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わたしの好きなものもの・8

エピソード8
植物

朝晩はまだ冷えるけれど、日中はだいぶ、というかかなり春めいてきた。
実を言うと春はあまり好きではない。
春だよ、寒い冬が終わったよ、嬉しいでしょ? ありがたいでしょ?
という感じがなんだ恩着せがましい感じがするし、元塾講師としては、春は別れの季節であり、生徒はどんどん入れ替わっていくのに自分はそこに留まったままなのが、置いてけぼりを食らったような、わたしだけいつまでも変わらなくていいの? みたいなそんな気分になって鬱屈としてしまう。それに生徒と自分の年齢がどんどん離れていくのも正直言ってしんどかった。しかし植物を育てるようになると、それこそ春の「ありがたいでしょ?」に対して「はい仰る通りでございます、ありがとうございます」と素直に言えるようになっていた。

わたしは植物が好きだ。
部屋には観葉植物や多肉植物が年々増殖していっている。株分けをして家族に分ける(押しつける)のも好きだし、鉢増しして大きく育っていく様を眺めるのも好きだし、管理に失敗して冬のあいだに召されてしまった鉢植えをRIPと思いながらもそのままにしていたらいつのまにか新芽が出ていることに気づいたあの瞬間の、おまえ生きてたのか! みたいな何とも言えない喜びもとても好き。(もちろん、冬のあいだもしっかり管理してすべてに春を迎えてもらえるのが一番良いのだけれど……)

そんなふうに冬眠から、あるいは永遠の(と思われた)眠りから覚める植物の生命力を目の当たりにしたとき、いつだって思い出されるのはシャーウッド・アンダーソンの短編『トウモロコシの種蒔き』だ。これは、息子の訃報を伝え聞いた老夫婦が、寝間着姿のまま庭に出て、月明りの下でトウモロコシの種を蒔くという話で、わたしはこれをホラーだと認識していた。耐え難いほどの悲しみは、人をかくも狂わせるのか、と。

そののち、わたしの祖母が病気になった。その年の年末に退院し、しばらく家で療養していた祖母が、ちょうどいまくらいの時期に、やはりパジャマ姿のまま庭先に出て植物の種を植え始めたことがあった。はじめは祖母が混乱し始めたのだと思った。でも祖母はいたって正気だった。そこで思い出したのが、くだんの短編だ。もしかしたら祖母もまた、あの老夫婦と同じ気持ちだったのかもしれない。失われた命、失われつつある命を、大地に、次なる芽吹きに託したのかもしれない。それから間もなくして、祖母はふたたび入院し、そして芽吹きを見ることなくこの世を去った。

5年ほど前、今度はわたしが患った。幸いにしてすべてのことはうまく運び、いまこうしてとりとめもない文章を書き連ねることができているわけだが、それまでの「やがて人は死ぬ」という漠然とした認識が、いわゆる告知を受けた瞬間からはっきりと「いつかは自分も死ぬ」という認識に変わった。その頃からだ、わたしの部屋に植物が増え始めたのは。ただ、大地に託すとか、次なる芽吹きに期待をするとか、そんな大げさな思いはなかった。生命、それ自体にただただ囲まれたかった。むくむくと漂い始めた死の気配を、圧倒的な生命力でかき消してしまいたかった。ひょっとしたらあの老夫婦も祖母も、そんなふうに無意識に死を薄めようとしたのではないだろうか。

春は目覚めの季節。冬のあいだじっとしていた部屋の緑たちも、徐々に眠りから覚め始めた。今年は誰一人欠けることなく冬を越せたようだ。例年よりもずいぶんと遅れて花開いたオンシジュームの甘い香りが、部屋いっぱいに広がっている。パキラからは小さな手が伸び、サボテンはその刺々しい姿に似つかわしくない淡いピンクの花をいつのまにかつけている。おはよう生命、元気に育って盛り上げておくれよ。そして初めまして新入りさん。今日から我が家の一員として一緒に思い切り生きよう。

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