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きゅうりが美味しく感じるとき

パスタランチにセットで付いてきた、ミニサラダのきゅうりを食べた私は驚いていた。
メインのボロネーゼより、コンソメスープより、そのきゅうりが群を抜いて美味しかったのだ。

「きゅうり、美味しい!」
興奮して同僚に伝えると、同僚もスライスされたきゅうりを口に入れ、考えるように咀嚼した。
「これは、普通に美味しいきゅうりだね」
「うそっ」

私は生野菜を好んで食べない。
夏場はトマトにきゅうり、レタスを食べたくなることもあるけれど、冬になると極端に食べなくなる。
理由として、根菜のほうが好きだということ、寒がりだということがある。
できれば鍋やお味噌汁に入れて火を通したい。
しかし、こんな風に生のきゅうりの美味しさに感動したことが過去にもあったことを、もう一枚のきゅうりをやっぱり美味しいと噛み締めながら思い出していた。

以前働いていた職場で、お世話になっている先輩が今月いっぱいで辞めると突然聞いた日のこと。
退社していく先輩をすんでのところで呼び止めた。
「先輩、辞めるんですか」
先輩とは時間が合えばランチに行ったり、すれ違いざまに愚痴をこぼし合う仲だった私は、どうして話してくれなかったのかということが寂しくて、複雑な顔をしていたと思う。
「実家に帰ることにしたんだ。引っ越す前に遊びに来てくれる?」
先輩は困ったように笑っていた。

何日か後、私は先輩のワンルームマンションを訪れた。
シンプルなモノトーンの服を好む先輩の部屋は、思っていたよりもずっと物や色に溢れている。
テーブルの上には先輩が頼んでおいてくれたピザと、私が来る途中に買ってきたケンタッキーが並んだ。

先輩がビールをとりに向かったキッチンに目をやると、カウンターの上の小皿にカットしたきゅうりがちょこんとのってラップがしてあるのが目に入った。
「これ食べたい」
小皿を持ち上げてキッチンの先輩に向けると
「そんなの食べたいの、残り物だけど」
スッピンで冷蔵庫の扉の陰から顔を出した先輩は、会社にいる時よりずっと明るい表情をしている。

小皿のラップを剥がし、きゅうりを口に放り込んだ私はその美味しさに驚いた。シャクシャクと噛めば噛むほど水分が溢れて、ほんの少し塩味を感じる。
「うわ、美味しい。全部食べていいですか?」
生まれて初めてきゅうりを口にしたような私の反応に、先輩は笑って
「ああ、そういうものが食べたいのね」と納得したように言うと、廊下にある実家から送られてきたというダンボールの中からきゅうりを一本とってきて、サッと洗ってカットし、氷水を張ったボウルに少量の塩ときゅうりを浸けて冷やして皿に盛りつけ出してくれた。
ヘタの部分の硬い皮は丁寧にむかれ、たった今、氷水からあげられたきゅうりは瑞々しくピカピカに光っている。
それは今まで目にした中で、一番美しいきゅうりでもあった。

先輩が辞めていく理由、私に話さなかった理由はもう何となく聞いていた。
だから過度に心配したり、未練がましいことは言わずに笑って送り出そう、そういう気持ちで先輩のマンションにやってきた。
ところが先輩は魔法使いのように、私の身体が欲しがっているものを察して、一瞬で「さあどうぞ召し上がれ」と目の前に出してくれた。
「ああ、そういうものが食べたいのね」
それは私自身が知らないことだった。
この人に何を心配することがあるのだろう。
そこまで頭で考えられたわけではないけれど、私の心はハッキリと感じていた。先輩は大丈夫だと。

あの日のような美味しいきゅうりには、なかなか出会えない。だけど自分に足りていない栄養を美味しく感じるということは、あの日先輩から教えてもらったことだ。

本を読んでも、芸術に触れても、どこかの偉い人が言ったためになる話も、全てを記憶することはできない。
それでも自分にとって必要なこと、大切だと感じることは自分の身体が知っていて、どこかに引っかかり、ふとした瞬間に蘇るものではないだろうか。
一旦流してしまったとしても、忘れてしまったとしても、またいつかたどり着くのだと思う。

私の身体は忘れていなかった。
あの日のきゅうりの美味しさを。
「そういうものが食べたいのね」と俯き加減に微笑んだ、先輩の表情を。


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