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小説「会計年度任用職員の憂鬱」⑤#創作大賞2024

 安井が戻ってきて、幾ばくかの時間が過ぎ、早いもので三月に近づこうとしていた。
 机にあるカレンダーを何気なしに見て、もうすぐ一年が終わるなと少し考え事をしていると、
「森さん、郵便お願いします。」
と用事を頼まれた。
「はいよ。」
 会計年度任用職員は、正規職員に用事を頼まれて、庁内の色んな場所に出払って行くので、課の色んな様子を見ることができた。まるで、ショーウインドーを見る様に、他の課を覗いたりもした。どの課も年度末で、かなり忙しい様で、議会対応、年度末の支払い、予算対応、実績報告などの最後の対応に追われていた。 
 それに反して、美幸は安井が戻ってきて、例年通りに戻ったので、一人だけどこか取り残された気分に陥った。毎日、遅くまで残業している時は憂鬱であったが、無くなったら無くなったで寂しくなるという複雑な感情を持ってしまった。
 今までは、課にいる職員が忙しそうで大変だなと思ってはいても、自分は残業をした事がなかったので、どこか他人事のように思っていたのかもしれない。自分がいざ経験すると、本当に大変なのだと身に染みて分かった。勤務時間外に、時間を共に過ごしたので、例年よりも職場に対して親近感を持った。
 同時に、この場にいる、全ての職員に対して、尊敬の念と感謝の気持ちをでいっぱいになった。

 勤務終了の合図がなったので、帰宅の用意をしてから一声、
「お疲れ様でした。」
と声をかけて廊下に出ていった。
 少し歩いた所で、一人帰るのは少し気がひけたのと同時に、形容しがたい寂しさが募ってきた。
 すると、徐に来た道を戻って、
「皆さん、いつも遅くまでありがとうございます。」
と付け加えた。
 こちらに気付いた何人かが、笑顔で「お疲れ様です。」と美幸に声を向けた。
 美幸は、今度こそ満足げに廊下を出た。

 三月に近づいているとはいえ、まだ二月という事もあり、帰り道はかなり肌寒く、既に空も暗くなり始めていた。その寒く暗い雲の中から、一筋の灯りが美幸を照らした。前方には、寒さで早く引っ込んでしまいたいと感じているが、どこか思い通りになってたまるかと最後の悪足搔きをしているかの如く、抵抗している夕陽がこちらを覗かせていた。
 その複雑に感じる空模様を現在の自分の心境に重ねていた。
 課の皆が帰宅する頃には、この暮れなずむ空から、真っ暗な空になっているんだろうなとふと思った。例年までは、帰宅の道で課の事をそこまで考える事はなかったが、無意識にそのような感情を持った自分に少し嬉しくなった。

 早いもので、三月末になった。
 美幸にとって、今年は過去最高に憂鬱な年であったが、その分記憶にも残った。木下がいなくなってから、どうなる事かと思ったが、無事に一年間突っ走る事が出来た。
 憂鬱で大変ではあったが、その分やりがいも感じられ、課のみんなとも距離感が近くなった気がする。いつもは、見えない壁というものを感じていたが、少しずつ感じなくなった様な気がする。少し達成感に近いものを自分に感じていた。
 
