0.Hello純文学

 これから純文学を読んだり、書いたり、語ったりしていく。だから純文学を読む上でのステップを、読者の皆と共有しておきたい。純文学はコムズカシイ?勿論そうだよ。でもそこにはちゃんと理由がある。深く青い意識の世界を、一緒に見にいこう。

 最初に。純文学は芸術性を希求する文章である。わかりやすく言えば、何か書きたい事があってそれを形にしたいって事だよね。表現すること、普段は意識の内側に澱んでいるものを外に出すこと。作者としてはそれに価値がおかれがちだし、読者としても表現と向き合わなくちゃいけない。
 純文学を読むにはまず、他人の事を他人事のまま受け入れる力が必要。本を読んでて何にでも自分に重ねちゃう人は良くいて、それで共感できなかった〜とかはそもそも本旨から外れてるんだよね。何か文章全体を通して表現したい事があって、そこに耳を傾ける。それが読者としての作品に対するマナーだったりする。絵の鑑賞とかだってそうでしょ?君が読んでいて気持ちがいいかとか、君が嫌な気持ちにならないかとかは考えられてない。
 自分に向けてチューニングされてないのに、どうやって楽しむの?というそこの君たち。答えは簡単。自分が他人の世界にチューニングすること。他人の世界の内側にまで入って、ままならぬ意識の根源が引きずり出されるのを見るという作業。それは中々文学以外じゃ実現されにくかったりする。表現というのは表に出す事なんだから、なかなか表に出てこない事を世界に出せたら、それには価値があるって思われるのはわかりやすいよね。逆によく表に出てくるものでも、より質の良いものを探すという方向性もあって道はどちらでもいい。
 純文学は釣りに似ている。意識という大海原で、魚がかかるのを待つ。作者としては気長に待って、時折海を変えたり釣り方を工夫したりする。読者はその過程を楽しんで、釣れた魚を楽しむ。当たり前であればある程良く見るのだからつまらない。でもつまらなくても味が美味しければそれでよかったりする。そんな感じだ。せっかちな作者は素潜りのままどこまでも深く潜っていって、酷く変わっていたり光っている魚を採ってきたりする。大抵は水圧で体がボロボロになっていくけど、力に負けずに克服する超人もいたりするんだよね。

 今の話を読んで、つまんねーと思った人。それは他人事を聞く力がないんだよね。エンタメ小説は本能に訴えかける。わかりやすくて、脳の欲求を満たしてくれる。読んでいて脳に刺激がいく。気持ちがいい、だから読む。夢小説みたいに勝手に自分用にチューニングされてて、毒にも薬にもならないものが頭に入る。作者の表したい事より、自分が読みたい事が優先される。だから読者も自分が読みたい部分しか拾わない。煩わしい部分は読み飛ばされる。 君がつまらないと吐き捨てた部分は、作者にとっての作品の核だったのかもしれないのに。そんな事があってもエンタメなら許される。純文なら許されない。それはコンセプトの否定になるからね。

 純文学はぶっちゃけ馬鹿には読めない。その理由は簡単で、表現という曖昧で抽象的なものを自分の中で噛み砕いて理解するという作業が必要だから。そして根気もいる。他人の話に深く耳を傾ける根気が。だから、純文学の層はインテリで寂しがりな人間が多くなる。

 こんな回りくどくて面倒な純文学を何故読むのか?それは純文学が、他人の心の形を変えてしまうものだから。そして、その魔法に魅せられてしまうから。だから僕達は純文学を読む。一度読んだら、前の自分には戻れない。他人の世界に入った君は、少しずつ他人が混ざっていく。自分の心にも深く潜るようになるかもしれない。そうして気づいてしまう。心という海の、どうしようもない美しさに。

 美しい瞬間は目に焼き付いて、心の形を変える。校舎裏、なんでもないようだった子が君の目の前で飛び降りた。後日、君はどうして何もないように見えた彼女が死にたかったのか克明に知る事になる。そんな出来事は、君の心の形を変える。前には戻れない。人間は受け入れたものでできている。だからその人の深く深くまで知ってしまうと、一部分がその人になってしまう。

 深く深くまで、他人の事を知る為に、僕達は純文学という回りくどくて面倒な道を選んだ。だから純文学の読み手は、どこまで自分が読む前から変わってしまったのか。そんな事を振り返ればいい。作者の表したい事が伝わって、より深く自分と他人に潜れるようになる事もある。作者の表したい事を知覚した瞬間に、君は作者に近づいていく。

 心の変容を、どうか楽しんで。

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