降、貴族・官人的な「芸能」からはなれ、工人、芸能民に即して用いられることが多くなる。
「職」という語は、「その芸能を営む」と「その職に居る」がほぼ同じ意味に用いられるが、「職」の意味するところは単純ではない。

「芸能」民の特質とその遍歴

律令国家による職能民の組織

7世紀後半から8世紀のごく初頭に確したこの国家は、なお未開で呪術的な色濃い社会に、畿内を中心とした首長層によって受容された高度に文明的で合理的な律令を接合させた。いわば、早熟な国家であり、職能民を品部、雑戸、雑供戸として官司に組織し、しばしば職能官人が、天皇直属の舎人の称号をもっていた。

官司請負の進展と職能民集団の自立

9世紀から10世紀にかけて、大きく変質しはじめる。上下の統属関係をもつ官司組織が解体し、貴族・官人の官位昇進コースがそれぞれの家に即して定まり、家格が固定化された。
順徳天皇の『禁秘抄』に「諸芸能事」として、第一に学問、第二に管絃、そして和歌をあげ、「好色の道、幽玄の儀、棄て置くべからざることか」とし、「雑芸」は「御好あるも難なし、御好なきも難なきことか」と天皇の身につけるべき「芸能」を説いている。
一方、職能官人や職能民も自立した職能集団を形成し、官司に対してはその「芸能」「所職」に応じての貢献を請け負う一方、大寺院、神社などにも結びつきつつ、社会の求めに応じて、広範な活動を展開しはじめる。

職能民の遍歴の実態

「道々の輩」の遍歴を支えたのは、12世紀には確実に西日本で活動していた廻船であったが、それを「芸能」とし、後年「船道者」といわれた廻船人の集団で、多くは神社と結びつき、「神の奴婢」として神人の称号をもち、往反自由の特権を保証されて動いていた。
14世紀には、伊勢の水銀供御人が白粉を売買・交易したと推定され、傀儡子も自らの「芸能」を営んだだけでなく、櫛などをもって売り歩きなどを行なっていた。
こうした諸国の自由な往反の特権は、職能民がそれぞれに、天皇・神・仏などのような人の力をこえた聖なるものの「奴婢」となることで、社会的、制度的に保証され、少なくとも西日本の通行許可証を得、確実にしていた。

天皇・神仏に直属する「道々の輩」

11世紀以降、多様な職能民集団は各々の来歴、立場に応じて、天皇や神仏の直属民となり、称号を与えられて活動していた。
15世紀以降の例えば世阿弥の『花伝書』などにみられる修行の筋道は、まだ示されていない。
14世紀以前の「芸能」「才」は、それ自体、神仏の選択、援助、示現、神仏によって授けられた霊感、霊力によって得られるものととらえられていた。職能民自身もそのように「自覚」していたので、「芸能」の営みの初尾、初穂をまず神仏に捧げた。これは、「上分」も同じ意味をもつ。
ただし、西日本でのみ機能していた。

博打の「芸能」

「芸能」としての博打と博奕禁制

博打、双六打が「芸能」「所能」の一つであり、他方、双六、四一半などの博奕が、ときに「諸悪の源」「悪党の根本」とされるほど、きびしい禁制の対象となっていることも周知の事実である。

国衙の双六別当

14世紀以前に博打もまた遊女などと同じく朝廷と公的な関係をもっていた。
国々の博打を統轄する役職が国衙に実在しているとすれば、京中の博打たちを中心に、広く博打を統轄する朝廷の官司、役職があったと十分推測できる。

出産と双六

出産に当たって、物付は女性の弟子一人を伴っており、参上して座につくと、替わる替わる「打博」―博を打っている。
恐らく、双六の賽そのものを打っていたと思われる。
博打、双六打は宮廷の行事の中で、巫女とともになんらかの役割を果たす「芸能民」「道々の者」として、官司に属し、別当などに統轄されていたことも、事実として承認されることになろう。

中世遍歴民の立場の変化

博打・双六打の地位は、14世紀を境に決定的に変わる。
いわば社会の暗部に押しこめられていくことになる。
自然と社会の関係の大きな変化とともに天皇、神仏の権威もまた急速に低下し、それらに直属していた職能民のあり方、社会のとらえ方も変わっていった。

本日のまとめ

現在の人なら官僚的な仕事も芸能だった。と言われても、テレビで見る芸能人と全然違うじゃないか!などと思うでしょう。
しかし、昔の人は自分の中で優れた部分を神仏からなんらかの方法によって得られたと考えていたため、計算能力や武力なども含まれたのだろう。
そう考えると世阿弥が書として修行の道を記したのは、当時としては変わった行動に見えたのではないだろうか。
博打についても巫女や遊女などのように神意問うような芸能だと理解されていたから、役職があった一方で、賭け事で領地などまで賭けるような人まで出ることから、禁制の対象という表裏一体の存在になり、最終的には現在のように博打はダメ!という認識に変わっていったのだろう。
今回はいつもより項目が多くなったが、次回も少し細かい項目になる予定です。
その代わり、最後がめっちゃ短い予定です。

今回はおつき合いいただきありがとうございました。
次回もどうかおつき合いよろしくお願いします。

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