 年度末は、達成感と同時に別れも付き物であった。
「皆さん、業務中すいません。人事異動の連絡をします。」
 作業をしていた者が、一斉に手を止める。
 課長から今年度の人事異動が発表される。その他の職員は、美幸以上に固唾を呑んで見守っていた。
 県庁は、およそ三年周期の異動であったので、誰が異動になるかは大体分かっていた。それでも、緊張が入り交じる。
 美幸の係は、係長の佐藤だけが異動となった。大体見通しはついていたが、いざ名前を告げられると、本当に異動なんだと急に実感が湧いてくるの同時に、どこか物寂しい感情が募ってくる。折角仲良くなり始めたのに、残念だと心底思った。それに比例して、寂しさを感じ、少し涙が出てきた。
 これは、何度経験しても慣れないものであった。課からは、佐藤の他に五人異動した。
 噂によると、次に赴任してくる係長は、仕事もでき、優しい人と評判が高かった。
 新入職員の二人も頼もしい存在になり、一年間の荒波に揉まれたおかげで、どこか精悍な顔つきをしていた。新人の初々しさは、あまり感じられなくなっていき、成長している姿に嬉しさを感じるのと同時に、一年間がもうすぐ終わろうとしているのかと名残惜しい感情にもなった。最初の方は、どこか頼りなく感じる新入職員の子達が、毎日の業務に真剣に取り組むことで、言葉使い、説明が上手になったりと次第に社会人らしくなり、大きな存在になっていく。 このような新入職員が成長していく過程を見るのも好きであった。どこか子供を見守る親の気分になるからだ。
 この二人に加えて、ベテランの今別府もいる。係は、より盤石になるなと思った。
 それでも県庁は、毎日不測の事態に陥るので、一致団結して立ち向かっていかなければならない。
 
 いよいよ今年度の最終出勤日である三月三十一日となった。
 最終日だからといって、学生の時みたいに特別な日という感じは無かった。ただ、いつも通りの日常と変わらず、驚くほどあっさり時間が過ぎていった。気付けば、勤務終了間近であった。
 勤務終了後、課の離任式が行なわれた。異動となる職員が前列に並んだ。課長補佐から、異動する課の紹介が述べられた後、異動となる職員が挨拶を述べた。
 異動となる職員に、涙の影はなく、やり切ったとどこか清々しい表情をしていた。退職する者でもいれば、もっとしんみりとするかもしれないが、美幸は今の所は経験がない。

 離任式が終わった後、美幸は、佐藤にお礼の手土産を渡しに行った。
「三年間、お疲れ様でした。お忙しい中、いつもありがとうございました。これ、良かったら。」
「ええ。いいんですか。ありがとうございます。森さんこそ、お疲れ様です。この課では、色んな事がありましたね。」
とどこか頭の中で、三年間の清算をしている様であった。
 美幸も同時に、思い出を振り返っていた。少ししんみりとした気分になった。
「折角仲良くなれたと思ったんですけど。寂しいですね。」
「私としても、残念です。」
と佐藤は少し目に涙を浮かべていた。
 美幸もその姿を見て、目が潤んだ。美幸が手を差し出し、握手をした後、熱い抱擁をかわした。
 その姿を見て、係の者だけでなく、その課にいるものの目に熱く光るものがあった。

 別れの余韻を引きずる間もなく、数日後に着任式が行なわれた。
 新しい顔ぶれが前に並んだ。時期的には、大抵桜が綺麗に咲く頃である。
 美幸は、一年の中で、この時期が一番好きであった。
 特に、新しく赴任してきた職員の後ろの窓に映る何本もの桜が、まるで新しい顔ぶれを歓迎するかの如く、風に揺られて、舞い踊っている情景を見るのが好きであった。窓を閉めてはいるが、いつもほんのりと淡い桜の香りが漂ってくるかのように感じられる。

 それから、一週間の月日が経った。
 美幸は、勤務開始時間よりも少し早く、出勤した。
「おはようございます。いつも朝早くからご苦労様です。」
「おはようございます。」
 既に、新しい職員の多くが、席に溶け込んでいた。毎日多くの職員が、朝早くから県民の為に魂を削りながら、仕事に身を注いでいる。

 勤務開始まで、少し時間があったので、コーヒーを淹れた。席で、ゆっくりコーヒーを飲みながら、課を見渡した。また、四月からどんなドラマが始まるのかなと期待と不安の両方が入り交じりった感情を持った。
 コーヒーを飲み終えた後、勤務開始の合図がなった。
 「森さん、すいません。少しお願いしたい事があるんですが。」
 「はいよ。」
 また新しいドラマが始まる。

#創作大賞2024 #お仕事小説部門


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